第八話「泉へ」
それは、少女が齢十一の頃だった。
結界を破って逃げ出そうとしている妖魔が居ると聞かされ、向かった先に居たのは、古い赤い着物を着た小さな童子だった。
社の周りに結界の張られた小さな空間で、その者はうずくまっていた。ひどく弱っている様子だ。
細く幼い声で、その者は歌うように呟く。
「泉の水が恋しい。花の畑が恋しい。此処は風も吹かぬ。空も廻らぬ。全部止まったままだ」
少女が言霊を返そうとすると、その者は膝に預けていた顔を上げて、「のう?」と、少女に問いかけて来た。
「おぬし、我を連れて行ってくれぬか?」
少女は、拳を握りしめ、目を閉じた。
意を決したように眼を開き、結界に侵入して、童子の体に縄を括る。
「セツヒ」と、傍らの蛇のようなものに声をかける。「頼んだ」
蛇のようなものは、凍り付いた童子の体を、丸呑みにした。
古語りとして、山に住む老婆は「雪女」の話を、娘と童に聞かせた。
深々と雪の積もる、吹雪の日に現れ、山野で働く男達の魂を吸い取ってしまう精霊だと言う。
その精霊は十穀をつかさどる神で、その寵愛を受けた男は、一生の幸に恵まれる。だが、精霊と交わした約束を破った者は、やはり魂を奪われてしまう。
「それが、精霊の世界の理だ。約束と禁忌は、守られねばならず、破られてはならぬ」
老婆はそう締めくくると、囲炉裏の炭に火箸をさした。傍らに置いて居た新しい薪を、空気にさらした炭の上に乗せる。それからこう聞いて来た。
「娘。この童は、守主を食ろうた事があろう? その後、守主はどうした?」
「守主と言うのは?」と、娘。
「赤い着物を着た、小さな童子の姿をしておる」
その答えを聞いた赤い瞳の娘は、「まだ、この者の腹の中に」と答えた。
「それでか」と、老婆は言う。「道理で、毒を食らっても生きて居られるはずじゃ。しかし、お前達は少し無理をし過ぎた。もう、守主も『解毒』してやれんのだろうて」
娘は、かつて自分達が「連れ出した」童子が、今でも意識を持って残っている事を知った。
「この者の封じた『魂』は、消え去るのでは?」
そう問うと、老婆は「神力の強さによるのぅ」と答える。
「下等な『魂』なら、食らって消滅させる事は出来る。言霊で括ればな。言霊から逃れた僅かな神力を、守主が『解いて』くれておったんじゃろう。
この童は、それに気づかないまま、どんどん強い毒を食らい続けた。特に、此処最近は恐ろしい量の毒を食らっていたようじゃな。修羅の肉を食ったものを、身の内に取り込むものじゃない」
娘は寒気を堪えるように片腕を押さえ、「どうすれば?」と、尋ねた。
老婆は、ふむと唸った。
「どうにかする気があるなら、すこぅし働いてもらう事になる」
娘は、単身で山姥の住処を後にし、その山の頂上へ向けて歩を進めた。足元の新雪が、雪駄に踏まれてキュッキュッと音を立てた。その懐には、皮袋がある。
滑りやすい足元に気をつけながら、老婆の言葉を、頭の中で思い出した。
「大桜を越えた山頂に、女だけの入れる、禁域がある。そこには泉が沸いて居るはずだ。その水を集めて来い」
娘は、まだ新芽も吹いていない山の木々を、幹と枝の形状で見極めながら、先に進んだ。
頂上が近くなってくると、甘い香りを感じた。変に生温かい風が吹いてくる。
顔を上げると、季節は春には早く、標高も高い場所なのに、木に花が咲いている。
足元も草に覆われ、野の花が開いている。
闇に目を凝らすと、白く見える花をつけた大木を見つけた。あれが大桜だろう。
「娘さん。居らっしゃい。素敵な子守唄を歌ってあげる」と、高い女の声が桜の木の方から囁く。「よぅく眠れるように、花弁で包んであげましょう」
娘は、その言葉に魔性が込められている事を察した。
