土蔵
文月は頑張っていた。でも、今、『幽霊作家』を読んでも、彼の蔵や錠前についての記述はなかった。
私は一度、頭の中でリハーサルをしてから小説を書き始めるので、書かれない、ボツ案のようなものも頭の中にある。それがたまに混乱を生むのだ。
確かに私は文月と錠前や土蔵について調べていたがそれは没にしてしまったらしかった。
私は当初、短い話として作っていたし、短くして本格時代イベントの期間中に完結ボタンを押したかった。完結ボタン。これを押すか押さないかで読まれる確率が違うのである。だから、無駄な文章は削りたかったのだと思う。
が、ここに来ると考えないといけない。
色々あって今、心にある結末を書けないのである。
本格時代劇のイベントではタイムスリップは使用禁止だった。
これについては、時代とSFの普及という史実があるからなんとか出来ないか、主催者にメールで確認したけれど、たとえ、時代的にSFが台頭し始めた時だからといってタイムスリップの記述がどうにもダメそうなので変えるしかなかったのである。
そして、結局、タイムスリップしない結末を考えているうちに一年が経ってしまったのである。
こんな未完王の私からすると、あっさりと損切りしてしまえる乱歩先生は凄いなって思う。私はこうして読者を巻き込みながらゴニョゴニョと長く続けてしまうのだから。
ま、そうは言っても、まだ、見てる人もいるし、結末を知りたい人だっているわけで、どちらがいいかは読者の性格で決まるんだと思う。
そして、確かにゴニョゴニョの私ではあるが、上手い完結をしさえすればワンチャン、いいねをくれる読者もいるかもしれないし、評価してくれる人も出てくるかもしれない。それを頼りに私は頑張っているのだ。
まあ、それは置いておいて、その時の事を考える。思い出す。
違和感があった。
『悪霊』は本当におかしな話だと思う。乱歩先生も言っていたけれど、『抜け殻同然の文章の羅列』なんだと思う。なんか、筋が通ってない気がするのである。が、おかしいと思いながら、読み込んでゆくと犯人が見えてきそうな気がしてしまう。今回も、新しい発見に時間を取られた。
なんだかミステリーの迷宮に迷い込んでゆく気がするのである。
あの当時も、文月がのり移った私はノートを片手に曽根子の事件を整理し始めていた。
他の人はどんなスタイルで描いているのだろうか?私は何度か筋を頭の中でリハーサルしてから、こうしてキーボードに向かい、主人公になりきって過去の話を始めるように書いてゆく。
この時、私は作者であり、主人公でもあるのだ。
だから、少しばかり考えることが変わる。リハーサルの時には感じなかったワクワク感とか、責任感とかそんなものを感じながら、私よりも少し細かい理数系の文月の気持ちで作り出した『幽霊作家』のオープンワールドを実況してゆく。
この話は数年前に克也と山臥という悪友と話していたので結構、ありありと風景が浮かんでくる。
曽根子の住む牛込の辺りは新興住宅地とでもいうのか、明治時代から開発されたみたいだった。だから、学校とか大きな施設か建てられて、そんなこともあって大胆で恐ろしげな物語の舞台に選ばれたのだと思った。
この辺りでも色んなツッコミを入れたくなるが、まあ、いいのである。土蔵、土蔵に話題を変えてゆこうと思う。
土蔵、なんでこんな所であんな面倒な殺し方をしたのだろうか?
『悪霊』を複数回読み返す、リセマラ読者の私は少しイライラしながら読む。
そして、考える。何故、土蔵?
そこで、『人でなしの恋』という乱歩の作品を思い出していた。人形に恋をするハイスペ旦那とそれに嫉妬する主人公の、怪しげな物語を。あの話では旦那が恋した人形が土蔵の2階で破壊される。
あの美しくて切ない物語を思い出しながら、関係ないだろうな、と苦笑する。
この物語は…『悪霊』という物語は犯人の動機が想像できないからだ。
90年代、異常犯の実録やドキュメントをたくさん読んでからこの犯罪を見ると、異常犯の心理とも違う気がするのだ。
異常性犯罪者が被害者を殺すのは自分の空想通りに相手の体を扱いたいので、それを抵抗する人間を止めるために殺すのだと、何かの本で読んだ気がする。
でも、曽根子の殺害の仕方は異常犯のドラマに出てくる犯人のような感じではなかった。
遺体を見た祖父江は、犯人が返り血の始末の為に犯人も裸になったのではないかと思っていたが、曽根子を裸にする理由がよく分からなかった。それに、精虫がどうこう考えるわりに祖父江は被害者の状態に性犯罪痕跡を見つけてはいない。
そして、犯人が土蔵にわざわざ鍵をかける意味も。
ここで時代劇を思い出して土蔵の鍵について調べたのだった。
姉崎邸の土蔵の鍵は開ける時と閉める時に鍵が必要なタイプのもので、これを持って密室にしたのだ。
が、時代劇でさまざまなドロボーのシーンを見ていると、どうしてもカンザシとかで錠前を破るシーンを思い出すからモヤモヤするのだ。
そして、思う。なんで犯人はガキをかけたりしたんだろうか?と。
別に鍵をかける必要は犯人にはなかたと思う。土蔵は家屋から離れていたし、家人は留守。扉さえ閉めておけば事件が稼げるし、面倒にしないほうが捕まる確率が減ると思う。
土蔵に施錠が必要だったのは乱歩先生だと思った。
密室にしたかったのだと。
が、この辺りは検索をかけると沼るのだ。
ああ、そうだね、今でも皆んな和鍵は大好きだよね。
やっぱり、時代劇といったら土蔵やぶりはお約束。
その野盗の親分がカチリと錠前を破るそんな瞬間はワクワクするのだ。
で、なんで日本人に和錠好きが沢山いるかといえば、シンプルにかっこいいのだ。
江戸時代の和錠のルーツは戦国時代の終わりあたりにあるらしかった。
戦争が終わって平和な時代になると刀鍛冶の仕事がなくなる。そこで彼らが新たに作り出したのが平和とともに裕福層が増えて作られる蔵の鍵なのだ。
と、いうわけで、日本の蔵の鍵は鎧などで培われた装飾の技術も持ち込まれ、かっちょ良い。って思う人が沢山いるんだと思う。
こうなると、やはり、これについても出版社には問い合わせが入ったんじゃないかって思う。
だって、おかしい。
合鍵が本当になかったのか?そんな事があり得るのか?
錠前はどんな種類のものなのか?
いや、あっしならこの手の錠前なら あっという間に開けてみせますよ。など。
『悪霊』では、この土蔵の鍵が被害者の姉崎曽根子の遺体の下から見つかるのである。
そこで密室が完成するのだけれど、大正時代から人気のあった『立川文庫』、猿飛佐助や真田十勇士、チャンバラなどの劇が流行っていた時代である。この辺りは相当ツッコミがあったんじゃないかと思う。




