黄金翼杯 こんなところで何をしている
セカンドレースが終了し、残るはファイナルレースつまりは決勝戦だけとなった。セカンドレースから七名がファイナルレースへと駒を進めた。各組の上位三位と、残り一名は寮組の四位の選手のタイムが速かった方が選ばれ、今回は一組目の方から選ばれた。そして、七人がファイナルレースの出場を決めた。
私は白魔導協会が運営する医療テントで、セカンドレースで負った傷を癒していた。正確にはすでに傷自体は完治していたが、次のレースぎりぎりまで身体に負荷をかけないでおこうというのが私、というよりはブロティーナのレース前の方針だった。
すでに私の身体は限界を迎えていた、それは誰に言われるまでもなく私が一番よくわかっていた。すでに身体の八割が死んでいるようなものだった。ついには世界から音までが消えたのだから私は少しずつ着実に死に近づいていた。
ただ、ブロティーナがいうには、精神的ショックからも耳が聞こえなくなる可能性もあるといっていたが、私のこのボロボロの身体を見てどこにそんな希望的観測を抱けるのか不思議でならなかった。どうみても肉体的損耗からとしか考えられなかった。どうしようもなく、死が迫っているのだ。
ファイナルレースまではまだ時間があった。
死と追いかけっこをしていた私はちょっとでも時間を稼ぐために、ブロティーナの膝の上で黒い繭の中に胎児のようにうずくまって休息をとっていた。この私が包まれていた魔法道具の黒い布は、繭のように包まれると身体の疲れを癒してくれる効果があるのと、包まれている間、この黒い布に外部から触れた者と、脳内で会話することができるすぐれものであった。そして、こんな便利な魔法道具はそうそう出回るものでもなく、この魔法道具は白魔導協会でもとても高価なものらしく、それでもここにあるのは、ブロティーナが協会に貸出申請もせず無断で持ち出してきたからだった。
『リリャ、ちょっといいか…』
ブロティーナの声が頭に響いた。
『なに?今、いい感じに眠れそうだったのに…』
嘘だった。目は冴えていた。ひとたび眠ればきっともう永遠に目覚めはしない、そんな予感があった。だから、繭の中でも私は必至に暗闇を見つめていた。
『悪いだけど大事な話しなんだ…』
『いいよ、話して』
音が聞こえなくなったが、この脳内に直接話し掛けれる仕組みなら、会話は可能だった。
『どうしても、次のレースでるつもりか?』
『そんなこと、今更、聞くわけ?』
『命が惜しいとは思わないのか?』
私はそこで大きなため息をついた。彼女が何を言いたいかは分かり切ったことだったし、きっと世間一般的に見ても彼女の方が正しいことを言っていた。世間一般の意見というのはたいてい正しいものだ。
だが、私はたとえ誰になんと言われようと、自分のこの間違いを正す気はなかった。
なぜなら、それが何よりも私の中に流れる契約を守ることに繋がるからだった。この身を代償に得た力をもう手放す気はなかった。
『その質問、私のやってることがくだらないからやめろって言ってるのと同じなんだけど、また繰り返す気?』
『お前の覚悟はもう聞いたから、いまさら止めようなんて思ってない。だけど、リリャ、もう一度お前の中で考え直してみろ、お前の家族や友人は、お前が今ここで死んだら悲しむとは思わないのか?』
そのことについて考えてみた。きっと、とても悲しんでくれるのだろう、お父さんはとっても泣いてくれると思う、弟もなんだかんだ私のことが大好きだから泣いてくれる。お母さんは、たぶん泣かない。だけど、家族の中で誰よりも傷つくと思う。
ルコは多分、一生引きずってくれるんじゃないだろうか?そんな気がしてならない。他のみんなはどうだろう?きっとその時は悲しんでくれると思うけど、時間が経てばみんなそれぞれ自分の道を生きていくんだと思う。
そう思うと、ルコだけがちょっと気がかりだと思った。けれど、そこでふと、黒髪で青い瞳の表情は乏しいがどこまでも優しさとその優しさゆえの弱さと強さ兼ね備えた青年アルトのことを思い出した。
すると途端に私のイメージの中で、私の死に生涯悲しんでくれていたルコから、彼と共に幸せな人生を歩む彼女の姿がありありとイメージできた。
『なんか、みんな、意外に私抜きでも生きていけそうだと思うよ』
『私はもうお前無しじゃ生きていけないぞ?』
『それは嘘だよ』
ブロティーナがそう言うが、私は彼女は私が死んだ後、きっとすぐに私のことなんか忘れて、とても優秀な白魔導士として活躍している姿がイメージできた。
