足りないもの
ラウルの学園生活は、ゴールデンウィング杯という栄光に向けて、彼のあらゆることが空を飛ぶことに収束し始めていた。それでも、勉学はおろそかにせず、変えられる場所だけ変えて、毎日の学園生活も有意義なものにしながら、それでも心はずっと飛ぶことだけを考えていた。
飛行場では、毎日、自分の限界を試すように、それでいて怪我をしないように、細心の注意のもと練習量の調整を行いながら、徹底的に管理された練習メニューをこなしていく日々が続いた。
そんな中で、ラウルの目に留まるようになっていたのは、ヒルクという転校生の存在だった。
ヒルクはある時、飛行部の部員たちの噂になるほどの事件を起こした。
それは、クリス先輩に関することだった。ヒルクは、どういうわけかある日突然クリス先輩に一方的な口論をしかけたという。そして、口論のなか、クリス先輩は彼をなだめていたが、最終的には、我慢しきれなくなった隣にいたサバル先輩にヒルクがボコボコに殴られたという事件を起こしていた。
どちらかというと、事件を起こしているのはクリス先輩の恋人であったサバル先輩なのだが、その後、彼女は事情を話すが三日ほど停学をくらったという。
そして、一方殴られたヒルクの方だったが、彼はなんと殴られたその日も、飛行場にその腫れあがった顔を見せて練習を続けたという経緯があった。
ラウルはその日はたまたま各部の部長が集まる会合で、部活に参加していなかったが、もしも、その腫れあがった顔で飛んでいたら止めたに違いなかった。
ヒルクはその事件後、部内の人たちか距離を置かれるようになっていた。
ただ、彼は誰よりも早く飛行場に来て、誰よりも遅く飛行場を後にする努力の人でもあった。そんな影の努力を積み重ねながらも、彼は人との関りを紡ぐことはなく、ただひたすらに空を飛ぶことだけに妄執するかのごとくのめり込んでいた。
「やあ、ヒルクくん、調子はどう?」
ラウルはある日の部活前に、彼に部長として声をかけた。
「ラウル部長…」
彼はとても嫌そうな顔をする。その顔はまだサバル先輩から受けた拳の腫れが引かずにそれでもその顔を堂々と人前に隠すことなく晒していた。
「なんですか?」
「いやあ、ちょっとね」
ちょくちょく彼のことを気にかけ、挨拶や声をかけていたが、そのたびに、またですかといった呆れた顔で渋々返事をするのがヒルクという男だった。
「今日は、二人一組で飛ぶ、ペア飛行の日でね、ヒルクくん、君のパートナーは俺だ」
ヒルクの顔はより一層険しくなった。
「俺は独りで飛びます」
「これは部長命令。拒否権はないよ」
ラウルは、ヒルクを連れて、飛行場のトラックに着いた。飛行場のトラックは2500メートルで、黄金翼杯のゴールド帯と同じトラックの広さがあった。
トラックコースは学園にひとつしかなく、飛べる時間はいつも予約制で時間が限られていた。そのため、それ以外の間はみんな学園の外周を飛んだり、直線コースで飛行することが多かった。その他にも、ランニングをしたり、魔力出力の練習をしたり、筋肉を鍛えたり、精神を統一したりと、各々自分に合ったあるいは、ケインコーチから用意されたアドバイスにそって練習メニューを独自に組んでいた。
ラウルとヒルクの二人がスタート位置に着いた。
「本番と同じ七周で行こう」
「………」
ヒルクはトラックに立つとその先だけを見据えて、ラウルのことなど眼中になかった。
ラウルがひとり暇そうにしていた部員を呼んで合図をしてもらうことになった。
ラウルとヒルクが一速で浮かび上がると、その部員が首にかけていたスタートの笛を鳴らした。
同時に二人が背中のリングを増やし、飛び出した。
***
ラウルという男の飛行は、言ってしまえばとてもじゃないが華があるような飛び方ではなかった。その飛び方はとても基礎に忠実で、ペース配分も一定に、お手本のような飛び方だった。レースの展開の仕方も後方スタートの様子見からの追い上げ型と、多くの選手が取るスタイルであり、どこを切り取っても目立った特徴はないが優秀と言う言葉がついてまわる飛び方だった。
