第三話「霧の中の舟」
その話は、少女が齢十になった時に知らされた。
「今から覚悟を持て」と言い聞かされた。
夜明け近くに眠る頃、少女は自分の隣にいる蛇のようなものを、片腕で抱きかかえた。
蛇のようなものは、されるままにしている。
少女は、語り掛けた。
「私は、お前がきょうだいだって知ってる。お前が、人間の言葉を分かってる事を、知ってる。お前は、今日の話を聞いて、どう思った?」
蛇のようなものは、首を横に傾けた。
舟に乗った、一人の死にかけが、岸にたどり着いた。舟の縁に背をよりかけて、辛うじて息をしている。
その船の内側には、血だまりがあり、縁に身をよりかけている者の指には、布で止血している片腕から滲んだ、赤黒いものを取った跡が残っていた。
「霧に食われた。霧に食われたんだ。誰も助けられなかった。俺は逃げた。誰も助けられなかった」
船の縁の内側には、そのような血文字が記されていた。
「その男の亡霊が、あの湖には残ってるんだ。その亡霊に出会った奴は、みんな霧に食われちまうんだと」
市場で噂話を耳にした、齢十六程の娘は、「その亡霊を退治したら、幾らか銀をもらえたりする?」と聞いた。
噂話をしていた露店の店主と、町人の数名が、「ぎょっとした顔」をする。
「お嬢ちゃん。滅多な事を言うもんじゃないよ」と、隣の露店の女将が声をかける。
「私達、旅歩いてるから、路銀が欲しくてさ」と、白い髪の娘は言う。「勿論、腕に覚えだってあるよ」
その隣では、肩から荷を下げた、齢十三程に見える白い髪の童が、首を傾げていた。
露店の女将に連れられ、娘と童は、彼女の家に行った。二人が玄関を潜ると、女将は急いで戸を閉めた。
「さっきの話だけど」と、囁く。「あんた達は、本当に『腕に覚え』があるのかい?」
「ええ」と、娘は答える。
「でも、相手は亡霊だよ? 何か、術の心得がないと、退治はできないんじゃないのかい?」
「大丈夫。その心得があるから言ってるんだ。出来る事なら、何か……『亡霊を退治したら、銀をこれだけ渡します』って言う、約束が出来る所があると良いんだけど」
「奉行所に言えば、扶持を出してもらえるかもしれない。だけど、逆に注意されるかもしれないよ? 向う見ずに、湖に近づくなって」
「じゃぁ、どうしたら、ぶぎょうしょの人に『亡霊退治』を認めてもらえるかな」
女将は暫く黙り、「じゃあ、こうしよう」と、策を提示した。
奉行所の目安箱に、投書が届いた。
「飛花の湖に出没する亡霊を退治する。亡霊の正体を暴いた暁には、銀三十匁を求める」と言う文だった。
また命知らずな者が、金銭を目当てに無謀な事を言い出したと、勘定奉行所の代官は頭を抱えた。
飛花の湖には、確かに何かが居る。しかも、同心を組ませて正体を暴きに行っても、誰一人生きて帰らなかった。
それからは、飛花の湖には近づくなと言うお触れを出してある。
銀を求める文の裏には、露天商をしている女の名前が書いてあった。
要領を得ない申し出であるため、ひとまずはその女を呼び出す事にした。
露天商の女将は、まだ年若い娘と、その肉親と思われる童を連れて来た。
代官は問いを投げる。
「お前が、露天商のコウと言う女か?」
「はい。お代官様」と、コウは平伏す。
コウの後ろに立っている娘と童は、まだ礼儀も知らないようで、幼子のようなきょとんとした表情のまま、頭も下げない。
「あんた達。膝を折りな」と、コウが声をかけた。
娘と童は、見様見真似で、ようやく地面に膝を折って座った。しかし、頭を下げる事はしなかった。
代官は聞く。
「その二人は何者だ?」
コウは答えた。
「この二人が、湖の亡霊を鎮められると、申している者達です。上手く鎮められたら、路銀が欲しいと」
