第二十三話 戦争の始まり
朝。
アルヴェインは畑の土を指でつまんでいた。
「……少し乾いてきたな」
昨日より風が強い。
水をやる量を少し増やしたほうがいい。
アルヴェインは立ち上がり、桶を手に取った。
「アルじいさん」
ミレアが声をかける。
「今日は水やり?」
「ああ。午前中はそれで終わりだ」
「分かった」
ミレアが桶を持つ。
トーマも小さな桶を持ってきた。
「俺もやる!」
「こぼすなよ」
「こぼさない!」
そんな二人を見ながら、アルヴェインは笑った。
いつもと変わらない朝だった。
――だからこそ。
アルヴェインは思う。
昔も、そうだった。
戦争が始まる、その日の朝までは。
◇
数十年前。
街の空は、青かった。
若きアルヴェインは、宿の窓から外を眺めていた。
「今日はいい天気ね」
セレナが隣で言う。
「ああ」
「どこへ行く?」
「南へ」
「目的は?」
「特にない」
セレナが呆れた顔をする。
「アルらしいわ」
「何がだ?」
「行き先を決めてから旅をするんじゃなくて、旅をしながら行き先を決めるところ」
「悪いか?」
「悪くないわ」
セレナは笑った。
その時だった。
街の中心から、鐘の音が響いた。
――ゴーン。
アルヴェインが窓を見る。
「……?」
二度。
三度。
鐘が鳴る。
ただの時刻を知らせる鐘ではない。
街中に響き渡る、緊急の鐘だった。
「何かあったのかしら」
セレナが呟く。
宿の外が騒がしくなる。
人々が走っている。
「魔族が出たらしいぞ!」
「国境の町が襲われた!」
「軍が動くそうだ!」
アルヴェインは窓を開けた。
遠く。
街の門の向こうから、黒い煙が上がっている。
「……魔王軍か」
セレナの表情が変わった。
「アル」
「ああ」
部屋を出る。
◇
通りには人が溢れていた。
兵士たちが慌ただしく走っている。
武器を運ぶ者。
負傷者を運ぶ者。
家族を探す者。
不安そうな顔をした子供たち。
そんな中を、若いラウルが駆けてくる。
「アル!」
「ラウル」
「聞いたか?」
「ああ」
「国境の町が落ちたらしい」
続いてリディアもやってきた。
「正確には、落ちたのではなく放棄されたそうよ」
「違いがあるのか?」
ラウルが聞く。
「あるわ」
リディアは淡々と答えた。
「敵に占領されたのか、住民を逃がすために撤退したのか。意味が違う」
「なるほど」
アルヴェインは黙っていた。
「どうする?」
ラウルが尋ねる。
「どうするって?」
「俺たちだよ」
ラウルは剣を握る。
「このまま何もしないのか?」
セレナが三人を見る。
「私は行く」
リディアも頷いた。
「私も」
三人の視線がアルヴェインへ集まる。
アルヴェインはしばらく考えた。
そして。
「行こう」
それだけ言った。
◇
国境へ向かう道。
四人は歩いていた。
道には、街を逃げてきた人々がいた。
荷車。
馬車。
老人。
子供。
泣いている者もいる。
アルヴェインはその光景を黙って見ていた。
「アル」
セレナが隣に並ぶ。
「何?」
「怖い?」
「……分からない」
「そう」
「セレナは?」
「怖いわよ」
意外な答えだった。
「でも」
セレナは前を見る。
「怖いからって、何もしない理由にはならないでしょう?」
アルヴェインは少しだけ笑った。
「そうだな」
◇
夕方。
四人は小さな村へ到着した。
そこには、魔族の小部隊が入り込んでいた。
「敵だ!」
ラウルが剣を抜く。
アルヴェインも杖を構える。
敵が一斉に襲いかかってくる。
「ラウル、正面」
「任せろ!」
「リディア、左」
「分かった」
「セレナは村人を」
「了解」
アルヴェインが一歩前へ出る。
杖を振る。
風が巻き起こった。
魔族の足元から土が盛り上がり、動きを止める。
ラウルが斬り込む。
