1話
ベルリンの夜は、妙に静かだ。
街の表通りから一本外れただけで、ネオンの光は落ち着き、代わりに重たい空気が漂い始める。
その奥にあるカジノは、まるで別世界だった。
チップがぶつかる乾いた音。
グラスの氷が揺れる微かな響き。
そして――勝負に取り憑かれた人間たちの、視線。
ここが、俺の日常だ。
ポーカープロ。
言葉にすれば聞こえはいいが、実態は単純だ。
テーブルに座り、カードを配られ、相手の全てを奪う。
それだけの仕事。
だが、その“それだけ”ができる人間は、ほとんどいない。
「……レイズ」
俺は静かにチップを前に滑らせた。
向かいに座る男は、いかにも観光客といった風貌だった。
高そうな時計、落ち着かない視線、無駄に多いチップ。
――いいカモだ。
ポーカーは運のゲームだと思われがちだが、それは半分だけ正しい。
確かにカードはランダムだ。だが、勝敗を決めるのはそこじゃない。
“人間”だ。
「……コールで」
男の声がわずかに震える。
俺は内心で笑った。
素人はいい。
勝つときは派手に勝って、負けるときはもっと派手に負ける。
――だから、儲かる。
ディーラーが最後のカードをめくる。
場は整った。
俺は一瞬だけ、自分の手札を確認する。
そして、何でもない顔でチップを積み上げた。
「オールインだ」
空気が、変わる。
男の喉が鳴ったのが、はっきり聞こえた。
数秒。いや、体感ではもっと長い沈黙。
「……っ、コール!」
その瞬間、勝負は決まった。
カードを開く。
俺はフラッシュ。
男は、ただのワンペア。
「……ああ、クソ……」
崩れ落ちるように椅子にもたれかかる男を横目に、俺はチップを引き寄せた。
これが現実だ。
夢もロマンもあるが、それ以上に――残酷だ。
「相変わらず、えげつねぇ取り方してんな」
不意に、横から声が落ちてきた。
聞き覚えのある声だった。
ゆっくりと視線を向ける。
そこにいたのは――
「……宇佐美か」
「久しぶり、龍生」
軽く手を上げるそいつは、昔と何も変わっていなかった。
宇佐美直人。
数少ない、俺の“友人”だ。
「まだこんなとこで稼いでんのかよ」
「お前こそだろ」
「俺はちゃんと堅実にやってるっての」
鼻で笑う。
堅実、ね。
この世界でそんな言葉を使うやつが、生き残れるとは思えない。
「座るぞ」
「ああ、好きにしろ」
宇佐美は俺の向かいに腰を下ろした。
ディーラーが新しいデッキを用意する。
周囲のざわめきが、少しだけ変わった気がした。
――気づいてるやつは気づく。
このテーブルの“質”が変わったことに。
カードが配られる。
二人分。
つまり――
「久々にやるか」
宇佐美が、わずかに笑う。
「……いいぜ」
俺も口元を歪めた。
日常の延長。
ただの一戦。
――のはずだった。
手札を開く。
スペードのAとK。
悪くない。むしろ、かなりいい。
「レイズ」
俺は迷わずチップを出す。
宇佐美はカードを一瞬だけ見て、すぐに顔を上げた。
「コール」
無駄がない。
フロップ。
♠Q、♠J、♦5。
――来たな。
ほぼ完成形に近い。
「チェック」
宇佐美が先に動く。
「……ベット」
俺はあえて抑えめの額を出した。
誘いだ。
宇佐美の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「レイズ」
来た。
やっぱり、お前はそう来る。
俺はチップを見つめながら、静かに笑った。
この感覚。
ただの素人相手じゃ味わえない。
「……コール」
ターン。
♠10。
その瞬間、心の中で確信した。
ストレートフラッシュ一歩手前。例え違ってもフラッシュ。
ほぼ勝ちだ。
「オールイン」
俺は、迷わず全てを押し出した。
場の空気が凍る。
宇佐美は、しばらく無言でカードを見つめていた。
やがて――
「……はは」
小さく笑う。
「やっぱお前、頭おかしいわ」
