黄金翼杯 セカンドレース 彼女の闇
ラウルがリーベウィングの会場に上がるが、まだ、そこにはリリャの姿はなかった。会場はのっけから大歓声に包まれて観客たちの熱量は十分だった。
ラウルは自分のスタート位置である第二レーンで、身体をほぐすための柔軟体操を始めた。ボォードンには意味がないと言われた柔軟体操も、自然とラウルの揺らいでいた心を落ち着かせた。
次々とセカンドレースの選手たちがスタートラインに入って来た。
【オロモス・ベンバー】はいない。彼はすでに一組目のセカンドレースで飛び終わり一位通過していた。ラウルたちは二組目だった。
それでも、周りには強豪選手しかいない。ゴールド帯を勝ち残り、ファーストレースを勝ち抜いてきた猛者ばかりだった。一人一人が自分が積み重ねて来た揺るぎない鍛錬をもって自信に満ち溢れていた。
『毎年、トーナメントで見る顔ばっかりだな…』
去年までラウルが観客席から見ていた見慣れた顔の選手たちが周りにはいた。ラウルにとってもセカンドレースの対戦相手としては不足なく、むしろ、しのぎを削るレースを覚悟しなければならない状況だった。
しかし、そろそろレースが始まりそうだというのに、未だにリリャの姿がなかった。
『リリャ、傷が治らないのか…』
ラウルはリリャがレース会場に現れなければ、現れないほど、心が揺さぶられた。彼女を待ちわびていた反面、来ないことを願ってもいた。彼女がいると勝てないからではなく、彼女が来なければ彼女がこれ以上傷つかなくてすむからだった。そしたら、後で、あんな飛び方をやめさせるように、クリス先輩が自分にしてくれたように彼女を守ってあげられるからだった。
『無理はしないでくれよ…』
だが、ラウルの期待とは反対に彼女は現れた。
目が痛くなるような真っ赤なユニホームを身に纏った彼女は、空いていたラウルの隣の第三レーンに向かって来た。
「遅かったな、怪我とかは大丈夫なのか?」
「………」
リリャはラウルを無視して、スタートラインに着き前を向いた。
「リリャ?」
彼女はラウルの言葉に耳を貸さずにただ、まっすぐ前を向いた。
「………」
ラウルは最後に聞こえているかいないか分からないリリャに言った。
「ボォードンさんが伝えてくれって言伝があった。ありがとうって、それだけだけだけど、お前に感謝してたぞ」
リリャは予想通りなんの反応も示さなかった。
ラウルはそんな彼女から引き下がった。集中していたのかもしれないと思い、それを邪魔してはいけないと身を引いた。
だが、ラウルは気づいていなかった。そこにいるのがすでにリリャ・アルカンジュではないと。彼女の皮を被った、空の怪物であることに。
そして、それは誰もが気づくべきだった。
しかし、それは彼女自身によって巧妙に隠されていた。
レース前に誰にも気取られないように。
一度目の笛が鳴る。
選手たちがゆっくりと一速で空へと舞い上がっていく。
ラウルは、最後にもう一度リリャを見た。
彼女の目が一度も瞬きをせずにただ、前だけを見据えていた。
『なんだ、この胸騒ぎは…』
何かこれから嫌なことが起こりそうな気がしてならなかった。
『リリャ、お前、どうしちまったんだよ』
その不安が、ラウルの心をかき乱そうとしたので、彼は慌てて一速で飛び上がり、スタート位置について、自分を落ち着かせた。
『ダメだ、落ち着け、試合に集中しろ。もう、始まるんだ』
レース前いつも自分の気持ちを落ち着かせて、スタートできていたラウルだったが、この時だけは何かいつもと違った。それは紛れもなく隣に、リリャがいるからなのだが、ただ、彼女がいるだけで、ここまで緊張するわけがなかった。
リリャが一速でスタート位置に着いた。
セカンドレースの八人の選手がコースに着くと、あとはスタートの合図の二度目の笛を待つだけだった。
『なんだ、この緊張感は…』
スタート直前。
何度も自分のこの異常な緊張の理由を探したラウルがひとつの答えにたどり着き、この溢れる感情がただの緊張ではないことに気付いた。
『違う、これは…』
