第二話「神もどき」
日が沈み、夜が蔓延るようになると、少女は座敷牢を出る事を許される。
月の明るい夜などは、散歩にはもってこいだった。
働きもせず、唯、景色を見るためにぶらぶら歩くなど、農民には許されていないだろう。
生憎、少女は農家の出では無かった。
傍らに、自分と同じ背丈の蛇のようなものを連れ、少女は、ぼんぼりを持って田畑の間を歩く。
少女達がそうする事で、この地に実りと豊かさをもたらすと、その国では信じられていた。
村の遠くに見える、ぼんぼり明かりを見て、その多くが農民である村人達は、手を合わせた。
社の奥に、白無垢を着た人物が、背を丸め、両手を合わせている。
その頬は真っ白で、まるで雪像のように見えた。
社の外から、キイキイ声が聞こえて来た。
「稲田の姫が来た。稲田の姫が来た。頭を乱せ。割れて砕けて。丹に染まれ」
その声の後に、別のキイキイ声もする。
「親方の妻が来た。親方の妻が来た。我にも食らわせぇ。我にも食らわせぇ」
その後にも、単調なキイキイ声がする。
「肉食らわせぇ。肉食らわせぇ。腸食らわせぇ」
フユは、ぞっとした。
人間よりも大きな手足を使い、山の木々の枝を伝うその者達は、化け物と言える大猿であった。
にたりと笑んだ顔の口元に、巨大な犬歯が見えた。
悲鳴を上げそうな口を押え、フユは身を縮める。
灰色の、一際背の高い大猿が、白無垢の頭に手をかける。
「妻の顔をみせぇ」
そう言って、白無垢を剥ごうとした。
次の瞬間、灰猿は床に組み伏せられた。
白無垢を着ていたセツリが、その小柄な身の丈からは想像もできない怪力で、大猿の体を締め上げている。
その背後では、一匹一匹と、大猿達が倒れ伏している所だった。
月明りの下、ふわりふわりと身を翻すアケヒが、針のように細い刀で、大猿達の後ろ首を貫いている。
「お前等、助けろ!」と、灰猿は叫んだ。
しかし、静かな惨劇に気付いた数匹の猿達は、我先に逃げ出した。
最後に残っていた大猿は、くるくる回って時間を稼いだが、間もなくアケヒに後ろを取られて、首を貫かれた。どさりと、その身が地面に伏す。
セツリが取り押さえる床の上で、灰猿は暴れた。
牙をむき、涎を垂らし、首を振り、社の粗末な木の床に、身を叩きつける。
床を壊して、一秒でも落下する事が出来れば、組まれている腕を解けると考えた。
しかし、セツリの腕は、灰猿の腕を押し付けているのではない。
岩も砕くと言わぬばかりの握力で、がっちりと握りしめているのだ。
「畜生!」と、灰猿は叫んだ。「畜生! 畜生! 犬っ子が! 飼われ者が! 俺は神だぞ! この村の神だ! 畑荒らしてやる! 田んぼ荒らしてやる! 木の実も食ってやる、家も燃やしてやる、千年呪ってやる! どうだ! 怖かろう!」
そう叫ぶ灰猿を、セツリは赤い月の瞳で、冷え冷えと見つめて居る。
「離せ! 離せ、飼われ者が!」と叫んだ灰猿の首に、縄がかけられた。ぐるりと首の周りを一周し、締め上げて、灰猿の言葉を潰す。
その縄の両端を持っているのは、アケヒだ。
「黙れ。神もどき」と、冷徹な声が響く。「田畑を荒らす? 出来もすまい。木の実も、家も、お前にはやるまい。千年呪う力も与えまい。人の言葉を覚え、人の肉を食むお前等は、獣の理を失った。
そして人の理にも入れまい。ならば、消えるしか無かろう。悔やむ事も許すまい。無に帰して、二度と吠えるな」
そう、アケヒが告げた途端、首を絞められた大猿に向かって、セツリが口を開けた。
牙の並ぶその口の中に、魂まで氷と化した大猿は、丸呑みにされた。
木枠の備えられた窓から、一部始終を見ていたフユは、小屋の戸口を叩く音に、身をすくませた。
其処に立っているのが、アケヒとセツリである事を知って、表情が緩んだ。