『ブロティーナは、きっと私のことなんてすぐに忘れてると思うよ、だって、ブロティーナってすごく流されやすいじゃん』
彼女は何度も『そんなのありえない!』と抗議していた。私はそれがおかしくて、ずっと笑っていた。
ブロティーナにも生涯を通してずっと覚えていてもらえたらなと思った。大切な友人として、私も、もう彼女を忘れられそうになかった。それほど、ここ数か月ほど彼女と過ごした時間は濃厚だった。
私を治してくれる白魔導士が彼女で良かったと思っていた。口には出さなかったけれど、本当に心からそう思った。
なぜなら、ここに来るまでの辛い日々が、彼女のおかげで少しだけ楽しいものになっていたからだった。それを私は認めなくちゃいけなかった。私がこうして笑っていられるのも彼女のおかげなのかもしれない。
なんてね。
『ちょっと待っててくれ』
ブロティーナが一度、私との繋がりを切った。きっと外で何かあったのだろう。あるいは誰かが尋ねて来たか。ただ、私は現在面会をすべて遮断していた。なぜなら、ここで人を入れてしまえば、ブロティーナのように引き留めようとする人が何人も面会にくると思ったからだ。
そこにルコが来て、『お願いだから、リリャちゃん、やめて』と言われてみろ。情けない話し、私の決心は揺らいでしまうかもしれない。フルミーナが来てそんなことを言われてみろ。そもそも、彼女との約束を果たすために飛んだ私の決意は、バラバラに空中分解してしまう。
そんなことになっては、一緒に飛んでいたラウル先輩に申し訳ない。彼との約束も悪い形で反故にしてしまう。だから、なんとしてでも、私は最後のレースを飛ぶ必要があった。
『リリャ』
ブロティーナからの応答が返って来た。
『ラウルっていう、お前の先輩が面会を求めてるんだが、どうする?』
私は少し考えてから言った。
『いいよ、入れてあげて』
私は繭の中に籠り、外部との繋がりはブロティーナを返してでしか、できないため、彼女に私の意思を伝えてもらうことにした。
私はいよいよ最後のレース先輩と飛べることを楽しみにもしていた。なんといっても、私は、彼との約束を守れたのだ。これは誇らしいことだった。
だから、私は、彼と正々堂々次のレースでも戦うことを伝えたかったのだが。
私は、ブロティーナを通じて、ラウルの言葉を聞き取った。
それは聞くに堪えない、ふざけたクソセリフばかりだった。
***
ラウルは、リリャのいる治療室のテントへと入ることが許された。外には彼女のクラスメイトの友人たちが集まって、一緒に入ろうとしていたが扉の前にいた白魔導士に止められていた。
奥に通されるラウルは、その間際。
「フラーセムさん、お願いします。どうか、リリャちゃんを止めてください!」
リリャの友達にそう言われた。ルコという少女だった。
ラウルもそのつもりだった。決して、あのような飛び方をさせまいと説得をしに来ていた。
ラウルがテントの奥に通される。テントといっても、そのテント内には幾重にも結界が張られて鼠一匹はいることが許されないほどの、鉄壁ぶりだった。それは中にはいっただけで感じることができた。テントはかりそめ、外からの衝撃に非常に強い結界が構築されていた。
さらにテントの中の空気は嫌というほど清潔が保たれている感じがしたし、常に薬品の匂いが漂っていた。部屋の隅には酒瓶がいくつも転がっていた。
ラウルが通された部屋の奥に目をやると、そこにはブロティーナという女性が黒い布に包まれた繭のようなものを抱えて患者用のベットの縁に座っていた。
「どうも、ラウルさんだっけ?そこの椅子適当に引っ張って座ってくれ」
ラウルは言われた通り、酒瓶が転がっていたところから椅子を引っ張って、彼女の前に持って来て腰を下ろした。
「あの酒は私のだ」
そんなことは言われなくてもわかった。
「飲んでないとどうしてもやってられなくてね…」
やるせない顔で黒い繭を撫でる彼女にはどこか悲壮感が漂っていた。
「ところで、リリャはどこにいるんですか?」
「いるよ、この中だ。彼女は今、この中で休憩中だ。彼女に伝えたいことがあったら私を通して言ってくれ、彼女からの注文で、お前さんの言ったことをそのまま伝える。さすがに感情までは乗せられないから、そこらへんは考慮してくれ、熱くなっても、私は彼女にその言葉の意味だけを伝える、それでよろしければどうぞ、あと、余計な質問はめんどうだからするな、お前は今、私と彼女のふたりだけの時間を奪っているんだからな、さあ、さっさと用件を述べて、帰りな」
