黄金翼杯 ファーストレース 五組目 後編
三周目の第三コーナーに差し掛かった時だった。
視界の端に驚異的な速さで追い上げて来る緑色のユニホームの選手がいた。その選手の背には六つのリングが宿っており、最下位から翔けあがって来ていた。
私はそれを見て即座に、六速を展開し応じた。
だが、そのことに気づいた時にはすでに手遅れだった。
第三コーナーのカーブで、六速を展開した私の身体は急加速したことで、カーブの際の細やかな操作が破綻した。それでも、ここで加速しなければ、抜かされることは分かっていた。
第四コーナーを曲がる際、私は大きく外側に外れた。それでも、なんとかカーブを曲がり切るだけのリング操作を行い軌道を修正していく。
「お先に」
第四コーナーを曲がり切ろうとするとき、私の逸れたコースの内側から、先ほどの緑のユニホームの選手が綺麗なコーナーリングで抜き去っていく。
抜かされたことで私の頭の中は真っ白になった。私は、第四コーナーの出口付近で六速を展開したまま、止まってしまった。
その間に、次から次へと抜かされていく。
そして、あっという間に最下位になってしまった。
そして、いつまでも前に進まずにぼうっと離れていく選手たちを見送っているのは、私がこの現状に理解がおよばなかったから、いや、単純に自分の立てた推測が外れたことに、ショックを受けている、あるいは、六速を飛ぶ選手の存在を見抜けなかった自分の未熟さを恥じている、それだけじゃない、自分の目を過信したことに後悔している。
「許さねえ」
そんなわけがなかった。
どう考えても私がこの状況で一番に抱いている感情は怒り以外なかった。それも、この会場にいる誰もが想定していないであろう、激情。それもそのはず、私はこのレースで一度も一位から下ることなく飛び終えようとしていたのにも関わらず、私はこうして七位という最下位の地の底に落ちていた。これほどの屈辱は無い、こんな状況一秒だってあってはならない光景だった。
フルミーナが見てくれている。
たったこれだけで、私は今、抜かした選手全てに地獄を見せることを決意した。
「お前ら全員、地獄行きだ…」
頭の中に押しとどめていた地獄が顕現する。
地獄の門から、怪物が姿を現す。
それは天を翔ける怪物だった。
***
【ミルカ・キーメン】は必至で先頭集団を追っていた。
六速の出現により周りの選手たちが、焦りを感じたのか、一向に集団の速度が緩む気配がなかった。このレースの選手たちに様子見などなく、すでに四周目にして終盤を見据えた接戦が想定された、このハイペースのまま突き進むつもりのようだった。
『四速に切り替えないと、もう、もたない…』
四周目に入り、すでに、ミルカには限界が来ていた。彼女の五速ももう限界であり、赤の出力が精一杯だった。
『だけど、これ以上離されると…もう、勝ち目はないんだけど……』
何とか踏みとどまりたいミルカだったが、これ以上は五速で飛べそうになく、四速の青に切り替えた。それだけで、今まで鉛のように重かった身体が羽毛のようにふんわりと軽くなった。
『そうそう、普通は、この軽さのはずなんだよね…』
きつかった心肺機能も安定し始めミルカは、大きく深呼吸し、呼吸を整えることができた。
『せっかくの本選だったけど、仕方ないか…修業が足りなかったんだ……』
すでにレースから降りていた。残念ながら、この五組目のレースはミルカの実力では通用しなかった。とはいっても、彼女もゴールド帯では三十六名に入れるほどの実力者ではあったが、上には上がいた。
四周目の第二コーナーを四速で曲がっている間、ふと、ミルカは一位だった少女のことを思い出した。
『そういえば、あの子、急に止まっちゃったけど、どうしたんだろう、何かあったのかな?』
ミルカが、先ほどまでとまっていた女の子がいた第四コーナーあたりを見たが、すでにそこに彼女の姿はなかった。
『あれ、棄権したのかな?』
ミルカは第二コーナーのカーブを抜けて、バックストレートの中腹辺りを飛んでいた。すでに、先頭集団は、第四コーナーのカーブを曲がろうとしていた。彼女はすっかりおいてかれてしまったが、それも仕方のないことだった。
五速のように魔力の消費の激しい魔法を無理にしようすると、身体への負担も大きいため、来年のことも考えてここは無理はしない判断をしていた。
来年も再来年もある、それがミルカにとっての強みでもあった。彼女はまだ、四年生で才能の塊でもあった。
『本選の空気が分かっただけでもよしとしますか…』
将来のことを考えて飛ぶ彼女はとても賢かった。また来年もある、急がなくていい、力を溜めてまた大きく飛翔すればいい。そうすれば、今よりももっと素晴らしい成績を残せるはずだ。
だが、そんな彼女とは正反対の怪物が、横を凄まじい速さで飛び去った。あまりの速さに彼女の飛んだあとしばらく気流が乱れに乱れ、ミルカはバランスを崩しそうになった。
「なに、今の…」
体勢を立て直した先には、すでに第四コーナーを六速の青で爆走する。そこには白いユニホームを血に染めて飛ぶ少女の姿があった。次々と先頭集団を後ろから追い抜いていく。その光景はまさに空の怪物である竜が人を食い散らかしながら飛んでいるようだった。
ミルカはその光景を目に焼き付けていた。
***
【ジェイモンド・フール】は、振り向いて、それを見てしまった。
それは幻覚だったかもしれない。
けれど、彼にはそれが現実にしか見えなかった。
真っ赤な六つの翼の生えた化け物が、飛んでいた選手たちを食い散らかして、こちらに向かってきていた。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ジェイモンドは絶叫した。