一方ヒルクという男はただひたすらに前へ前へとがむしゃらに己を引っ張っていくような全力という言葉が似合うような飛び方だった。飛行速度には常にムラがあり、ペース配分もめちゃくちゃだった。
しかし、それは彼独自の飛行で研究され尽くされた飛び方であり、周回ごとにタイムは縮まっていた。
レース状況は、ヒルクが先頭で、ラウルが後方を追いかける形であった。
しかし、徐々に二人の距離は離れていくのは、まさにそこには歴然とした力の差があった。
それは飛行魔法の絶対の法則であるリングの数が原因であった。
『五速が使えるのか………薄々分かってはいたが、彼もまた天才………』
驚いたことにヒルクはすでに五つ目のリングである五速の習得を済ませていた。ラウルはまだ四速が限界でそこには絶対的な差があった。
ヒルクが周回の中でときおり五速を見せることで、二人の間には徐々に距離が空いていた。
『これで完全に相手のミス待ちになったということか…』
ラウルが四速の最高上限速度しか出せない以上、四速を維持しながら五速も出せるヒルクがスピードの総量で必ずまさる時点で、どちらが先にゴールを切れるかはこの時点ではほぼ明確に決まっていた。
『これがあるから、優勝は、五速が必須と言われるんだ……』
ゴールデンウィング杯の優勝者は毎年総じて五速であることが当たり前で、五速無しでは優勝はほぼ絶望的だった。そして、去年はクリス先輩を含めた三名が六速を出して飛んだことで五速であれば優勝を狙えるという価値観は揺らぐものとなってしまっていた。
『これが才能の差というやつか…』
ラウルは、ヒルクの背中を見ながらゴールのラインを横切った。
ゴール後、ラウルは、息を切らして全力で飛んだ余韻で辛そうにしていたヒルクに声をかけた。
「大丈夫か?」
「ハァハァ、俺の勝ちだ…」
ヒルクが辛そうに肩を上げ下げしながらひねり出すように言った。
「あぁ、俺の負けだ…」
ラウルはしっかりとヒルクに自分の敗北を伝える。
だが、全身汗だらけで、荒い息を吐いていたヒルクを見て、ラウルはすぐに近くで控えていたマネージャーに声をかけると、タオルと水を持ってきてくれた。
ラウルがマネージャーから受け取ったタオルと水の入ったコップも渡した。
「ヒルクくん、君は凄いよ…」
レース直後で、疲労しきったヒルクと、まったく息一つ乱していないラウル。レースの差はほんのわずかな距離であったが、この違いが物語る五速の消耗の激しさが透けて見えた。
魔法であるためもちろん個人差はあるが、飛行魔法も五速まで来ると間違いなく桁違いに魔力消費量が跳ね上がり、その魔法の維持のために必要な魔力の源であるエーテルを大量に取り込む身体には、その分だけ大きな負荷が掛かった。
飛行レースでは他の魔法の併用が禁止であるため生身で約二分ほどの間、五速維持するということは、肉体に対する裏切りであり、精神に対する侮辱であるかのごとく、苦痛を伴うもので本来ならば、ヒルクのように四速の間に挟むといった飛び方が主流なのだが、近年はその常識も覆ろうとしつつあった。
ヒルクは休憩に入り、ラウルはまだ体力が有り余っていたので、ひとりで長距離の練習メニューを組みそれを黙々とこなした。その練習が終わるとようやくラウルも、息が上がり、筋肉は疲弊し、身体全体が心地よい重さを手にし、先ほどのヒルクと同じように疲れ切ることができた。その練習ではペース配分も考えずに飛んだ。
だが、ラウルの気持ちが晴れることはなかった。そういった長距離でしか、ラウルは、自分の全力を使い切れないのかと卑下してしまう。
ヒルク、彼の真似をすればいいわけじゃないのだろうが、もしも、自分も五速が使えたら、この極度の疲労の中で、誰にも負けないだけの速さを手に入れることができたら。
「俺に足りないものはなんだ?」
ラウルは自分の至らなさに思い悩むのであった。




