氷の経理マン、牧場に立つ
翌朝、霧島ファームの母屋に、場違いなほどピカピカの黒い軽自動車が停まった。
「おはようございます。本日より着任いたします、氷川憐と申します」
悠馬が寝ぼけ眼をこすりながら玄関を開けると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。細身で眼鏡をかけ、表情はまるで能面のように動かない。年の頃は二十代後半といったところか。
「ちょ、朝の八時っすよ!? 面接って聞いてたのに、もう着任決定なんすか!?」
「はい。アプリの通知に従い、すでに雇用契約は締結済みです」
アプリ。その言葉に悠馬は内心で舌打ちした。どうやら『Breeder's Soul』は、本人の意思などお構いなしに物事を進めるらしい。
「まあ、とりあえず上がってくださいよ。朝飯、まだなんでしょ?」
「ありがとうございます。ところでオーナー」
氷川は玄関に上がるなり、持参したノートパソコンを開いた。
「まずは経理状況の確認から始めましょう。先日入金された五百万円、すでに使途を決められましたか?」
「いや、まだ何も使ってないんすけど!w」
「結構です。では、こちらをご覧ください」
氷川がパソコンを悠馬に向ける。そこには、霧島ファームの収支表が表示されていた。赤い数字がずらりと並んでいる。
「現在の負債総額は三千二百万円。月々の最低運転資金は約八十万円。先日の五百万円を加味しても、このままでは七ヶ月後に資金が底をつきます」
「うわあ……数字で見ると余計に絶望的っすね……」
「絶望している暇はありません。まずは収入源の確保です」
氷川は眼鏡をくいっと持ち上げると、無表情のまま続けた。
「現在、霧島ファームには繁殖牝馬が三頭、一歳馬が二頭、当歳馬が一頭。このうち収益に直結するのは繁殖牝馬の仔をセリ市で売却することですが、次のセリ市まであと四ヶ月。それまでに現金収入はほぼゼロです」
「つ、つまり?」
「オーナー、あなたが何とかしてください」
悠馬は頭を抱えた。
「丸投げかよ!w 経理のあんたがなんとかするんじゃないの!?」
「私は数字を管理するのが仕事です。数字を生み出すのはオーナーの仕事です」
正論すぎて何も言い返せない。悠馬はがっくりと肩を落とした。
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朝食後、悠馬は氷川を連れて放牧地へ向かった。田所はすでに作業を始めており、馬房の掃除に精を出している。
「田所さん、新しい職員っす。経理の氷川さん」
「……どうも」
田所はちらりと氷川を見ただけで、すぐに作業に戻った。人見知りというより、単純に人間に興味がないのだろう。
「田所さん、キセキノカケラは?」
「放牧地だ。今日は妙に機嫌がいい」
悠馬が放牧地に目を向けると、キセキノカケラは母馬のホシノナミダと並んで草を食んでいた。昨日までは母からも少し距離を置いていたのに、今朝はぴったり寄り添っている。
「おーい、カケラ!」
悠馬が声をかけると、キセキノカケラは顔を上げ、こちらに向かって歩き出した。
「……本当に懐いたんだな」
田所がほうきを動かす手を止めて、その様子をじっと見つめる。
「オーナー」
氷川がすかさず口を開いた。
「その仔馬が、この牧場の『資産』ですか?」
「し、資産!? お前、カケラのこと資産呼ばわりすんのか!?」
悠馬が噛みつくように言うと、氷川は表情を変えずに続けた。
「競走馬は経済的価値を生み出す資産です。感情論で語るのは非効率です」
「お前なあ……」
その時だった。キセキノカケラが悠馬のそばまで来て、鼻先を悠馬の胸に押し付けた。それから、くるりと向きを変えて放牧地の奥へ駆け出した。
「あ、おい! カケラ!」
悠馬が呼びかけると、カケラは一度だけ立ち止まり、こちらを振り返った。まるで「見ていて」と言わんばかりに。
そして——。
カケラは弾かれたように走り出した。
その速さに、田所が目を見開いた。
「なんだ、あの脚は……」
「え、すごいの?」
「当歳馬の走りじゃない。それにあのバネ、心肺機能が違う。あれは……化けるぞ」
悠馬は、昨日感じた「共鳴」の感覚を思い出していた。そうだ、この仔はとんでもない瞬発力を持っている。晩成型で、三歳秋には本格化する——
「オーナー」
氷川が、静かな声で言った。
「その馬は、いくらで売れますか?」
「売らねえよ!w」
悠馬は即答した。
「売りません。この仔は売らない。こいつと一緒に、でっかいところを獲るんだ」
「……非効率ですね」
氷川はそう言ったが、その口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
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昼過ぎ、悠馬は母屋の縁側で、氷川が持参した資料の山と格闘していた。牧場の過去五年分の決算書、馬の血統書のコピー、競馬の番組表、セリ市のカタログ——。
「うわあああ、数字ばっかりで頭が痛い……」
「オーナー、学歴は?」
「高卒っすけど」
「なるほど。では、わかりやすく説明します」
氷川は眼鏡を押し上げ、ホワイトボードをどこからか取り出した。いつの間に持ってきたのか。
「現在、霧島ファームの繁殖牝馬は三頭。ホシノナミダ、サクラフブキ、ユキノジョウ。このうち、今年の種付けシーズンに間に合うのはホシノナミダとサクラフブキの二頭です」
