誘惑と暗人
ラウルは、いつも通り飛行部の飛行場で日課の練習メニューをこなしていた。
体力がある前半は、短距離を何本も最高速度で飛行し、休憩後、後半は持久力を高めるために、長距離を何本か飛行した。
疲労困憊で飛行場に設営されたテントの適当な椅子に座った。
今日のメニューはすべてこなし終え、その達成感もあってか、この疲労はラウルを束の間の幸福に導いていた。
「お疲れ様です、ラウル部長!」
そこでタオルを渡してくれたのは【メイニャ・キランゼ】という新一年生だった。彼女は今年の二、三枠しかない飛行部のマネージャー枠を勝ち取った者だった。飛行部のマネージャーは毎年とんでもなく高い倍率のマネージャーでの入部希望者が募っており、その激戦を戦い抜いた者だけが晴れて飛行部のマネージャーになることができた。
ではなぜ、そこまで飛行部のマネージャーが人気なのかといえば、それはもう間違いなくラウルの存在が大きかった。
「ありがとう、キランゼさん」
「ラウル部長、メイニャとお呼びください、みんなそう呼んでいます」
メイニャは、マネージャー戦争を勝ち上って来たにしては、血肉に飢えておらず、爽やかな笑顔からも育ちの良さそうなお嬢様という印象を与えた。ただ、飛行部の過酷なマネージャー争いを一年生にして勝ち取ったということはまず間違いなく傑物であった。
ちなみに、ラウルの一個下の世代からマネージャーの採用枠は一人か二人のごく少数に限定された。そのため、今のだいたい三年生から下のマネージャーは、みんなそういった女傑しかおらず、このメイニャも外見の愛らしさに反して内に秘めているものは計り知れないものがあると、ラウルは確信していたが、まだ彼女はそんな本性を見せる素振りもなかった。
メイニャはただじっとラウルの傍でニコニコとしていた。
ラウルは特に会話をする必要性はないと思っていたが、自分が飛行部の部長になったことを思い出すと彼女に簡単な質問をした。
「メイニャさんは、どうして、飛行部のマネージャーに?」
「それはもちろん、ラウル先輩のお傍にいたいからです!」
今の三年生から下の子たちはみんな同じ理由だった。
「ハハッ、それはどうも…」
ラウルは固い笑顔で礼を言った。どうしてもそんな笑顔しかつくれなかった。せっかく入ってもらったのに、こんな部長では不甲斐ないとも思った。
マネージャーとして入って来てくれるのは飛行部としてはとてもありがたかった。それまでは、飛行部のマネージャーはやることが多いため大変で人手を欲していた。ただ、ラウルの人気に火が付いてから、マネージャーでの入部希望者が増えていった。それもとっても能力の高い子たちが志願してくれるものだから、飛行部一同、ラウルを餌にして良かったと部員たちは冗談交じりに言うこともあった。飛行部のマネージャーとしての質はとても高く保たれていた。
「ところで、ラウル部長は、お付き合いしている方はいらっしゃるのですか?」
メイニャの問いに、ラウルは視線を飛行場に向けた。完全に興は削がれてしまった。
「いないよ」
「では、恋人に私なんてどうでしょうか?」
「ごめんね、今は飛ぶことにしか興味が無いんだ」
「随分と手慣れた回答ですね。ですが、若いうちに火を見ておくのも悪くないんじゃないですか?」
メイニャが飛行場を見ていたラウルの視線を遮るように、覗き込んで来た。
ラウルの視界には彼女の愛らしい顔がいっぱいに広がっていた。それはどこを見てもまったく欠点の無いとてもよく手入れの届いた顔だった。人はその努力の後を見て美しいといっては彼女の魅力に酔ってしまうのだろう。
「………」
しかし、逆にラウルと目を合わせた、メイニャの方が、彼の美貌の前にじわじわとその白く透き通っていた肌を紅潮させていた。その強がりが剥がれていく様に、彼女自身が耐えきれなくなり、すぐに真っすぐ飛行場のある一点だけを見つめていた、ラウルの前から後ずさった。
「ラウル部長、私、諦めませんからね?」
何百回と聞いたセリフを後にメイニャが足早にその場から去っていった。
ひとりになったラウルが見ていたのは、今年転校してきたヒルクだった。彼の飛行がラウルの休息の退屈を緩和していた。彼の実力は昨年ゴールデンウィング杯のゴールド帯で飛んでいた優秀な選手だった。
「まだ、飛ぶのか…体力あるな……」
ラウルの手には心なしか、じんわりと汗がにじんでいた。
「………よし…」
そして、ラウルは自然とテントを出ては、再び飛ぶ準備を始めているのだった。
***
日が暮れた。夜空の星々が輝き、飛行部の一日が終わりが見えて来た。部員たちは各々帰る準備を始めていた。
ラウルは、帰り際、ヒルクに声をかけた。
「ヒルクくん、お疲れ」
「ラウル部長…お疲れ様です……」
「ラウルでいいよ、同級生なんだし、ところでもう、部活には慣れたかな?」
「まあ…」
「五年生で転校して来るのは珍しいからね、それに…」
ヒルクは視線を外していた。あからさまにラウルとの接触を快く思っていないようなそのしぐさにラウルは少しだけ馴れ馴れしかったかと思い、落ち着きを取り戻した。
「あぁ、悪いね、急にこんな馴れ馴れしく」
「いえ、別に……」
ヒルクはラウルとは対照的で、常に体のどこかに影が落ちているようなそんな印象があった。その影がどうしてもラウルの目にはとどまってしまい、気になるのだった。ただ、彼は暗いというよりはその暗さを自ら進んで受け入れているような、気がして、なおさらそれはラウルの目を引くものだった。
「ただ、今日、君の飛んでいるところを見て、いい飛行だなと思ったんだ。やっぱり、ゴールド帯の経験者は一味違うってね」
「あなたも、今年、黄金翼杯に出るんですか?」
「でるよ、そして、優勝する」
ラウルはそれがさも当たり前だというように言った。
「あなたが、できるとは思わない」
「………どうして?」
「俺より遅いから」
ヒルクは、その時だけはなぜか、まっすぐラウルから目をそらさずまるで脅しかけるように鋭い目つきをしていた。
「そうか、それなら、俺も負けてられないな」
それは強い否定以外の何ものでもなく、ラウルは動揺を隠せなかった。追い打ちをかけるようにヒルクは言った。
「黄金翼杯は、ただの学生の大会じゃない。あの大会には空を飛ぶ俺たち学生のすべてが詰まってる。あの大会ですべてが決まる。悪いけど、俺は勝つために質の悪い人たちと慣れ合っている時間はないので、これで失礼します」
ヒルクは、呆然と立ち尽くすラウルを、後に飛行場を後にした。




