第十三話「旅路の再開」
唇を濡らす程度の水を含み、娘は暖かくなり始めた気候に、息を弾ませた。
「越前は越えた?」と、娘は童に聞く。
童は絵図と先を遠く見比べ、「まだだ。後一日は歩く必要がある」と言う。
「そうか。だいぶ遠いね」
娘はそう受け答え、日除けのために被っている笠を、少し持ち上げた。
淡陽と老陰の教えを全て修める時には、丸一年が経過していた。
「一年で卒業できる方が珍しい」と言われたくらい、娘と童の、技術習得と学習の速度は、物凄かったのだ。
半年目には、娘は淡陽の剣撃を弾き返せるようになり、胴体に痣を作る事も無くなった。
師の技も、一撃を返すごとに習得して行き、八ヶ月を経る頃には、淡陽と対等に渡り合えるようになってしまった。
その頃には、童の操って居る式神達は、人が見上げるほどの大きさに育ち、極人間に近しい知能を持つようになった。
「このまま、お前の霊気を送り続ければ、こいつ等も、鬼を食っても生きながらえるかもしれん」と、老陰は言って居た。「しかし、それは可能性の範囲を越えない。鬼には極力近づかん事だな」
童はその言葉に、こう答えた。
「出来れば、近づきたくはないですね」
鬼と遭遇したら逃げ出すと言う手段は、童には、思いつかないようだった。
旅路を再開してから、娘は肩に小太刀をかけ、童は懐に幾つかの霊符を備えるようになった。
この一年で、童は大分身長が伸びた。四尺七寸ほどだった身の丈は、五尺程になっている。
肩幅の成長はまだ追いついていないが、このまま体が育って行けば、それなりの体格にはなるだろう。
娘も、そんなに小柄ではない。五尺四寸ほどの身の丈だ。彼女の方は、既に身長が伸びる期間は終わっているようで、一年の間も変化はなかった。
その代わりに、胸が張って来た。
普段はさらしで押さえつけているが、風呂に入る時などは、膨らみ始めた乳房を邪魔そうにしていた。
「なんで、乳なんて張るんでしょう」と、娘は淡陽にぼやいた事がある。
「何時子供を産んでも良いように、と言う説がある」と、淡陽は答えた。
「私、子供を作る当ても予定も無いんだけど」と、娘がさらにぼやくと、「大昔から続いて来ている、体の作りは、個人の意思を含んでいないからな」と、返された。
娘はその返事を聞いて、眉間に皴を寄せた。
「淡陽こそ、子を作る予定はあるんですか?」
そう聞くと、三十路前と見える淡陽は、「あるさ」と、答えた。「この家を、私の代で耐えさせるわけに行かない」
「腹が出てきたら、剣術は使えなくなりますよ」と、娘は嫌味に聞こえる事を言う。
淡陽は、どこ吹く風と言う風に、「子供を産む間は、老陰の『陰陽学』と、内職だけで食べて行くよ。もっとも、種をつけてくれる男を探さねばならんが」との事である。
「種をつけてくれるなら、夫は必要ないと?」
「扶養に入られると、面倒だからな」
「甲斐性の無い男ですね」
「私の稼ぎを越えられるとは思っていない」
「その自信は?」
そう聞くと、淡陽は面白そうに目を細めた。
「見せてやろう。こっちに来い」と言って、淡陽は時々籠っている、ずっと奥の間に通してくれた。
襖を開けると、大きな反物の作れる、機織り機が鎮座していた。
作りかけの反物は、糸使いも繊細で、出来上がれば上質な生地になるだろうと察される。
「これが、内職?」と、娘は反物を指さす。
「ああ。これだけに構っている間は、一反の反物を、一月に十は作る。お前達が来てからは、少し枚数が減っているが」
剣術指南をしながら、反物まで作っていたとは、と知って、娘は舌を巻いた。
娘は、歩きながら淡陽の様子を思い出し、「なるべく早めに、種付け馬に出会えたら良いだろうな」と思い浮かべた。