ラウルが自分の手が震えていることを認め、声が出た。
「恐い」
二度目の笛がなった。
***
選手全員が一斉に五速を展開するなか、リリャ・アルカンジュ、ひとりだけが六速を展開したことで、飛んでいた選手全員の目が、彼女に集まった。そして、彼女を見たところで誰もが息を呑んだ。六速の展開と共に鮮血に染まった彼女。六速の青という飛行魔法単体で使用するには限界ともいえる領域を、臆することなくスタートダッシュで使った。
選手全員の脳裏に、ひとつ不安がよぎった。
このまま、最後まで六速で飛ばれたら、この場にいる誰にも勝ち目がないと。
スタートしてから、一位のリリャを除いた集団が第一コーナーに入る。その時点ですでにリリャは第二コーナーを抜けきっていた。六速青の一切減速の無いコーナーリングが、彼女を即座に一周目のバックストレートの直線へ導いた。
集団が最初のカーブを曲がり切る頃には、すでに、リリャが二つ目のカーブを曲がり切りひとりだけ一周目を終えようとフロントストレートへと入っていた。
「なんだよあれ、あんなのありかよ」
選手の中のひとりが悪態をついた。それもそのはずだった、リリャ以外の選手たちが一周目を終える時にはすでに、一位の彼女だけが、二周目のバックストレートを飛び終えようとしていた。
全員が、その時、周回遅れに震えていた。ここまでくると実力が拮抗しているはずのセカンドレースで、まさか、周回遅れのようなことが起こるなど、誰も想像していなかった。それも一位以外の七人全員がだった。
そして、その時はあっという間にやって来た。
集団で二周目のバックストレートの中腹を飛んでいると、背後からただならぬ圧が選手たちを襲った。そして、その圧が凄まじい速度で距離を詰めて来ると、選手たち全員がそこですべてを悟った。それに追いつかれてはいけないと。さながら、それは死のようだった。
追いつかれたら最後、すべてが終わり、誰にも超えることのできない絶対的な存在。
背後から迫る死に誰もが振り向けなかった。
集団が第三コーナーに入ろうとしたその時。
死の具現化したような真っ赤な怪物が青い六つの閃光と共に、集団の中央に後ろから突っ込んで来た。
集団の選手たちはとっさに、その背後からもう突進してきた死から逃れようと、わきにそれていた。
ひとりだけ、減速することもいとわず、そこで振り向きその背面から迫る死を正面から見据える選手がいた。その選手は魔法学園アジュガの飛行部に所属したラウル・フラーセムだった。
彼は、突っ込んで来た、死を目の当たりにすると、その場に空中でとどまった。レースであることを忘れた彼は、その死とぶつかる寸前にも関わらず、一切目を背けることなく、それを見つめていた。
誰もが正面衝突すると思っていたがそうはならなかった。
ぶつかる直前、一瞬、彼女の姿が消え去ったかと思うと、突然ラウルの背後に現れ、集団を第三コーナーのカーブで抜き去り、全員を周回遅れにして四周目に入っていった。
彼女の凄まじい速度で追い抜かれた全員が、急激な気流の変化と回避のために体勢を崩し、立て直すのに苦労していた。さらに恐怖に当てられ、みんな彼女が飛んだあと腰が引けていた。
彼女から一切目を背けなかったラウルだけが、誰よりも早くスピードに乗ることができ、集団から飛び抜け二位に躍り出た。
レースはすでに崩壊していた。
***
ラウルは三周目の第一コーナーを曲がる。
リリャを正面からとらえた時、ラウルはなんともいたたまれない気持ちになっていた。彼女は身体の至るところから血を流し、赤いユニホームがあらかじめその事実を隠すようにカモフラージュしていた。
最初から、これは想定されていたことだった。
リリャは加速することをやめない。そのたびに傷つく彼女の身体をラウルは見ていられなかった。
三周目を飛び終え、ラウルも四周目に入った時。すでに彼女とは半周以上の差が開いていた。このペースで行けば、ラルウは、この四周目の第三コーナーあたりでまた二度目の周回遅れが待っていた。