何とも敵対的な態度だったが、ラウルは気にせず、彼女に、そして、その中にいるリリャに伝えた。
「単刀直入に言う。リリャ、お前は次のレースを降りるべきだ」
その時、ブロティーナが一瞬にやりと口角を上げた。ラウルはその笑みがどことなく底意地の悪いものだと感じたが、気にせず続けた。
「急にこんなこと言っても悪いと思ってる。だがな、リリャ、お前のあの飛び方は寿命を削るばかりでなく、あの飛び方では身体が持たないどころか最悪、死が待ってる。お前には死んで欲しくない…」
室内には沈黙が広がった。ラウルが彼女たちを見ると、ブロティーナは目を閉じて黒い繭を撫でていた。彼女の顔にはまだあの微笑が残っていた。
沈黙を破ったのは再びラウルだった。
「昔、俺もお前みたいに飛んでいたんだ。だけど、クリス先輩や他の先輩に止められた。なぜかわかるか?その飛び方だと先がないからだ。俺は先輩たちの忠告のおかげで、こうして、今、ここまで来ることができた。そして、リリャ、お前のおかげでもある。お前がいたから、俺はここまで来れた」
ラウルはリリャがいなければ、本当にここまで来れなかったとそう思ってしかたなかった。自分のどこか無理なんじゃないかという厳しい現実をあっさりとひっくり返し、こうやって飛べばいいと導いてくれたそんな気がしてならなかった。
「俺は、お前に感謝してもしきれない。だから、ここで無理をして未来の選手生命を絶って欲しくないんだ…」
リリャの飛び方は明らかに限界を超えていた。血が出ている時点で、身体が負荷に耐えられていないのは明らかだった。それを続ければ、身体が壊れてしまう。そうなっては、元の生活にだって戻れなくなる。彼女にはまだ何年も先がある。それをこんな一度のレースで棒に振って欲しくなかった。
「私たちはライバルになると約束しましたよね、そして、決勝で争って私かラウル先輩のどちらかが優勝する。忘れたんですか?」
ブロティーナが機械的に淡々と伝えた。しかし、その中にいるリリャもきっとそのような声質で言ったような気がした。
「ああ、誓ったな、俺たちは敵同士、良きライバルであると、だが、お前のあの飛び方は…」
そこでブロティーナがすかさず遮るように口を開いた。
「私に負けそうだから、先輩は、私にレースから降りろというんですか?」
「そう思われても仕方ないな、だが、たとえそう思われても、お前にはもう、あんな飛び方をして欲しくないんだ…」
ラウルはそういう反論が飛んで来ることも予期していたし、そう見えても仕方ないと思っていた。だが、何よりもこれは彼女のことを思ってのことだった。
「じゃあ、ラウル先輩も次のレース降りてくれるなら、いいですよ、それなら、私もレースから降りてあげます」
「!?」
ラウルはその時、固まってしまった。そして、何よりも黙り込んでしまった。頭の中でその意外な提案に答えを出そうとしても、ラウルは、一歩勇気が踏み込めなかった。なぜなら、この年を逃すということは、翌年に持ち越しということだった。
それはまた一年マリアを不安という檻の中に閉じ込め、そして、何より、来年勝てるかどうかという問題がラウルの頭の中には残った。
来年はない。
ケインコーチの言葉がここでよぎった。ラウルは、その呪いのような予言めいた言葉に囚われていた。それがどういう意味なのか分からない。それでも、こうして、今年自分が優勝できるかもしれないという可能性があるならそれに掛けたかった。彼が飛ぶことやそれらに関わることで外れたことを聞いたことがない。だからこそ、ラウルや他の部員たちは飛行に関することで、ケインコーチという存在にある意味で絶対的な信頼を置いていた。
もうひとつ、ケインコーチが残してくれた言葉があった。
救いなさい。
それはラウルを、無理して飛ぶリリャにレースを中止するように行動させていた。
彼女をレースから救えば、きっと自分が優勝できる。それがラウルがケインコーチから導き出した答えだった。
リリャの身を案じる気持ちに嘘偽りはないが、これこそ、ラウルはケインコーチが予言した未来だと思っていた。
しかしだ。
ラウルは何かが違うと、心のどこかに、何か鈍い痛みのようなものを感じていた。
自分が何か、リリャに対して言葉を発するたびにその痛みは確実に強く広がっていることを自覚しながらも、やめることができなかった。
それは、なぜなら…マリアのためだったから。
「何か言えよ」