「種付けって、要するに配合っすね」
「はい。どの種牡馬をつけるかで、生まれる仔馬の価値は大きく変わります。そして、種付け料は種牡馬によって異なります。安くて五十万、高ければ千万を超えます」
「千万!? 無理ゲーじゃん!w」
「ええ。ですから、予算内で最大のリターンを狙う必要があります」
氷川はホワイトボードに、いくつかの種牡馬の名前と種付け料を書き出した。すべて架空の馬名だが、悠馬にはそれが何を意味するのか、直感的に理解できた。
「オーナー、あなたはどの種牡馬を選びますか?」
「ちょっと待って、考えさせて」
悠馬は目を閉じた。頭の中に、ゲームの知識が蘇る。サクラローレル系の種牡馬はスタミナを強化する。ダンジグ系は瞬発力。サンデー系は万能だが、気性に難が出ることもある——
そして、昨日感じた「共鳴」の記憶。ホシノナミダの仔——キセキノカケラの潛在能力。あの瞬発力の赤い光。あれをさらに伸ばすには——
「ダンジグ系の種牡馬。できれば、距離適性がマイルから中距離のやつ」
「理由は?」
「カケラの瞬発力を最大限に活かす配合にしたい。スタミナは母系から受け継いでるから、スピードと瞬発力を強化する」
「……根拠は?」
悠馬は困った。共鳴のことを説明しても、信じてもらえるだろうか。いや、無理だろう。彼は合理的な男だ。
「まあ、俺の勘っす!w」
「勘、ですか」
氷川はしばらく黙って悠馬を見つめた。そして、意外なことを言った。
「合理的ではありませんが、否定もしません。競馬は勘で勝つこともある」
「お、わかってんじゃないっすか」
「ただし」
氷川は眼鏡を光らせた。
「その勘が外れた場合のリスクも計算しておいてください。種付け料三百万、もし仔馬が走らなければ、丸々損失です」
「うっ……」
「それでも、やりますか?」
悠馬は笑った。あの、お調子者の顔で。
「やるに決まってんでしょ。損してなんぼ、勝ってなんぼっすよ」
「……理解不能ですね」
「でしょ?w」
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夕方、悠馬は一人で放牧地に立っていた。キセキノカケラは、母馬と一緒に夕陽を浴びている。今日も一日、よく走った。よく食べた。よく眠るだろう。
「オーナー」
振り返ると、田所が立っていた。
「氷川って男は、使えるのか?」
「たぶん、めっちゃ使えると思いますよ。俺とは正反対で」
「そうか。ならいい」
田所はそれだけ言うと、悠馬の隣に並んだ。
「配合は決まったのか?」
「まだっす。でも、方向性は決めた。カケラの弟か妹には、スピードと瞬発力をプレゼントする」
「……その言い方、嫌いじゃない」
田所はそう言って、微かに笑った。
「馬はな、数じゃない。一頭でも、本物がいれば牧場は変わる」
「じゃあ、カケラは本物っすかね?」
「さあな。だが」
田所は放牧地の仔馬を見つめながら、ぽつりと言った。
「あんたが本物なら、馬も本物になる。俺はそう思う」
悠馬は何も言わず、ただ夕陽を見つめていた。その目は、やはり笑っていなかった。
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夜。母屋の居間で、悠馬と氷川は向かい合って座っていた。
「氷川さん、あんたなんでこんなボロ牧場に来たんすか?」
「興味があったからです」
「興味?」
「はい。この牧場の帳簿を見た時、あまりに非効率で、あまりに不合理で、けれど——」
氷川は一瞬だけ、言葉を切った。
「けれど、どこか温かみがありました。数字だけでは測れない何かが、ここにはある。私はそれが何なのか、知りたいと思った」
悠馬は少し驚いた。この無表情な経理マンにも、そんな感情があったのか。
「それって、結構ロマンチストっすねw」
「否定はしません」
「じゃあさ、一個だけ約束してほしいんすけど」
悠馬は真っ直ぐに氷川を見つめた。
「俺は馬を数字で切り捨てたりしない。たとえ赤字でも、走りたいって言う馬がいたら、走らせる」
「……非効率ですね」
「でも、それが俺のやり方っす。嫌なら、いつでも辞めていい」
「いいえ」
氷川は即答した。
「むしろ、興味が湧きました。あなたのその非効率が、どんな結果を生むのか。見届けたいと思います」
悠馬は笑った。今度は、心の底から。
「よろしくっす、氷川さん」
「よろしくお願いします、オーナー」
こうして、霧島ファームにまた一人、新しい仲間が加わった。
まだ誰も知らない。この牧場が、やがて競馬界を揺るがす「怪物たち」を生み出すことを。
まだ誰も知らない。この経理マンが、数字では測れない「馬への愛」に目覚める日が来ることを。
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その夜、悠馬のスマホが再び震えた。
≪新ミッション:ホシノナミダの配合相手を決定せよ≫
≪期限:今月中≫
≪報酬:厩舎の増築費用 800万円≫
≪ヒント:日高には優秀な種牡馬がいる。だが、それだけではない。『共鳴』を使え≫
「共鳴を、使え……?」
悠馬はスマホを見つめながら、明日の予定を考え始めていた。まずは種牡馬のいる牧場を訪ねて、直接馬に触れてみる。共鳴で、相性の良い種牡馬を見つけるんだ。
「よし、明日は種牡馬巡りっすね!」
悠馬の声が、牧場の静かな夜に響いた。