ラウルが四周目の第三コーナーに入ると、背後からリリャが再びラウルを抜き去った。その時ラウルが見た彼女の横顔にはすでに、悲惨さが広がっていた。口からは血を吐いた後、目からは血の涙が止まらず、身体は六速という高負荷の魔法によって体内に流れる魔力に耐えられず、ズタズタに引き裂かれていた。かなりの激痛どころかすでに意識が飛んでいてもおかしくないのに、彼女は顔色ひとつ変えないで飛んでいた。
「リリャ…」
ラウルはそんな彼女に手を伸ばしていた。戻って来て欲しい、そんな飛び方しないで欲しい、死なないで欲しい。だが、一瞬で飛び去っていく彼女に、ラウルは触れることさえできなかった。
だが、その時だった。ラウルが彼女の代わりに触れてしまったものがあった。それは、彼女が飛び去った後、彼女の背後について回っていた何かだった。
それは決して目ではとらえられず、けれども確実にその何かはリリャを飲み込もうと彼女の後を付け回していた。ラウルはその得体のしれない何かに触れてしまった。
そして、その得体の知れない何かに触れた一瞬だけその姿を目にすることができた。
それはどこまでも深い闇だった。真っ黒い闇の塊がそこにはあった。その闇からラウルは本能的に素早く手を引き目を反らした。それは直視してはいけない類のものであり、感覚的には呪いの類だった。
そこには恐れ、怯え、悲しみ、苦しみ、痛み、腐敗、飢餓、ありとあらゆる負の要素が詰まっているようだった。
リリャはその闇から逃げるように飛んでいた。
ラウルはその闇に触れた時、考えるまでもなかった。
「待て!!!」
加速した。
それも、今までにない速さで体内の魔力すべてを出し切る勢いで、限界を超えるつもりで、加速した。
ラウルの背中には、何の前触れも躊躇もなく六輪目のリングが出現した。それはまるで最初から使えていたように、六つ目のリングは彼にすぐに力を与えた。
六つのリングの出力はすぐに赤、黄色、白、と変わっていき、最終的には青へと変わった。
「うぐッ!!!」
しかし、六速の急加速と魔力的な急激な負荷は、すぐにラウルの身体に信じられないほどの痛みを与えた。
血を吐きながら、それでも、リリャに追いつくために加速を続けた。
『間に合え、手遅れになる前に…』
ラウルは分かっていた。あのリリャを追う闇が、彼女に追いついた時、よくないことが起こると。
そして、あれは紛れもなく、『死』、そのものなんじゃないかと。
「リリャ!!!!」
四周目の第四コーナーから、フロントストレートを六速で追いかけ、五周目のカーブに入ったところで、ラウルはカーブを曲がり切れず、減速エリアに半身が入ってしまった。それにより急激に減速し、リリャが遠ざかっていく。
「クソッ!!!」
すぐに減速エリアを抜け出ると、その先のバックストレートを六速の最大加速で一気に距離を詰めまたすぐにカーブに入った。
『間に合え、間に合え!!!』
六速の加速仕切った状態でラウルは無理やりカーブを曲がり切った。身体がバラバラになりそうなほどの負荷に、全身が悲鳴をあげ血しぶきをあげた。
そんなこと関係なく、六速で曲がり切る。
フロントストレートへ戻って来ると、目の前には彼女がいた。
『届け!!!』
しかし、彼女は、ラウルの視界からいなくなった。
「!?」
すると、彼女は、すでにレースを終え、ゴールしており、地上に降りていた。
ラウルにはあと二周残っていた。
「………」
ラウルが見下ろすその下でリリャもまたラウルを見上げていた。
しかし、彼女の目はその時、何も映してはいないように見えるのだった。
その後、二組目のセカンドレースは、一着を、リリャ・アルカンジュ、二着をラウル・フラーセムが飛び切り、その後を集団の選手たちが何周も遅れてゴールし、セカンドレースを終えた。
リリャとラウルは、二人ともファイナルレースへと駒を進め、これは魔法学園アジュガとしては去年に続く快挙となった。
そして、セカンドレースを終えるといよいよファイナルレースが幕を開けるのだった。