本人に産む気があっても、体の年齢は誤魔化せないのだから。
娘は、その辺りの教育をとんと受けていなかったので、想像を働かせるしかないが、初産が三十路を越えるようでは、出産の時に死ぬ確率も上がるだろう。
四十路を越えるようでは、既に老婆の年齢だ。出産は絶望的と考えられる。
しかし、幾ら出産を急いでいるとは言え、あの頭の働く師匠の事であるから、浮世を遊び歩いている「本当の甲斐性なし」と子供を作ろうとは、思わないだろう。
どうなる事やらと、心配してみても、懐かしい師の気配は、既に過ぎて来た道の遥か彼方だ。
京の都と言う、行き先の名前が分かってから、娘と童の旅路は順調である。
今までのように、闇雲に歩く必要が無くなった事もある。
その代わりに、各地の関所で、荷物の検査を受けたり、何だったら通行料を取られたりしたが、道中のあちこちで、「京の都への道筋」を教えてもらえた。
親切な関の役人は、途中までの道が記された地図を、描いてくれたりする。童が見ているものも、その中の一枚だ。
木陰で休憩とる間、童は娘に説明した。
「近江の国のさらに西に、山城の国と言う所がある。京の都は、そこにあるらしい」
「らしいって言うのは?」と、娘は聞く。
童は答えた。
「さっきの関の役人が、本当のことを言っていたら、と言う意味」
娘は感心したように「はぁ」と、息を吐いた。「セツヒが、人を疑う事を覚えるとは」
童は瞼を閉じて、首を横に倒す。
「アカリが、人間を信用しすぎなんだ」
すっかり、昼間に行動する習慣の付いていた二人だが、日焼け防止薬が底をつくのと同時に、また夜間の旅路に切り替えた。
一昼夜、眠らないで歩き通し、次に辿り着いた旅籠で昼間の眠りを得、夜に成ってから出発した。
星空の下、田の間を歩く。
「懐かしいね」と、娘は言う。「小さかった時も、ぼんぼりを持って、田んぼ道を歩いたもんね」
「それを懐かしいと思えるのか?」
「思えるけど?」
「お前がそう思ってるなら、それで良い」
「あ」と声を零し、娘は少し顔を伏せ、尋ねる。「あんたは、蛇だった時の事、覚えてないの?」
「いや」と、童は言う。「覚えてはいる。だけど、俺達が育てられた理由を知った後で、昔を肯定できない」
娘と童は、暫く、黙ったまま歩いた。
月が明るい。近くの村では、晦日の祭りをやっているようだ。小さな花火の爆ぜる、パンパンと言う音を聞いて、娘は意を決したように顔を上げた。
「セツヒ。あの生活の全部が、『悪夢』だったわけじゃ、ないじゃない。少しは認めようよ。私達が、きちんと生き延びた事」
先を歩く童は、姉を振り返って、視線を合わせた。
よく似ている、二つの赤い瞳。
「生き延びた事」と、童は復唱する。
その語尾が上がって居なかった事を、娘は安堵した。
「そう。私達、ちゃんと選んで、ちゃんと、此処まで歩いて来れてる。私は、セツヒを殺さない事を選んだ。セツヒは、人間になる事を選んだ。
そうしたら、こんな所まで歩けた。それで、充分だと思うんだ。生き延びたって言う事の、証明には」
童は少し唇を動かし、口を閉ざした。
娘は重ねて言う。
「誰が、私達を、何の目的で育てていたかなんて、関係ない。私達は、そいつ等から生き延びたんだ。逃げ出して、生き延びて、その後の『生涯』ってものは、全部私達のものだよ。
私は、もう、誰にだって、セツヒを括らせたりしない。私達、まだ、ずっと遠くまで歩ける。
あの狐神に会えたら、私達が生き延びた事を、ちゃんと話そう。『ここに来るまで、絶対に諦めなかった』って」
童は、小さく唇を噛む。地図を支えていた手に、僅かに力がこもった。
それから、「俺は……。人間に、ならないと、な」と呟く。
娘は童の片手を握り、「うん」と応えた。