それはブロティーナから発せられた言葉だったが、あきらかに中のリリャが放った言葉であった。
「俺は…」
何か答えようとしたが、やはり言葉に詰まった。それだけの事情をラウルも抱えていた。そこにすかさず、冷たい追及がブロティーナを通して放たれる。
「ラウル、お前、何か隠してるだろ?」
それはブロティーナから発せられるが、確かにリリャからの言葉で間違いなかった。おそらく、ブロティーナによって言い直されているわけでもなかった。
「お前が、このゴールデンウィング杯の優勝に掛けている想いが半端じゃないことは分かってる。他の奴らと明らかに抱えてる重みが違う。なぁ、お前、なんでそんなに優勝したいんだ?」
「………」
答えるわけにはいかなかった。マリアのことを彼女に話し事情を知られてしまえば、それこそ、リリャは手を抜く可能性があった。それをいったことでリリャは本領を発揮できないかもしれない。それでは公平ではない。それでは真剣勝負にならない。
真剣勝負?
「あくまで、黙ってるつもりなんだな?」
ブロティーナがそう言った時だった。彼女が抱えていた黒い繭がほどけた。それにはその繭をブロティーナ本人も驚いていた。
黒い繭の中からリリャ・アルカンジュ、本人が現れる。
「リリャ…」
ラウルが驚いて顔をあげた瞬間。それは瞬きをするよりもはやかった。リリャがラウルの目の前にいた。それは文字通り一瞬の出来事だった。
そして、リリャが拳を振りかぶっていたのも同時だった。
「!?」
衝撃が走った。
何が起ったか分からなかった。ラウルは顔面に強い衝撃を覚え、気づけばテントの結界の壁に叩きつけられて、酒瓶の上に転がっていた。
鼻からは血が出ていた。顔の半分が熱を帯びてはとても痛かった。
「ふざけんなよ!!!」
リリャが怒号を発し、こちらに向かって力強く地面を踏みしめて一歩一歩近づいて来る。
そして、倒れていたラウルの襟元を力強く掴むと持ち上げた。彼女の顔が良く見えた。彼女の顔は怒りのあまりぐちゃぐちゃに歪んでいた。至る所に皺が寄り、その皺の中の血管が今にもはち切れそうな勢いだった。
「お前、何のために今まで飛んで来たんだ?なあ、この大会で優勝するためじゃなかったのか?なあ、おい!!!」
リリャが怒鳴り声を上げた。ラウルは声も出せず、その彼女の怒りをただ受け止めるしかなかった。
「てめえが、何を抱えてるか知らねえけどな!この私が、お前のライバルである、この私が!ライバルからのそんな安っぽい言葉で、はい、じゃあ、レース降ります、なんて、口が裂けても言うわけねえだろ!!!」
そういうと、リリャは片手でラウルを反対側の壁に叩きつけた。ラウルは叩きつけられた衝撃で息ができず、その場にうずくまった。
「心配してる暇があったら、私に勝つ策のひとつでも考えてみろよ!知らねぇんだよ、飛び方がどうとか、そんなのは私の勝手だろうが!!!」
リリャの怒声が響く。
そして、彼女の怒りはまったく収まらなかった。それはもう噴火した火山のように、烈火のごとくだった。
リリャがラウルのもとまで行くと、彼を何度も足蹴にした。彼の身体を何度も何度も容赦のなく踏みつぶした。ラウルはその痛みに耐えるために身を丸くしていた。
しかし、暴力の化身のような彼女の殴りの重みとその激しさは増す一方だった。ラウルは必至に耐えた。その怒りが止むまで。彼女の許しを得るまで。どうか、その怒りを鎮めてくださいと。
痛みが続く。
止めてくれる人は誰もいない。
しかし、ラウルの中で、何かが癒えていく感覚があった。身体は激しい暴力にさらされて悲鳴を上げているのにも関わらず、心がどこか救われていくようなそんな奇妙な感覚。この感覚を理解する前に、暴力の勢いが一層激しさを増した。
リリャがラウルの頭を掴んで持ち上げる。彼はすでに血だらけで綺麗な顔も醜く腫れあがり至る所から血が流れていた。
「何とか言えよ!!!言ってみろよ!!!」
それでも容赦ないリリャが再び、横の壁にラウルを投げた。ラウルはぶっ飛び、結界の壁に激突し、はりつけになった。何とか体勢は立ったままだったが、足に力を入れて崩れ落ちることはなかった。
リリャが激しい怒りをその顔に浮かべたまま、こちらにゆっくり近づいて来る。だが、なぜだろうか?彼女の怒りの発露の激しさとは反対になぜか、その行動にはところどころ間のようなものがあった。それはなぜわざわざ投げ飛ばすのか?という点にも疑問があった。
地面にうずくまる自分を蹴り続けたり、魔法を使ったり、なぜしないのか?
