第二十話 古い杖
朝。
アルヴェインが畑へ出ると、納屋の前から声が聞こえた。
「アルじいさん!」
ミレアだった。
「どうした?」
「トーマが納屋の奥から変な箱を見つけたんです」
「変な箱?」
「これ!」
トーマが両手で抱えている。
古びた木箱だった。
表面には長い年月の埃が積もり、金具には錆が浮いている。
「昨日の整理で見つけたんだ!」
アルヴェインは木箱を見る。
しばらく黙った。
「……そんなところにあったか」
「知ってるの?」
ミレアが尋ねる。
「ああ。昔のものだ」
「開けていい?」
「構わない」
トーマが嬉しそうに蓋へ手をかける。
ぎい、と古い音がした。
中には、布に包まれた一本の杖が入っていた。
◇
ミレアが布をめくる。
「これ……」
古い杖。
長い年月を経ているはずなのに、木にはほとんど傷みがない。
先端には小さな魔石が埋め込まれている。
「アルじいさんが昔使ってた杖?」
「ああ」
アルヴェインは答えた。
その声はいつもと変わらない。
けれど。
杖へ伸ばした手が、ほんの一瞬だけ止まった。
そして杖を握る。
指先に、懐かしい感触が伝わってきた。
冷たい夜。
焼けた大地。
遠くで響く魔法の音。
何度も握った杖。
何度も振るった魔法。
そして――。
アルヴェインは目を閉じた。
「……久しぶりだな」
「アルじいさん?」
「いや」
アルヴェインは目を開ける。
「何でもない」
ミレアは少し不思議そうに見た。
◇
そこへカイルとリンがやってきた。
「おはようございます!」
「おや」
カイルが木箱を覗き込む。
「それ、何ですか?」
「昔の杖だ」
アルヴェインが答える。
「アルヴェインさんが使っていた?」
「ああ」
「へえ……」
カイルは興味深そうに杖を見る。
「これが、昔のアルヴェインさんの杖ですか」
「そういうことだ」
「かなり古いですね」
「長く使っていたからな」
カイルは少し考えた。
「一度、魔法を使ってみてもらえませんか?」
アルヴェインはカイルを見る。
「今か?」
「はい」
「畑仕事の途中だぞ」
「そこを何とか」
「断る」
「即答……」
リンが小さく笑う。
「諦めなさい、カイル」
「でも、せっかく昔の杖が出てきたんですよ?」
「アルヴェインさんが使いたくないなら、それまででしょ」
「そうですけど……」
アルヴェインは杖を見下ろした。
「昔は毎日のように使っていた」
「それなら、また使えばいいじゃないですか」
カイルが言う。
アルヴェインは少しだけ笑った。
「魔法は便利だ」
「はい」
「便利すぎる」
「……?」
「畑仕事とは違うんだ」
アルヴェインは杖を軽く持ち上げる。
「土を耕して、種を植えて、水をやって、芽が出るのを待つ。魔法なら一瞬でできることでも、畑ではそうはいかない」
「確かに」
「だから今は、こっちのほうが面白い」
アルヴェインは鍬を見る。
カイルは苦笑した。
「本当に畑が好きなんですね」
「ああ」
◇
リンは黙って杖を見ていた。
魔法使いが使う杖としては、ずいぶん簡素だった。
余計な装飾がない。
魔力を増幅するための細工も少ない。
なのに。
アルヴェインが握った瞬間だけ、杖の先に淡い光が走った。
一瞬だった。
見間違いかもしれない。
だが、リンは見逃さなかった。
「……アルヴェインさん」
「なんだ?」
「その杖、普通の杖なんですか?」
「昔の杖だ」
「そうじゃなくて」
リンは少し考えてから続けた。
「ずいぶん大事にしていたんですね」
アルヴェインは杖を見る。
「……まあな」
それ以上は答えなかった。
リンも聞かなかった。
ただ一つ。
彼女の中に新しい疑問が残った。
この人は、昔どんな魔法使いだったのだろう。
◇
昼前。
ガルドが納屋へやってきた。
「アルヴェイン」
「ああ」
ガルドの視線が、アルヴェインの手元へ向く。
古い杖。
ガルドの足が止まった。
「……」
ほんの一瞬。
村長の顔から、昔を知る男の顔へ変わる。
アルヴェインも気づいていた。
二人の視線が交わる。
しかし、ガルドは何も聞かなかった。
「古い杖だな」
「ああ」
「まだ持っていたのか」
「忘れていただけだ」
「そうか」
それだけだった。
ミレアが二人を見る。
「おじいちゃん、知ってるの?」
ガルドは孫娘を見る。
「昔、見たことがあるだけだ」
「ふーん」
ミレアは深く考えずに頷いた。
ガルドはアルヴェインを見る。
アルヴェインも何も言わない。
それで十分だった。
◇
午後。
アルヴェインは杖を布で包み直した。
ミレアが尋ねる。
「また使うんですか?」
「どうだろうな」
「せっかく見つかったのに?」
「必要になれば使う」
「必要にならなかったら?」
「しまっておく」
「もったいない」
アルヴェインは笑う。
「そうでもない」
「どうして?」
「使わないで済むなら、そのほうがいいからな」
ミレアは少しだけ考えた。
「……魔法って、そんなに大変なんですか?」
「魔法そのものは大変じゃない」
「じゃあ?」
アルヴェインは答えなかった。
代わりに、畑へ視線を向ける。
「今はこっちがある」
土。
芽。
葉。
風。
そして、人の声。
「それで十分だ」
◇
夜。
村が静かになった頃。
アルヴェインは一人で納屋へ向かった。
木箱から杖を取り出す。
月明かりの下。
昔と変わらない杖が、静かに光を受けている。
「……久しぶりだな」
アルヴェインは杖を握る。
魔力がわずかに流れた。
淡い光が、杖の先で揺れる。
その光を見ながら、アルヴェインは昔を思い出していた。
戦場。
仲間たち。
魔王との戦い。
そして、すべてが終わった後の静けさ。
耳の奥で、懐かしい声がする。
セレナ。
いつも隣にいた仲間。
治癒魔法を使いながら、笑っていた彼女。
「いつか戦わなくていい日が来たら、何をしたい?」
あの時。
アルヴェインは答えられなかった。
何をすればいいのか分からなかった。
戦うことしか知らなかったから。
けれど。
今なら分かる。
アルヴェインは納屋の外を見る。
月明かりに照らされた畑。
小さな芽。
風に揺れる葉。
遠くに見える村の明かり。
「……もう、見つけたよ」
杖を見つめる。
「俺がしたかったこと」
そして、静かに木箱へ戻す。
「だから、お前の出番はもうない」
蓋を閉じる。
木箱を納屋の奥へしまう。
アルヴェインはそのまま畑へ向かった。
夜の畑には、静かな風が吹いている。
アルヴェインは畑を見渡した。
「明日は、豆の支柱を立てるか」
戦場で振るった杖より。
今の彼には、一本の鍬のほうが大切だった。
その頃。
納屋の奥では、古い杖が静かに眠っていた。
そしてその杖は――
アルヴェインがかつて何者だったのかを知る者にとって、
決して忘れられない過去の証だった。
第二部「畑の隣に人が増える」。
ここに、一つの区切りがついた。




