第二十一話 村長の夜
その夜。
畑仕事を終えたアルヴェインは、家の前に置いた椅子に腰を下ろしていた。
夜風が静かに吹いている。
昼間は人の声が絶えない畑も、今は眠っているように静かだった。
アルヴェインは小さな杯に酒を注ぐ。
「……今日は少し疲れたな」
畑の隅では、ガルも丸くなって眠っている。
その時だった。
「アルヴェイン」
道の向こうから声がした。
「……ガルド?」
村長が歩いてくる。
手には一本の酒瓶。
「まだ起きているか?」
「ああ」
「少し付き合え」
アルヴェインは酒瓶を見る。
「村長がこんな夜に酒を持ってくるとはな」
「たまにはいいだろう」
「ミレアに見つかったら怒られるぞ」
「だから夜なんだ」
二人は顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑った。
◇
家の中。
二人は向かい合って酒を飲んでいた。
「畑はどうだ?」
ガルドが尋ねる。
「順調だ」
「人も増えたな」
「増えすぎだ」
「そう言いながら嬉しそうじゃないか」
「気のせいだ」
「そういうことにしておこう」
アルヴェインが酒を口にする。
「ミレアは?」
「元気だ。お前のところへ行くのが日課になっている」
「そうか」
「トーマもだ」
「あいつは畑を荒らさなくなった」
「成長したな」
二人はしばらく、村の話をした。
今年の作物。
村の水路。
冬支度。
ノアの鍛冶場のこと。
カイルとリンのこと。
どれも、穏やかな話だった。
だが。
ガルドはやがて黙り込んだ。
杯を置く。
「……アルヴェイン」
「ああ」
「少し聞きたいことがある」
「何だ?」
ガルドはまっすぐアルヴェインを見る。
「お前、自分が誰なのか分かっているのか?」
アルヴェインは眉を上げた。
「随分と変な質問だな」
「とぼけるな」
「とぼけてない」
しばらく沈黙が続いた。
やがてガルドが言った。
「俺は気づいた」
アルヴェインの手が止まる。
「……何に?」
「お前が、アルヴェイン・グランだということに」
アルヴェインは黙っていた。
否定しない。
ただ、酒を一口飲む。
「そうか」
「やっぱりそうなんだな」
「……いつ気づいた?」
「確信したのは、あの杖を見た時だ」
アルヴェインの目がわずかに細くなる。
「昔の杖か」
「ああ」
ガルドは遠くを見るような目をした。
「俺は若い頃、魔王討伐軍にいた」
「知っている」
「お前と同じ戦場に立ったこともある」
「直接話したことは?」
「ほとんどない」
「そうだったか」
「だが、戦場では何度も見た」
ガルドは指を折る。
「魔法の使い方」
「敵の動きを読む速さ」
「味方を逃がす判断」
「そして、あの杖」
アルヴェインは黙って聞いている。
「一つだけなら偶然だ」
ガルドが言う。
「だが、全部重なれば分かる」
アルヴェインは小さく笑った。
「観察力が良すぎるな」
「村長だからな」
「関係あるか?」
「ないな」
二人はまた笑った。
◇
ガルドは酒を飲んだ。
「安心しろ」
「何がだ?」
「誰にも言わない」
アルヴェインはガルドを見る。
「どうして?」
「お前が言いたくないなら、それでいい」
「……」
「俺も戦場にいた」
ガルドは静かに続ける。
「戦争が終わったからって、失ったものが戻ってくるわけじゃない」
アルヴェインは杯を見つめた。
「そうだな」
「だから、お前がここで畑を作っているなら、それでいい」
「村長らしい答えだ」
「村長だからな」
「便利な言葉だな」
二人はまた酒を飲んだ。
◇
しばらくして。
アルヴェインがぽつりと言った。
「昔は、今より忙しかった」
「ずいぶん簡単に言うな」
「本当のことだ」
「魔王軍と戦っていたんだろう?」
「ああ」
アルヴェインの視線が遠くなる。
記憶の中。
若い自分がいた。
手には、あの杖。
周囲には荒れた大地。
その隣に、一人の少女が立っている。
銀色の髪。
治癒魔法を使う手。
そして、穏やかな笑顔。
セレナ。
アルヴェインがかつて旅をした仲間。
その隣には剣を握るラウル。
少し離れたところには魔法の準備をするリディア。
三人と一人。
あの頃は、それが当たり前だった。
「……仲間がいた」
アルヴェインが呟く。
「セレナか?」
「ああ」
ガルドは何も言わない。
「ラウルもいた」
「将軍になった男だな」
「そうだ」
「リディアも?」
「ああ」
アルヴェインは少し笑った。
「昔は、もっとよく笑う奴だった」
「今も厳しいのか?」
「たぶんな」
ガルドが笑う。
「会いたくないのか?」
アルヴェインは答えなかった。
◇
しばらくして。
「セレナに聞かれたことがある」
アルヴェインが言った。
「何を?」
「戦わなくていい日が来たら、何をしたいのかって」
ガルドは黙って聞いている。
「当時の俺には、答えられなかった」
「どうして?」
「戦うことしか知らなかったからな」
アルヴェインは杯を傾ける。
「魔法を覚えて、敵を倒して、誰かを守る」
「それがずっと続くと思っていた」
少し間を置く。
「だから、戦わなくていい日が来るなんて考えたこともなかった」
ガルドが静かに尋ねる。
「それで今は?」
アルヴェインは窓の外を見る。
月明かりに照らされた畑。
「今なら分かる」
「何が?」
「何をしたかったのか」
「……」
「畑を作りたかったんだろうな」
ガルドは吹き出した。
「ずいぶん遠回りしたな」
「ああ」
アルヴェインも笑う。
「本当に」
◇
夜も深くなった。
ガルドが立ち上がる。
「そろそろ帰る」
「ああ」
玄関まで見送る。
ガルドが振り返る。
「一つだけ聞いていいか?」
「何だ?」
「なぜ消えた?」
アルヴェインは黙った。
「戦争が終わった後だ」
ガルドは続ける。
「なぜ全部捨てた?」
アルヴェインはしばらく答えなかった。
やがて、
「……今夜はそこまでにしよう」
そう言った。
ガルドは頷く。
「分かった」
問い詰めることはしなかった。
「また飲もう」
「ああ」
ガルドが夜道を歩いていく。
アルヴェインはその背中を見送った。
◇
一人になった家。
アルヴェインは納屋へ向かった。
古い木箱を開ける。
中には、かつて使っていた杖。
月明かりが杖を照らす。
「……忘れたかったわけじゃない」
アルヴェインが呟く。
杖に触れる。
「ただ……」
少しだけ目を閉じる。
「もう終わったことにしたかったんだ」
木箱を閉じる。
外へ出る。
夜の畑には、静かな風が吹いていた。
アルヴェインは畑を眺める。
ここには戦場の音はない。
剣もない。
魔法の爆発もない。
あるのは、土の匂いと風の音だけ。
「……明日は、何を植えるかな」
アルヴェインはそう呟いた。
その声は、静かな夜の中へ溶けていった。