その時、リリャの目を見た時、そこには確かに自分に問いかけていた。
そして、彼女の伝えようとしていることがそこでようやくラウルは汲み取れた。
『あぁ、そうか、俺は………』
ラウルはようやくこの痛みのなかのやすらぎが意味するところが何なのかを、リリャの暴力で理解した。
それは自分がどうしようもなく、曲がり、歪んでいたことを意味していた。その歪さは間違いなく自分の思いと行動の齟齬にも現れていた。そして、暴力を受けることで、その自分の歪みが強制的に正しい位置に戻されていくことで、ラウルはやすらぎというよりも正しさを取り戻しつつあった。
『間違っていたんだ。最初から。こんなことする必要なんて初めからなかったんだ…』
誰も間違ってはいなかった。ここに至るまで誰も間違っていなかった。外で待っていたリリャの友達も、予言を残したケインコーチも、そして、激しい怒りに問われているリリャも、誰も、誰も間違っていなかった。
ただ、ひとり、自分を除いて。
ラウル、ひとりだけが間違っていた。
『リリャ、お前は、なんて、なんて優しい奴なんだ……』
それを正そうとしてくれていたが紛れもなく、激しい怒りを向けていたリリャだった。
『俺が間違っていた。俺はこんなところに来るべきではなかった。俺とお前は、ただ、この先にあるレースで、こんなふうに激しくぶつかるだけで良かったんだ。それなのに、俺は、お前にこんな芝居までうってもらわないと、気づくことができなかった。なんて、バカなんだ、俺は…』
ラウルは目を見開いた。
すでにリリャの拳が迫っていた。ラウルはそのリリャの拳を飛行の訓練で鍛え抜いた動体視力を頼りに手を前に出し受け止めた。あいにく、喧嘩のほうはからっきしだめだったから、その後に来る追撃のことは考えられなかった。
だが、次の暴力はこなかった。
「目、覚めましたか?」
リリャから怒りの感情が綺麗さっぱり消えていた。その怒りを宿した炎がまるで最初からなかったかのように、火事だと騒ぎ立てた人が嘘をついていた。そんなふうに彼女からは怒りの感情が一瞬で消え去っていた。
「リリャ、俺が、間違っていた、俺はただお前と真剣勝負を…」
すると、リリャはラウルに向かって、自分の耳を指さした。最初、それが何を意味するか分からなかったが、彼女が言った。
「ラウル先輩、すみません、私、いま耳が聞こえないんですよ」
リリャは何でもないように言うのだった。
それから、争いで散らかった部屋の片づけは後回しに、ラウルはリリャとブロティーナを返して改めて話しをした。
その際、ラウルは自分の飛んでいる理由であるマリアのことをリリャに全て話すことにした。そのことで彼女から同情を買おうとしているわけではなかった。話さなければと思った。自分が飛んでいる理由も話さずに飛ぶことがこの時それこそが、公平を欠いていると思った。それに、きっと、話したところで彼女は決して容赦してくれない、そんなことは分かり切ったことだった。そして、そうじゃないと意味がなかった。
ラウルは語った。
幼い頃の自分とマリアの関係、そこから運命的に彼女と再会し、そして、彼女の取り巻く環境が大きく変わっていたこと。マリアが、ルゴラード商会のダメ息子と婚約を結ばれそうなこと。それを阻止するために、親友のビンセントと共に、その商会の主人であったレダオール・ルゴラードに交渉を持ち掛け、そこで、ゴールデンウィング杯で優勝することで、マリアとの婚約を解消し、彼女を自由にしてやるということ。大事なことを一切省かずすべて彼女に伝えた。
それを聞いたリリャは、最初にこう言ってくれた。
「容赦しないですよ」
その言葉が聞けてたいそう安心した。
ラウルがすべてを語り終わったあとだった。