一重姿だったフユは、セツリから白無垢を返してもらい、着替えてから人里まで付き添ってもらった。
もう一里で村の中と言う距離で、「私達は、此処で」と、アケヒ達が歩を止めた。
「そんな。是非、お礼をさせてほしいの」と、フユは縋る。「村のみんなに、あの猿は居なくなったって教えてあげて」
「それは、貴女の仕事」と、アケヒは言う。「貴女の口で語ったほうが、みんなの心も安らぐ。神殺しは、その仕事をする者だけの、戒めだから」
「戒め……」と、呟き、フユは息を飲んだ。
彼等は、自分達が決して「喜ばれる仕事」をしていないと、知っている。
神を殺す者は、理を殺す者。神を殺せる者は、理を殺せる者。それが出来るのであれば、どんな崇高な神であろうと、彼等の手にかかる事がある。
フユは大きく深呼吸をし、自分を落ち着けると、話す事を頭の中で纏めた。
「分かった。後は任せて」と述べ、アケヒ達の方を見て、深く礼をした。「この村を救ってくれたことを、私を救ってくれたことを、恩に着ます」
アケヒは、口元を笑ませた。
「じゃぁ、その恩は、トワとリキって言う子に返してあげて。あの子達がいなかったら、私は貴女を助ける前に死んでいたから」
その話を聞いて、フユは目を丸くした。
フユが何も言えずにいるうちに、白い服と白い髪の、姉弟のような二人は、木立の影に消えて行った。
フユが語った「本当の神なるもの」の話と、「偽神」だった大猿の話は、瞬く間に村中に伝わった。
実際に、山中の社の周りで蠅をたからせている、大猿達の死骸を見て、村人は言葉を失っていた。
たかが、年経た猿に村の娘を差し出していたのかと、名主達や男衆は、心底悔しがった。
集会で酒を飲む度に、男同士で夢想のような「あり得なかった武勇伝」を言葉に交わした。
相手が唯の猿であるなら、このような手段が取れたはずだ、いや、このように追い払えたはずだ、と言った風に。
先の年までに、娘を奪われていた家の者達も、自分達の娘が「大猿に食い殺されていた」と言う話を聞いて、涙も出ないほど悲嘆にくれた。
彼等は彼等で、「神に輿入れした娘」の、幸せな結末を夢幻と見ていたからだ。
村の子供達は、フユに聞く。
「その本当の神様は、何処に行ったの?」
フユは明るい顔で答えた。
「遠い所に旅に行かれた。でも、また偽神がこの村を乗っ取ろうとしたら、きっと助けに来てくれる」
子供達はまた訊く。
「本当の神様は、どんな姿をしていたの?」
フユは、口を動かしかけ、言うのをやめた。そして、代わりにこう答えた。
「どんな姿もしてなかった。でも、雪みたいに美しい方だった」
それを聞いて、子供達は「へー」と、感嘆を漏らした。
今年も、皮膚に罅が切れ、息が凍る季節が来た。
綿入れを着て外に出たトワは、薪小屋に入る。十本ほどを脇に抱えて、母屋に戻ろうとした。
トワは、はらりと目の前に落ちてきた白い粒を見て、空を見上げた。
「初雪だ」と、独り言ち、薪を家の中に運び込んだ。「おかあ。霰が降ってきた」
「ああ。今夜は積もるねぇ」と、母親は料理をしながら答えた。「雪の方に、召し物を差し上げて」
「うん」と返し、トウは飯櫃に炊いてある米を、小さく木彫りの器に移し、陶器の壺にお神酒を入れた。
それ等を、庭の隅にある祠に置いて、ご神体である針と縄に、手を合わせる。
フユが語っていた「雪の方」は、きっと、あの時の白いお姉さん達だろう。
その名前を、トワはずっと憶えている。
フユと話して、その人達の名前は、三人だけの秘密にする事にした。
リキは、もしかしたら忘れて居るやもしれないが。
秘密の名前を、トワは静かに唱える。
「ありがとう。アケヒ、セツリ」
白い雪が、ひらりひらりと舞い降り始めた。