「人惑わすもの」と、娘も言霊を返す。「我を遮るならば、相応の報いがあると心得よ」
桜の方から、さっきと同じ言葉が何度も何度も輪唱した。やがて声は小さくなり、娘が再び歩を進める時には、静かに掻き消えてしまった。
それと同時に、さっきまで春の様相を見せていた場所が、寒々とした雪景色に変わる。
こんな所で眠り込んでいたら、体温を奪われて死んでいただろう。
大桜を超えた辺りから、山の中は一層静まり返った。
鳥の声どころか、虫の声すらしない。勿論、獣の気配さえしなかった。まるで、木以外の全ての命が絶えているように感じられる。
娘は細かく辺りを見回し、禁域の中を歩いた。
月が西へ傾く頃。岩の割れ目から水が噴き出している所を見つけた。
それは小さくその場に溜まってから、緩やかな流れに成り、雪を溶かして何処かに注いで行っている。
どれだけ禁域を探し回しても、ここ以外、泉と呼べそうな場所はない。
娘は、持って来た皮袋に水を汲み、袋の口を革紐で縛った。
禁域を離れようとした娘の髪を、冷風が撫でた。風の中に湿り気を感じる。吹雪が来るのだろう。
自分の服装を改め、蓑も着ていない事を危ぶんだ。
幾ら、普通の人間より強い体を持っているとは言え、拭きつける吹雪の中で、何刻、耐えられるだろうか。
娘は足元の雪を崩すように、雪駄で滑りながら、山姥の家を目指した。
山姥の家に残っていた童は、言葉を喋る壺の方を見て、ぼんやりしている。
「お前、何処から来た?」と、壺の中の子供の声は、童に尋ねる。「このまま、おばあの家に住むのか?」
童は首を傾げるだけで、返事をしない。
「お前等、静かにせぇ。この子は、人の子と違う」と、老婆は答えた。「私の飼えるもんでは無ないからなぁ」
そう言いながら、老婆はすり鉢の中で、幾つかの草木をすり潰していた。
「解毒さえすれば、すぐにその『ぼんやり』も消える。お前の姉が戻ってくれば……」
老婆の声を遮って、帳の方から、びゅうと冷たい風が吹いてきた。
そちらを見ると、真っ赤な皮膚と真っ青な顔をした娘が、震えがながら立っていた。
童は、老婆の用意した薬を含み、娘の持って来た水を口にした。途端に、目の焦点がはっきりとし、白かった頬に赤みが差す。
強い酒を飲んだ人のように、喉から上がってくる気を、はぁと吐き出した。
「これで暫くは大丈夫だ」と、老婆は言う。娘を振り返り、「もう、この童に鬼の魂なぞ喰わせるなよ」と注意した。
「分かった」と、囲炉裏端で手を温めていた娘は答える。
老婆は帳の向こうをちらと覗き、「もう朝に成るな」と、述べる。「昼間は眠って行け」
老婆の家で、吹雪と昼の日を逃れさせてもらい、娘と童は夕刻に雪山の旅へと戻って行った。
娘は指を数えながら、老婆から聞かせられたことを反芻する。
「雪原を歩く時は、雪の踏み応えに気をつける事。雪崩が起こったら、横に逃げる事。人里に下りたら、蓑を買う事。春が来たら、蓑は売り払う事」
やるべき事は四つと見当をつけた。
かんじきも必要かもしれないが、山を下りれば積雪も減るだろう。
「セツヒ。具合はどう?」と、娘は弟に声をかけた。
童は首を左右に倒してから、「前よりはっきり目が開く」と答えた。
「確かに、前より眠そうじゃないね」
「これから、鬼に出遭ったら、どうする?」
肝心な事を聞かれて、娘は少し宙を見た。
「お前が食べなくても良い方法を、考えないとね。結界を強くするとか、外側の方で完全に封じる方法を……学べる場所があると良いんだけど」
「術を教えてもらうのか?」
「そう言う事。幸い、路銀にも余裕がある。人里に着いたら、術を教えてくれる場所を探してみよう」
娘の言葉を聞いて、童は一つ頷いた。