リディアの魔法が敵を吹き飛ばす。
セレナは負傷した村人を治療する。
四人は、初めて戦った時よりも遥かに息が合っていた。
最後の敵が倒れる。
静寂。
ラウルが息を吐いた。
「……終わった」
だが。
アルヴェインは周囲を見ていた。
「終わってない」
「え?」
アルヴェインが空を見る。
「煙が多すぎる」
遠く。
いくつもの場所から煙が上がっていた。
一つではない。
二つでもない。
いくつもの村。
いくつもの町。
「……こんなに?」
リディアが呟く。
アルヴェインは答えなかった。
ただ、遠くを見ていた。
◇
その夜。
村人たちは四人に食事を用意してくれた。
質素な食事だった。
パン。
スープ。
少しの野菜。
「ありがとう」
セレナが頭を下げる。
村の老人が言った。
「こちらこそだ。助かったよ」
ラウルは食事をしながら笑う。
「これなら明日も戦えるな」
リディアが呆れる。
「食事の目的が戦うことになってるわよ」
「いいだろ」
アルヴェインは黙ってスープを飲んでいた。
すると。
一人の小さな女の子が近づいてきた。
「あの……」
アルヴェインを見る。
「どうした?」
「お兄ちゃんたち、また来てくれる?」
アルヴェインは答えに困った。
セレナが隣で微笑んでいる。
「どうかな」
アルヴェインが言う。
「でも、困った時は助けに来る」
少女は嬉しそうに笑った。
「約束?」
「ああ」
アルヴェインは頷いた。
その夜。
アルヴェインは眠れなかった。
◇
外へ出る。
夜空には星が見えていた。
隣にセレナがやってくる。
「眠れない?」
「ああ」
「私も」
二人は並んで座った。
「アル」
「何だ?」
「これから、大変になると思う」
「分かっている」
「それでも行く?」
「ああ」
アルヴェインは遠くを見る。
「さっきの子供を見ただろ」
「うん」
「俺たちが何もしなければ、あの子も逃げることになる」
「そうね」
「だから行く」
セレナは少し笑った。
「やっぱりアルね」
「何がだ?」
「優しいところ」
「俺は別に――」
「はいはい」
セレナが笑う。
アルヴェインも小さく笑った。
この時はまだ。
四人は、自分たちがどこまで戦うことになるのか知らなかった。
ただ。
目の前にいる人たちを守りたかった。
それだけだった。
◇
数日後。
王国軍から正式な命令が届いた。
魔王軍の侵攻が広範囲に及んでいる。
各地で戦闘が発生。
王国は総力を挙げて迎撃する。
そして。
四人にも招集がかかった。
ラウルは手紙を読み終えると、立ち上がった。
「行こう」
リディアが頷く。
「そうね」
セレナはアルヴェインを見る。
「アル?」
アルヴェインは杖を手に取った。
「行こう」
四人は歩き出した。
まだ若かった。
まだ何も知らなかった。
自分たちの名前が、いつか歴史に刻まれることも。
アルヴェインが「大賢者」と呼ばれることも。
そして。
この戦争が、彼らから多くのものを奪うことも。
何も知らずに。
ただ、四人で歩いていた。
◇
――現在。
夕方の畑。
アルヴェインは一人で土を耕していた。
鍬を振る。
土が返る。
また振る。
戦場とは違う。
ここには鐘もない。
叫び声もない。
剣の音もない。
ただ、土の音だけがする。
「……こっちのほうがいいな」
アルヴェインは小さく笑った。
その背後を、ガルが通り過ぎる。
アルヴェインは振り返る。
「どうした?」
ガルは何も言わず、畑の端に伏せた。
「そうか」
アルヴェインは再び鍬を握る。
遠い昔。
戦争の始まりの日。
自分は世界を守るために杖を握った。
今。
自分は小さな畑を守るために鍬を握っている。
「……ずいぶん変わったものだ」
アルヴェインは、静かに土を耕し続けた。