「旅の者か。ならば、あの湖の有様も知るまい」
そう言ってから、代官は半年ほど前から続くようになった、湖での怪死事件を、若人に説明した。
「化け物は、霧の出る夜に現れる。指の先も見えなくなる霧の中で、秘かに獲物を狙うのだ。
以前、隊を組んで向かわせた同心達も、一名を残して霧の中に消えてしまった。
戻ってきた一名も、片腕を引き千切られていた。血を失い過ぎたことにより、その者も命を失くした。
娘。お前達は、その悪鬼の正体を暴けると、そう申すのか?」
「銀を頂けるなら」と、娘は譲らない。「化け物の首を切り取って、再びこの場に参りましょう」
代官は暫く娘をじっと見た。
白い髪と、赤い瞳を持ち、神職の者が着るような、白と赤の衣を着ている。
目を合わせる事に動じない気質のようで、代官が睨むような眼差しを向けても、表情一つ変えない。
代官は問い質した。
「銀は、本当に三十匁で良いのか?」
「それはどう言う?」と、娘は臆せず聞き返してくる。
代官は言う。
「化け物の首を取れるのであれば、三両渡しても足りぬ事だろう」
娘が、目を大きく開いた。意欲的に、「それはありがたい」と述べた。「仕事にも、精が出ると言うものです」
代官は諦めたように、「道案内に、同心を二人つけよう」と述べた。
提灯を持った役人に導かれ、枯れた枝をぱきぺきと踏みながら、娘と童は湖の近くの森を抜けた。
木々の開けた場所で、同心の二人は歩を止めた。
「ここから先は、『魍魎』の住処だ」と、役人の一人が言う。「私達は此処で待つ」
「分かった」と、娘は応えた。
「待て。これを持って行け」と、もう一方の役人が呼び止め、懐から煙草入れを取り出す。「あの化け物は、煙を嫌うと言われているからな」
「ありがとう」と、娘は既に煙の臭いがしている煙草入れを、片手に受け取り、懐に入れた。
湖が近づくにつれ、霧が濃くなって行った。
水の寄せる音が聞こえるようになる頃には、娘と童は、互いの姿が見えなくならないように、身を寄せ合っていた。
岸に、一艘の舟が止められている。恐らく、渡し舟として使われていた物だろう。
「櫂がある。湖の中に入れそうだ」と言って、娘は先に舟に乗った。
後から乗った童は、大きな櫂で岸を追いやり、舟を水面に滑らせた。
湖の中を進むと、何かの気配がした。大きな生き物が、静かに呼吸をしているような気配だ。
それは一つではなく、向かう先からくるかと思えば、来た方向から来る様子も見せる。
「化け物は一匹じゃない」と、娘が言う。「セツヒ。櫂は任せた」
童はこくんと頷き、舟の後ろを守った。
娘は、袂の中から、一本の針の様な刃を取り出す。
暗い霧の中を、まるで周りが見えているように、娘は見渡した。
さっと視線を上に上げ、向かってくる者に刃を突きつけた。
ぐつっと手応えを感じ、娘は刃を引き抜く。赤紫色の血液が、刃と娘の手についた。
前方から襲い掛かって来ていた気配は、退いた。次に、舟の進む右手から別の気配が近づいてくる。
船に体当たりをしようとする、その者の腹へ、娘は刃を突き出した。
背後から向かってきた気配は、童が丈夫な櫂で打ち返す。
暫し、霧の中での攻防が続いた。
「後で洗濯をしなきゃ」と、娘は呟いた。彼女が着ている白装束の右袖は、返り血で染まっていた。
やがて、舟は対岸にぶつかった。
霧が晴れ、地面が見えるようになる。其処には、赤紫の血が点々と続いていた。
「後をつけよう」
そう相棒に呼び掛けて、娘は先に舟から降りた。
血の飛沫が示す方向に進んで行くと、岩と地面が接している場所に、土を掘った洞穴があった。
化け物達は此処に住んでいるらしい。
おびき出すには? と考え、娘はさっき受け取った煙草入れに気付いた。




