第九話 「あなたは何者?」
翌朝。
アルヴェインは、いつもより少し遅く起きた。
昨日は村で食事をした。
それだけのことなのに、妙に心が温かかった。
「……悪くないな」
そう呟いて、外へ出る。
畑の土は、朝露で少し湿っていた。
アルヴェインは鍬を手に取る。
畝の端を整え、雑草を抜く。
いつもの朝。
特別なことは何もない。
――そのはずだった。
◇
「アルじいさん!」
畑の向こうから、ミレアが歩いてくる。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ、いい食事だった」
「おじいちゃんも喜んでました」
「そうか」
ミレアは畑を見る。
「今日は何をするんですか?」
「この畝を少し広げる」
「手伝います」
「無理をするな」
「大丈夫です」
二人で土を耕し始める。
しばらくは、鍬の音だけが響いていた。
ザクッ。
ザクッ。
ザクッ。
穏やかな朝だった。
ところが――。
「……あれ?」
ミレアが空を見上げた。
「どうした?」
「雨、降ります?」
「まだ降らない」
「でも、雲が……」
西の空に、小さな雲が出ている。
アルヴェインも空を見る。
「夕方には降るかもしれんな」
「分かるんですか?」
「ああ」
「どうして?」
「風が変わった」
アルヴェインはそれだけ答えた。
◇
昼前。
村からガルドがやってきた。
「アルヴェインさん」
「村長か」
「少し聞きたいことがある」
「なんだ?」
ガルドはアルヴェインの畑を見る。
「昨日の夜、村の近くで鹿が暴れていた」
「鹿?」
「ああ。畑を荒らしていたそうだ」
「そうか」
「ところが、今朝には何事もなかったように森へ戻っていた」
「それならいい」
「……それだけならな」
ガルドはアルヴェインを見る。
「今朝、森の入り口に倒れていた大木があった」
「大木?」
「ああ」
「風で倒れたんだろう」
「昨夜は風がほとんどなかった」
アルヴェインは黙った。
「誰かが倒した可能性もある」
「そうだな」
「だが、切った跡もない」
ガルドはアルヴェインの顔を見る。
「不思議だと思わないか?」
「森では、そういうこともある」
「……そうか」
ガルドはそれ以上追及しなかった。
◇
午後。
アルヴェインは畑の水路を作っていた。
夕方から雨が降る。
その前に、水が畑へ流れ込みすぎないようにしておく必要がある。
「ここを少し深くするか」
鍬を入れる。
土を掘る。
その時だった。
ミレアが声を上げた。
「アルじいさん!」
「どうした?」
「水が……」
見ると、水路の一部が土で塞がっている。
「朝はこんなところ、塞がってなかったですよね?」
「ああ」
「どうしましょう?」
アルヴェインはしゃがみ込む。
手で土を触る。
「これは自然に崩れたものじゃない」
「え?」
アルヴェインは周囲を見る。
水路の先。
畑。
森。
そして――。
「誰かが踏んだ跡がある」
「人ですか?」
「いや」
アルヴェインは地面を指差した。
大きな爪の跡。
「……魔物?」
「おそらくな」
ミレアの顔が少し強張る。
「危ないですか?」
「今のところは大丈夫だ」
「どうして分かるんです?」
アルヴェインは答えなかった。
立ち上がる。
「ミレア、少し離れていろ」
「はい」
アルヴェインは森の方を見る。
風が止まった。
鳥の声も聞こえない。
森の奥に、何かいる。
だが――。
アルヴェインは静かに息を吐いた。
「……敵意はない」
「え?」
「大丈夫だ」
◇
しばらくすると。
森の木々の間から、一頭の獣が姿を現した。
大きな狼のような魔物だった。
けれど、以前のガルとは違う。
毛並みは荒れている。
足を引きずっていた。
「怪我してる……」
ミレアが呟く。
魔物は二人を見る。
威嚇することもない。
ただ、じっとこちらを見ている。
「アルじいさん」
「動くな」
アルヴェインは魔物へ近づいた。
「アルじいさん!」
ミレアが止めようとする。
だが、アルヴェインは歩みを止めなかった。
魔物が牙を見せる。
「大丈夫だ」
アルヴェインが静かに言う。
魔物の足元を見る。
深い傷。
「なるほど」
アルヴェインはしゃがみ込んだ。
「罠にかかったな」
魔物が唸る。
「怖がらなくていい」
アルヴェインが手を伸ばす。
次の瞬間。
淡い光が指先に灯った。
ミレアが目を見開く。
「……え?」
光は魔物の足を包み込む。
傷がゆっくりと閉じていく。
ほんの数秒。
それだけだった。
「もう大丈夫だ」
魔物は足を確認する。
痛みが消えたことが分かったのか、アルヴェインを見つめた。
そして――。
頭を下げた。
森へ戻っていく。
ミレアは呆然としていた。
「……」
「どうした?」
「今……」
「何が?」
「魔法……使いましたよね?」
「ああ」
「治癒魔法ですよね?」
「そうだな」
「普通、あんなに簡単に……」
「治しただけだ」
アルヴェインは鍬を持ち直す。
「畑の水路を直すぞ」
「……はい」
ミレアはついていく。
だが、何度もアルヴェインの背中を見ていた。
◇
夕方。
雨が降り始めた。
アルヴェインの作った水路を、雨水が静かに流れていく。
畑は無事だった。
ミレアは軒下から雨を眺めている。
「アルじいさん」
「なんだ?」
「一つ聞いてもいいですか?」
「ああ」
ミレアは少し迷った。
「……あなたは、何者なんですか?」
雨音だけが響く。
アルヴェインは空を見上げた。
そして、しばらく黙っていた。
「ただの隠居老人だ」
「それだけですか?」
「ああ」
「でも……」
ミレアは言葉を続けられなかった。
畑を耕す老人。
魔物を恐れない老人。
怪我をした魔物を、一瞬で治してしまう老人。
普通ではない。
それだけは分かる。
アルヴェインはそんなミレアを見て、少し笑った。
「人には、誰にでも言いたくない過去がある」
「……」
「俺にも、それがあるだけだ」
「じゃあ、いつか教えてくれますか?」
アルヴェインは答えなかった。
ただ、雨に濡れる畑を見る。
「……豆が喜んでいる」
「え?」
「雨だ」
「話をそらしましたね」
「そうか?」
「そうです」
ミレアが少し笑った。
アルヴェインも笑った。
「まあ、いつか話す時が来たらな」
「約束ですよ」
「約束はしない」
「もう」
二人の笑い声が、雨音の中に溶けていく。
ミレアはまだ知らない。
目の前にいる老人が、かつて世界中の魔術師から恐れられ、尊敬された存在だということを。
そしてアルヴェイン自身も――。
今はまだ、その名を思い出したくなかった。
雨は静かに降り続いていた。