もう一度後方を確認すると、真っ赤な化け物が咆哮しながら迫り、レース場の下には二名ほどの食い破られた体が、散らばっていた。それが本当に食い破られたのかは分からないけれど、ジェイモンドにはそれが化け物に食い破られて散らばった死体に見えてならなかった。
「ほ、ほわあああああああああああああああああああああああ!!!!」
ジェイモンドは叫ぶことをやめられず、必至になって飛んだ。五速の青で限界まで加速した。それでも、大きな口を開いて牙を剥きだしにした六つの翼の竜のような化け物から逃げ切るには速さが足りなかった。
ジェイモンドの前に第一コーナーが現れる。そこを曲がり切るには彼の技量ではまだ減速が必要だった。
しかし、ジェイモンドは、五速でそのカーブの入り口に突入した。
もう後ろを振り向くことはできなかった。ただ、背後からは大きな化け物の咆哮が聞こえた気がした。化け物の吐息が身体の全体に吹きかけられたような気がした。もうすでにジェイモンドの背後には竜のような化け物が大きな口を開けて、自分をかみ殺す寸前なのだと思うと、もう、加速を止められなかった
「はぁ、あ、ひゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ジェイモンドは、そのカーブを曲がり切れず、第一コーナーから減速エリアに頭から突っ込みそのまま、ゆっくりと墜落していった。その際、彼はあまりの恐怖から意識を失っていた。
***
【オロモス・ベンバー】は、内心、焦っていた。
『なんてこと、私、まんまと、やり返されてるってわけね…』
五周目の第四コーナーを曲がり終えて六周目に入ろうとしていた一位のオロモスの額から汗がじわじわと溢れ出てくる。
すでに前方に敵無しの彼ではあったが、後方から迫るリリャ・アルカンジュという選手の追い上げがオロモスに苦笑を強いらせていた。
これでは先ほどとまるで状況が逆転しており、オロモスの策をリリャが乗っ取ったような形で報復されていた。
『あの子…』
オロモスが、追い上げるまだ、バックストレートを飛ぶ彼女の姿を見る。
『あのままじゃ、死ぬんじゃないかしら…』
オロモスは、自分よりも遥かに速い六速で追い上げてくる彼女をその時、初めて焦りより心配が勝った瞬間でもあった。
『だけどね、ここは勝負の世界、勝ちも負けもすべては、ゴールの先にある』
オロモスは、すべての邪念を振り払って前へ前へと加速を続けた。
***
六周目に入った時、自分と一位とはすでに半周差の距離が開いていた。
『まだ、間に合う、まだ、追い抜ける』
最初のカーブである第一コーナーに入る。六速でのコーナーリングが、五速の時と比べて荒くなるのは仕方ないが、それでも、曲がり切れないわけではない。それでいて、五速の時よりも遥かに速くカーブを曲がりきれた。
ただ、私の曲がり方は、五速の時とやり方は変わらない。前傾姿勢のまま速度を維持した状態でのリング操作に頼ったコーナーリングであった。
五速の時に比べて、その分の身体への負担など考えている暇はなかった。
すでに自身の身体が鮮血に染まっておりそこには想像もしたくない激痛が伴っていることは確実だった。けれど、私のあらゆる痛みを感じない、無痛の身体がそれを遮断することによって、私の六速青でのコーナーリングは可能にしていた。
これにより、一位の選手との差は、徐々に縮まっていた。
『大丈夫、まだ、追い付ける』
バックストレートを六速の青で、その直線がバラバラにほどけてどこか現実の片隅に散ってしまうほどの、そんなありえない速さで飛び抜ける。
私が、第三コーナーに入ると、一位の緑のユニホームの選手は最終周回である七周目に入っていた。
『大丈夫』
第三コーナーと第四コーナーを曲がり切る。
視界が赤く染まった。
眼球から大量の血が流れていた。
フロントストレートから六速を維持する、七周目に入った。
第一コーナーに入った。一位の選手は、バックストレートを飛んでいた。
私もすぐに、カーブを曲がって、最後のバックストレートに入る。
大量の血の塊を口から吐いた。
バックストレートを飛び終えると、一位の選手はすでに第四コーナーを抜けていた。
私は第三コーナーに入った。
身体を見ると、至る所が血だらけで、白いユニホームに白い部分がすべて真っ赤に染まっていた。
第三コーナーを抜けて、第四コーナーも曲がり切り、ゴールがある最後の直線、フロントストレートに出た。
私は、六つのリングを加速しきってゴールすると、地面に着地し、すぐに飛行魔法を解除した。
その先には、息を切らす緑のユニホームの選手がおり、私にひとつウインクをすると、去っていった。
私はファーストレースを二着でゴールした。
「…………」
壊れてしまった。
私の中でなくてはならない大切なものが音を立てて今この時を境に崩れ始めていた。
それは私が生きていくために必要な、私という生命を支えていた支柱のようなものだった。その柱が私のなかでしっかりと建っていなければ、私の命を支えることができないのにも関わらず、その柱の最後の一本までが、崩れ去ってしまった。
むき出しになった命は、私の中の地獄の荒野に満ちた炎に焼かれていた。
命が燃え、尽きる時、死が訪れる。
「…………」
いますぐに死んでもおかしくない大量出血の最中、私はなんの感情も持ち合わせず、ゴール付近に立ち尽くしていた。
『…………』
どうして負けたのか考えようとしたが、そもそも、もう、何も考えることができなかった。少しも、考えることができなかった。
やがて、やけに激しい静寂が訪れていることに私は気づいた。
見上げた視界の先には、観客席の大勢の人々が歓喜に満ちた様子で、何か歓声のようなことを声高らかに叫んでいたが、私の目に映る世界に音はひとつもなかった。
音の無くなった世界で、私は荒い息を吸っては、吐いてを繰り返していた。