「褒め言葉として受け取っとく」
沈黙。
そして。
「――コールだ」
その言葉で、全てが決まる。
カードを開く。
俺は勝利に限りなく近い形。
宇佐美は――
「……フルハウスか」
「残念だったな」
最後のリバーがめくられる。
その一枚で全てが決まる。
最後のカード――リバーが、ゆっくりとめくられる。
♠9。
その瞬間、世界が静かに収束した。
「……は?」
宇佐美の表情が、初めて崩れる。
俺はカードを表にした。
スペードのAとK。
場にはQ、J、10、9のスペード。
「ストレートフラッシュ」
誰かが小さく息を呑む音がした。
宇佐美は数秒、無言のまま盤面を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……マジかよ」
「運が良かったな」
「そのセリフで済ませる気か?」
肩をすくめる。
実際、運もあった。だが、それだけじゃない。
あの場でオールインを押し通せるかどうか。
それが、この世界の差だ。
「でもまあ……負けだな」
宇佐美は素直にチップを押し出した。
その潔さは嫌いじゃない。
「相変わらず強ぇな、お前」
「お前もな。素人相手なら十分食っていけるレベルだよ」
「慰めになってねぇよ、それ」
小さく笑いがこぼれる。
カジノのざわめきは変わらない。
だが、俺たちの勝負は、確かに一つの区切りを迎えていた。
ホテルの部屋は、やけに静かだった。
カジノの熱気が嘘みたいに、空気が冷えている。
世界のカジノにはよくカジノ併設のホテルがある。俺たちポーカープロはそこに何度も泊まったりしてまた次の日もポーカーに打ち込むのだ。
窓の外にはベルリンの夜景。
光が規則正しく並び、まるで別の世界を見ているようだった。
「はぁ……疲れた」
宇佐美がベッドに倒れ込む。
「久々にガチでやったわ」
「鈍ってるな」
「うるせぇよ。相手が悪いんだっての」
俺はミニバーから水を取り出し、一口飲む。
喉を通る冷たさが、さっきまでの熱を少しだけ冷ましてくれた。
しばらくの沈黙。
そのあと、宇佐美がぽつりと口を開いた。
「……まだ、追ってんのか?」
分かりきった質問だった。
誰のことかなんて、言うまでもない。
「当たり前だろ」
即答だった。
「忘れたことなんて、一度もねぇよ」
2年前のあの試合。
カードの並びも、空気も、あいつの目も――全部、焼き付いてる。
宇佐美は天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。
「執念深ぇな、お前」
「勝負師としては普通だ」
「いや、普通じゃねぇよ」
少しだけ間を置いてから、宇佐美は続ける。
「あいつ……ハインケル、だっけか」
名前が出た瞬間、空気がわずかに変わる。
「……ああ」
「今年のWSOP、出るらしいぞ」
その言葉に、思わず笑った。
「だろうな」
むしろ、出ない理由がない。
世界中のトップが集まる舞台。
あいつみたいなやつが、黙って見てるはずがない。
「お前も出るんだろ?」
「当然だ」
即答だった。
迷う理由がない。
「また当たるかもな」
宇佐美の声は軽い。だが、その言葉には現実味があった。
WSOP――世界最大の舞台。
そこに立てば、嫌でもトップ同士はぶつかる。
「当たるさ」
俺は窓の外を見たまま、呟いた。
「次は、絶対に勝つ」
あの時とは違う。
あれから、どれだけの勝負を重ねてきたと思ってる。
どれだけの金を動かし、どれだけの人間を沈めてきたと思ってる。
「、、、怖ぇよ、お前」
宇佐美が苦笑する。
「目がマジすぎる」
「当たり前だろ」
俺は視線を戻し、わずかに口元を歪めた。
「あいつは、俺から全てを奪っていった」
「金も、人生も、尊厳も何もかも、、、」
だから
それを、取り返す。
世界の頂点で。
今度は俺が、あいつの全てを奪ってやる




