第二十六話 広がる名
朝。
アルヴェインは畑の端で、古い鍬を眺めていた。
「……そろそろ替え時か」
刃の先が少し丸くなっている。
長く使った。
土を耕すには十分だが、もう少し使いやすいものが欲しい。
「アルヴェイン」
声がして振り向く。
ノアだった。
「鍛冶屋の仕事を持ってきた」
「早いな」
「お前が頼んだんだろ」
ノアは新しい鍬を差し出した。
「試してみろ」
アルヴェインは受け取る。
土へ入れる。
すっと刃が入った。
「……いいな」
「当然だ」
ノアは腕を組む。
「前に作ったやつも評判がいい」
「農具が評判になるのか?」
「使いやすい農具は評判になるんだよ」
「そういうものか」
アルヴェインは鍬を眺めた。
その横からミレアが覗き込む。
「新しい鍬?」
「ああ」
「じゃあ、古いのは?」
「まだ使える」
ノアが呆れた顔をする。
「捨てろとは言わんが、農具まで大事にしすぎだ」
「長く使えば愛着が湧く」
「……妙なところで老人らしいな」
アルヴェインは笑った。
◇
少し離れた場所からトーマが走ってくる。
「アルじいちゃん!」
「どうした?」
「豆のところ、見て!」
アルヴェインが立ち上がる。
「何かあったか?」
「花が咲いた!」
「本当か」
二人で畑へ向かう。
小さな花がいくつか咲いていた。
「きれいだな」
ミレアも近づいてくる。
「実ができるかな?」
「うまくいけばな」
「いつ?」
「まだ先だ」
「えー」
トーマが残念そうな顔をする。
アルヴェインは笑った。
「急いでも早くならない」
「でも早く食べたい」
「それなら、待つことを覚えろ」
「畑って難しい……」
「そうだろう?」
アルヴェインは満足そうに頷いた。
ノアがそれを見て笑う。
「お前、本当に畑の話になると楽しそうだな」
「そうか?」
「ああ」
アルヴェインは答えなかった。
ただ、小さな花を眺めていた。
◇
その日の昼。
エマが薬草を見にやってきた。
ミレアが水を運び、トーマが畑の端を走り回る。
少し遅れてカイルとリンも来た。
「アルヴェインさん!」
カイルが声を上げる。
「何だ?」
「昨日教えてもらった動き、少し分かりました!」
「そうか」
「相手の足を見るんですよね」
「ああ」
リンが横から言う。
「カイル、昨日からずっとそればかりやってるの」
「だって重要なんだぞ」
「分かったから、畑の仕事もして」
「……はい」
アルヴェインは小さく笑った。
畑の周囲に人がいる。
以前なら考えもしなかった光景だった。
「……人が増えたな」
アルヴェインが呟く。
ミレアが振り向く。
「嫌なの?」
「いや」
少し考える。
「悪くない」
そう答えて、アルヴェインは畑へ戻った。
◇
――数十年前。
戦場。
王国軍の天幕の中で、地図が広げられていた。
「敵はここから来る」
若いアルヴェインが指を置く。
「本当に?」
ラウルが聞く。
「ああ」
「根拠は?」
「風向き」
「風?」
「それと地形」
アルヴェインは地図の端を指した。
「昨日の雨で、この谷はぬかるんでいる」
「だから?」
「大軍は通らない」
リディアが地図を見る。
「……なるほど」
「それと」
アルヴェインは別の場所を指した。
「ここには足跡があった」
「いつの間に?」
「昨日見た」
ラウルが呆れた顔をする。
「お前、いつも何を見てるんだ?」
「いろいろだ」
「答えになってないぞ」
セレナが笑う。
「アルは昔からそうよ」
「そうなのか?」
「そう」
セレナは頷いた。
「目の前にあるものを、全部見ようとするの」
アルヴェインは黙って地図を見る。
「敵はここを通る」
その判断は当たった。
◇
魔王軍が現れる。
予想通りだった。
「来たぞ!」
王国軍が動く。
ラウルが前線へ。
リディアが魔法陣を展開する。
セレナが後方へ向かう。
アルヴェインは全体を見る。
「まだ動かない」
「何?」
ラウルが聞く。
「敵は誘っている」
魔族の一部がわざと前へ出ている。
その背後には伏兵。
「右へ回る」
アルヴェインの指示で部隊が動く。
敵の伏兵が空振りする。
「今だ!」
王国軍が一斉に攻撃。
敵の陣形が崩れた。
大規模な魔法は使っていない。
ただ。
敵より先に考えた。
それだけだった。
◇
戦いが終わる。
兵士たちが戻ってくる。
「助かった」
「あの魔法使いのおかげだ」
「またあいつが敵の動きを読んだらしい」
噂が広がっていく。
「大賢者アルヴェイン」
誰かがそう呼んだ。
また別の場所でも。
「大賢者がいるぞ」
「例の四人組か?」
その名が、少しずつ広がっていた。
アルヴェイン本人の知らないところで。
◇
「なあ、アル」
夜。
焚き火の前でラウルが言った。
「なんだ?」
「最近、お前の名前ばかり聞くぞ」
「そうか?」
「そうだ」
ラウルは笑った。
「大賢者アルヴェイン」
「やめてくれ」
「なんでだよ」
「落ち着かない」
セレナが笑う。
「でも、仕方ないんじゃない?」
「何が?」
「アルが目立つから」
「目立ちたくない」
「無理だと思う」
リディアも頷く。
「同感」
アルヴェインはため息をついた。
「……面倒だな」
三人が笑う。
その笑い声を聞きながら、アルヴェインも少しだけ笑った。
この時はまだ。
それがどれほど大きな名前になるのか、誰も知らなかった。
◇
数日後。
王都。
一人の王国高官が報告書を読んでいた。
「大賢者アルヴェイン……」
机の上には、戦場から届いた報告が積まれている。
「魔法の威力だけではない」
別の男が言う。
「敵の動きを読み、味方の損害を減らしている」
「四人組の他の三人は?」
「剣士ラウル。魔法使いリディア。治癒術師セレナ」
「なるほど」
高官は報告書を閉じた。
「この四人を、もっと前線へ」
その言葉が。
アルヴェインたちの運命を、少しずつ変えていくことになる。
◇
――現在。
夕方。
アルヴェインは畑に水をやっていた。
ミレアが隣で尋ねる。
「アルじいさん」
「なんだ?」
「昔って、どんな魔法を使ってたの?」
アルヴェインの手が止まる。
「いろいろだ」
「攻撃魔法?」
「それも使った」
「今は?」
「今は水やりだ」
「それ、魔法じゃないよ」
「だから難しいんだ」
ミレアが笑う。
「変なの」
アルヴェインも笑った。
過去。
自分の名前は大きくなっていった。
大賢者。
戦場の英雄。
やがて、それはもっと大きなものになっていく。
けれど今。
アルヴェインの手にあるのは、杖ではなく水桶だった。
水が土へ染み込んでいく。
「……これでいい」
アルヴェインは満足そうに畑を眺めた。
その頃、遠い王都では。
彼を呼ぶための使者が、すでに動き始めていた。




