その男、馬には紳士
朝日が差し込む霧島ファームの母屋で、霧島悠馬は布団にくるまりながらスマートフォンを睨んでいた。画面には見慣れないアプリ『Breeder's Soul』の通知が表示されている。
≪現在の牧場経営状態:負債総額 3200万円≫
≪今月の運転資金:残り42万円≫
≪ミッション『牧場を黒字化せよ』期限まであと11ヶ月≫
「いやいやいや、詰んでるじゃんこれ!w」
悠馬は天井に向かってスマホを掲げたまま、乾いた笑いを漏らした。十八歳の若造に牧場経営を任せて、両親はよく海外に行けたものだ。いや、行かざるを得なかったのだろう。この数字を見ればわかる。
「ウイポなら初手リセット案件っすよ……」
前世——そう、彼には前世の記憶がある。二十八歳のしがない会社員。窓際族。誰にも期待されず、誰にも必要とされず、唯一の心の拠り所は競馬シミュレーションゲームだった。そのゲームのデータが吹き飛んだショックで死んだかと思うと、気づけば霧島悠馬としての人生を生きていた。
「ま、ゲームと現実は違うってことか」
布団を蹴り上げて起き上がる。着替えもそこそこに居間へ向かうと、すでに湯気の立つ味噌汁とおにぎりが卓袱台に並んでいた。
「おはようございます、田所さん」
「……おはよう」
台所から現れたのは小柄な老人。田所剛。六十七歳。霧島ファームのチーフ厩務員であり、悠馬の父の代からこの牧場を支えてきた男だ。白髪交じりの短髪に、日焼けした肌。腰は曲がっているが、馬を扱う手つきだけは驚くほど優しいと、悠馬は知っている。
「田所さん、率直に聞きますけど」
おにぎりを頬張りながら、悠馬は首を傾げた。
「うちの馬たちって、儲かるんですかね?」
「……さあな」
田所は味噌汁を啜りながら、それだけ答えた。
「ですよねー!w」
悠馬は笑った。心の底から笑った。笑うしかない状況だった。だが、その目は笑っていなかった。田所はそれを見逃さず、わずかに眉を動かした。
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朝食を終えると、悠馬は田所に連れられて放牧地へ向かった。北海道の初夏の風が、牧草の香りを運んでくる。広さだけは自慢の放牧地には、現在三頭の繁殖牝馬と二頭の一歳馬、そして今年生まれたばかりの当歳馬が一頭だけ。
「少なっ!w ウイポならここでリセット案件っすよ」
「……ゲームの話はわからん」
田所が指をさした。放牧地の隅、母馬のそばに立ちながらも、どこか距離を置いている当歳馬。鹿毛で、額に小さな流星があった。
「あの仔馬だけ、まだ俺にも懐かん」
「へえ、田所さんでも?」
「母のホシノナミダも気難しいが、仔はそれ以上だ。誰も触れん」
悠馬はじっと仔馬を見つめた。小柄だが、後肢のつくりが素晴らしい。胸が深く、肩の角度が走るために生まれてきたような馬だ。
「ちょっと行ってきます」
「やめておけ、蹴られるぞ」
田所の制止を振り切り、悠馬はゆっくりと放牧地に入った。繁殖牝馬たちが顔を上げ、一歳馬たちが興味深そうに近づいてくる。だが、当歳の仔馬だけは違った。耳を伏せ、警戒した目で悠馬を睨んでいる。
その時だった。
悠馬の歩き方が変わった。さっきまでの軽い足取りではない。静かで、無駄がなく、まるで馬の歩調に合わせるような——。
「……来なくていい」
悠馬の声が変わった。田所が息を呑む。
「俺が行くから」
それは、ついさっきまで「詰んでるじゃんこれ!w」と笑っていた男と同じ人物とは思えない、穏やかで深い声だった。
悠馬は仔馬の正面ではなく、やや斜めから近づいた。馬が最も安心する角度だと、彼は知っていた。ゲームの知識——いや、前世で培った経験が、自然と身体を動かしていた。
仔馬の耳が、わずかに前に向いた。
悠馬は仔馬の目の前でしゃがみ込み、目線を合わせた。そして、ゆっくりと手を差し伸べる。
「……急がなくていい。お前のタイミングで来い」
仔馬はまだ警戒していた。鼻息が荒い。しかし、悠馬は手を引っ込めなかった。五分。十分。時間が過ぎていく。田所は後ろで固唾を飲んで見守っている。
やがて、仔馬が一歩、前に踏み出した。
そして、そっと悠馬の手に鼻先を触れた。
その瞬間——。
悠馬の視界が、色で溢れた。