リリャもこれまでのことをすべて語り始めた。ただ、それは、何度も嘘だと口にしたくなるほど、悲惨な日々で聞いているこっちが顔を空想の痛みで歪めるほどであった。
その地獄の日々の練習メニューは、いつ死んでもおかしくないものばかりで、それを毎日欠かさずおよそ三か月ほど休まずゴールデンウィング杯ギリギリまで続けていたようで、そんなことを成し遂げてしまえば、それはもう人間ではいられないことは分かり切っていた。
だから、嫌なほど理解できた。天才が死ぬことも厭わない練習を毎日繰り返して、我々の積み重ねたおよそ四年という月日に匹敵、いや、それ以上の成果を上げたことを。
そして、そこには彼女が愛するフルミーナという女性への強い想いがあったからできたことだと彼女は言った。
その時、ブロティーナの舌打ちをはっきり聞いたときは、なんだか知らないが胸がすっとしたが、それどころではなかった。
極めつけに、リリャは自分が無痛であることを証明した。そんなこと証明しなくても良かったのに、彼女は少しは自分の特技を見て欲しいと言ったが、それは特技でもなんでもなかった。
彼女が突然取り出したナイフで自分の手に突き刺すという狂気的な行動を何のためらいもなくおこない、そこで少しも苦痛の顔も浮かべず、ちいさな悲鳴ひとつ発しない彼女を見て、ラウルは静かに自分のライバルの末恐ろしさを再認識させられた。
話しが終わると、リリャの手の治療の後、ラウルはブロティーナから嫌々先ほど受けた傷の治療を施してもらった。嫌がった彼女だったが、リリャが命令をすると、彼女は悪態をつきながらも治療してくれた。治療中、そうやってずっと嫌な顔をされたが、ラウルはそれを苦笑いで応じるしかなかった。
時刻はおおよそ午後五時を過ぎ、ファイナルレースまでの時間が迫っていた。ファイナルレースは午後六時を予定していた。
ラウルもそろそろ準備をするために、帰ることにした。
「ラウル先輩」
帰り際、リリャがラウルを呼び止めた。彼女はその場にひとりで立っていた。何か用か?と返事をしようとしたが、彼女には伝わらないので言わなかった。
リリャは言った。
「マリア先輩にちゃんと自分の想い伝えておいた方がいいですよ」
それは手厳しい忠告だった。それはラウルにとっても、マリアにとっても、現状、意味の無いことだと思っていたので、ずっとその思いを伝えずにいた。だが、彼女は違うと言う。
「私も、このゴールデンウィング杯で優勝したら自分の想いを伝えようと思っています。そうじゃないと、いつまでたっても何も変わりませんからね」
リリャは少し恥ずかしそうに笑った。
「あと、ラウル先輩、マリア先輩と小さい頃あったことがあると言ってましたけど、それなら、その当時のことちゃんと教えてあげれば、きっと、マリア先輩も思い出すと思いますよ」
「いまさらだな…」
ラウルはひとり呟いた。
「いまさらじゃないですよ」
「聞こえたか?」
「いえ、口元からそう言ったのかなと思っただけです。あと、可愛い後輩からの忠告なんで、守った方がいいですよ」
「かわいい後輩?誰が?どこどこ?」
ラウルが辺りをきょろきょろ見渡しながら言うと、彼女が握り拳をつくった。
「また、殴り飛ばしますよ」
彼女は耳が聞こえなくなったのが嘘なんじゃないかと思うほど、正確にこっちの言葉を読み取っていた。
それから私たちはお互いの顔を見て笑い合った。
「リリャ、それじゃあ、レース会場で会おう」
「はい」
ラウルが拳を突き出すと、彼女はすぐに理解してくれた。
お互いに見つめ合う瞳にはどちらも譲れないものを掛けた強い闘志が宿っていた。
二人の真剣勝負が始まる。
その合図は、二人が拳を突き合わせることで始まるのだった。
*** *** ***
時刻は、午後六時十八分。
闇迫る黄昏時。
ファイナルレースが幕を開ける。
ゴールデンウィング杯、終了まで。
残り、一分三秒。