**スピード:青(弱い光)**
**スタミナ:緑(強い光)**
**瞬発力:赤(ありえないほど眩い閃光)**
**気性:黄(揺らぎが大きい=不安定)**
**健康:白(安定)**
さらに、言葉ではない「感覚」が流れ込んでくる。怖い。でも、この人間は違うかもしれない。母さんを助けてくれた人間と、同じ匂いがする。走りたい。もっと速く、もっと遠くへ——
悠馬は目を見開いた。これが、あのアプリが言っていた「力」なのか。
「……そうか、お前、走りたいのか」
悠馬がそう囁くと、仔馬は初めて、自ら悠馬の手に鼻先を擦り寄せた。額の流星が、朝日に輝く。
田所が背後で絶句した。
「……あの馬が、他人に触れさせたのか」
悠馬は仔馬の首筋をそっと撫でながら、心の中で確信していた。(この仔、とんでもない瞬発力を持ってる。晩成型だな。三歳の秋には化ける。スタミナもある。距離は二千メートル以上——いや、もっと長い距離もいけるかもしれない)
「お前の走りたいように走れ」
悠馬は仔馬の耳元で、約束するように言った。
「俺がその場所を作ってやる」
仔馬が一声、高く嘶いた。その声は放牧地中に響き渡り、他の馬たちが一斉に顔を上げた。
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「……あんた、何者だ」
放牧地から戻る道すがら、田所がぽつりと尋ねた。悠馬はすでにいつものお調子者モードに戻っている。
「いやぁ、俺にもわかんないっすよ!w でもまあ、この仔とは仲良くなれそうっすね!」
「……名前をつけてやれ。オーナーの特権だ」
悠馬は少し考えてから、悪戯っぽく笑った。
「キセキノカケラ。このボロボロの牧場で、奇跡の欠片くらいないとやってらんないでしょw」
田所は一瞬きょとんとしたが、すぐに口元をわずかに緩めた。
「……悪くねぇ」
その瞬間、悠馬のスマートフォンが震えた。画面を見ると、『Breeder's Soul』の通知。
≪ミッションクリア:最初の愛馬を見つけよ≫
≪報酬:牧場運転資金 500万円を入金しました≫
「マジか!w これでちょっと息ができる!」
悠馬が突然叫んだので、田所が怪訝な顔をした。
「……何を喜んでるんだ?」
「え?あ、いや、こっちの話っす!w」
悠馬が慌ててスマホをポケットにしまうと、すぐにまた通知が届いた。
≪新ミッション:キセキノカケラの配合相手を探せ(期限:2年後)≫
「気が早すぎでしょ!w」
悠馬のツッコミが、初夏の牧場に虚しく響いた。
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夕暮れ。悠馬と田所は母屋の縁側に並んで座り、熱い茶を啜っていた。放牧地では、キセキノカケラと名付けられた仔馬が、母のホシノナミダのそばで夕陽を浴びている。
「田所さんはさ」
悠馬は湯呑みを両手で包みながら、何気ない口調で尋ねた。
「なんでこんなボロ牧場に残ってるんすか?田所さんクラスの腕利きなら、もっといいところがあるでしょ」
田所はしばらく沈黙した。湯呑みの中の茶が、わずかに揺れる。
「……俺は昔、ある牧場で馬を壊した」
悠馬は黙って聞いていた。
「だからもう、馬には関わるまいと思っていた。だが……」
田所は顔を上げ、放牧地を見つめた。キセキノカケラが、母馬の乳を飲んでいる。
「……あんたを見ていると、もう一度だけ、信じてみてもいいかと思える」
「それ、プロポーズっすか?w」
悠馬はいつもの調子で茶化した。だが、その目は笑っていなかった。田所も、それに気づいていた。
「……俺も、信じてみたいんですよ」
悠馬は湯呑みを見つめながら、ぽつりと言った。
「人間ってやつを」
田所が微かに笑った。それは、悠馬が初めて見る、この老人の笑顔だった。
「……悪くねぇ」
遠くで、キセキノカケラが嘶いた。その声は、牧場の夕闇に吸い込まれていく。
悠馬は心の中で呟いた。(この牧場から、全部始めるんだ)
その決意をあざ笑うかのように、スマホがまた震えた。
≪新規職員候補:経理・秘書の人材を紹介します。明日、面接の準備をしてください≫
「ちょ、急すぎでしょ!w」
「……騒がしい夜になりそうだな」
田所が湯呑みを傾けながら、呆れたようにつぶやいた。
こうして、霧島悠馬のオーナーブリーダーとしての人生が、静かに、しかし確かに動き始めたのだった。
まだ誰も知らない。この男が、競馬界にどんな嵐を巻き起こすのかを。
まだ誰も知らない。この牧場から、どんな「怪物たち」が生まれるのかを。




