第54話:LOVE WILL FIND A WAY
銃口が揺れていた。
三十センチ。マリアの息が荒い。額の血が顎から落ち、昴のノーマルスーツに黒い染みを作っていく。殺意を込めた瞳で、真っ直ぐ昴を睨んでいる。
コックピットの空気循環音だけが鳴っている。
昴は動かなかった。銃口を見ていなかった。マリアの目を見ていた。
五秒。
十秒。
マリアの瞳に、光が滲んだ。
殺意の表面が揺れて、その下から別の何かが溢れ出してきた。涙だった。一滴。頬を伝い、額の血と混ざって赤い筋を引いた。
銃口が大きく揺れた。
「——じゃない……」
掠れた声だった。
「撃てるわけないじゃないッ!!」
叫びだった。喉が裂けるような叫びだった。銃を持つ手が振り下ろされ、銃口が膝を叩いた。
「何百年も探して——待って——ようやく会えたと思ったら、また離れ離れになって!!」
涙が止まらなかった。声も止まらなかった。堰が壊れたんじゃない。何百年かけて積み上げた堰そのものが、最初からなかったみたいに消えていた。
「言葉を信じてまた待ち続けて——!! だけどまた失うのは嫌だから——断ち切ろうって決めたのに!!」
銃がマリアの手から転がり落ちた。シートの隙間に消えた。両手が昴のノーマルスーツの胸元を掴んだ。
叩いた。
拳で。掌で。指で。力の加減なんてない。叩いて、掴んで、また叩いて。
「なんで優しくするの!! なんで名前を呼ぶの!! なんで——追いかけてくるの!!」
昴は受けた。避けなかった。マリアの拳が胸を打つたびに、ノーマルスーツの繊維が軋んだ。
「優しくされるのが嬉しくて——嬉しいのがつらいの!! 話しかけて欲しいのに聞きたくないの!! 近くにいて欲しいのに怖いの!!」
矛盾していた。全部矛盾していた。嬉しいのにつらい。欲しいのに怖い。会いたかったのに殺そうとした。何百年もの感情が整理なんかできるわけがなかった。不死でいることは——永遠に矛盾を抱えたまま生きることだった。
「あたしはAionの人間よ!! 感情なんて——こんなもの持ってちゃいけないのに!! みんな手放してるのに——あたしだけ——あたしだけ手放せなかった!!」
声が裂けた。泣き叫びながら叩き続けている。昴の胸に、何百年分をぶつけている。
昴には——マリアが何を言っているのか、全ては分からなかった。何百年。また。言葉を信じて。それが何を意味するのか。
でも——分からなくても、マリアが壊れそうなほど苦しんでいることは分かった。
『——』
PQは何も言わなかった。昴の脳裏に、とっくに答えは見えていた。マリアの言葉の破片が指し示す場所が。先代の記憶層の匂いが。
でも今は、黙っていた。
「ヤヒロさんが死んだのだってあたしのせいでしょう!!」
昴の身体が強張った。
「あたしを取り返しに来たから——あたしなんかのために——あの人は守って死んだ!! スバルの大切な人が——あたしのせいで——!!」
拳の力が弱くなった。叩くというより、しがみつくように。
「日和ちゃんが——笑って言ったの——戦争が終わったら子供が欲しいって——スバルみたいに優しい子がいいって——」
声が震えて、途切れて、また繋がる。
「あたしにはもうそれができないの……!! 自分で手放したの……!! 何百年も生きて——誰より長く生きて——何も残せないの——!!」
叩く力がなくなっていた。掴んでいるだけ。ノーマルスーツの胸元を握りしめて、額を昴の胸に押し当てて、身体を震わせている。
「もう……いや……何回も好きになって……何回も失って……もういやなのに……止められないの……」
嗚咽。声にならない嗚咽。何百年分。肩が跳ねて、息が引きつって、それでも言葉が止まらない。全部吐き出すまで止まれない。
「好きだから殺そうとした……好きだから近づいた……好きだから撃てなかった……全部……全部同じ気持ちから来てるの……」
ゆっくりと、嵐が凪いでいった。
叫びが嗚咽になり、嗚咽がすすり泣きになり、すすり泣きが——震えだけになった。
マリアの全身から力が抜けた。
昴の胸に額をつけたまま、もう支えられないように崩れ落ちた。
小さな声だった。何百年分の嵐を全部吐き出して、最後に残った一言だった。
「……やっぱり、あなたのこと……愛してるんだもん……」
昴の胸の奥で、何かが鳴った。
マリアの声じゃない。PQの信号でもない。もっと深い場所。自分の中にあるのに自分のものじゃない、名前のない何かが、マリアの言葉に呼応するように震えた。
『——スバル』
PQの声が届いた。静かだった。決意の声だった。
『今なら——大丈夫だ』
意味は分からなかった。でもPQの声がどこまでも穏やかで、昴は目を閉じた。
VEGAが鳴った。短い電子音。一瞬だけ。
『RB-0 Recall Assist——起動』
世界が白くなった。
——病院の天井。消毒液。自分の手が上がらない。目の前で泣いている女がいる。知っている。この顔を。この涙を。手が動いた。その顔に触れたかった。額から頬へ。伝えたかった。大丈夫だと。
——アトリエ。夕陽。皺だらけの手。隣で眠る女の顔を、上から下へなぞる。今日も触れられた。それだけでいい。何十年も、それだけでよかった。
——同じ涙だった。何百年離れても、同じ泣き方をしていた。
——ずっと待っていてくれた。
——ずっと、探していてくれた。
『——最高のパスは出せたはずだよ』
PQは昴にもマリアにも聞こえない声で呟いた。
『頑張って、お二人さん』
昴の目が開いた。
マリアが胸に額をつけたままいる。震えている。まだ泣いている。何百年分の涙は、そう簡単には止まらない。
昴は何も言わなかった。
右手がマリアの顎に触れた。顔を、上げた。
マリアは目を閉じていた。泣き腫らした目を見せたくないのか、昴の顔を見るのが怖いのか。瞼がきつく閉じられて、睫毛の先から涙が落ちた。
昴の手が、マリアの額に触れた。
そのまま、ゆっくりと下りていく。髪の生え際。眉。閉じた瞼の上を、壊れ物に触れるようにそっと越えて。涙で濡れた目尻。頬骨。手のひらの全面で、マリアの顔を——上から下へ、なぞった。
マリアの呼吸が止まった。
目が開いた。
涙で滲んだ瞳が、昴を見た。真っ直ぐに。何百年分の全部を懸けて。
「——おぼえ……」
唇が震えた。
「覚えてるの……?」
昴の目から涙が流れていた。理由は分からない。でも——止められなかった。自分の中の、自分のものじゃない何かが、マリアの顔を見て泣いていた。
「……待たせて、ごめん」
声が震えた。
「また先に——見つけられちゃったな」
マリアの瞳が大きく見開かれた。
そして——崩れた。
昴がマリアを抱きしめた。強く。マリアの全部を受け止めるように。
マリアが昴にしがみついた。両腕が背中に回り、爪が食い込むほど強く。さっきまで叩いていた手が、今度は絶対に離すまいとしがみついていた。
「もう——絶対離れないから……!!」
「うん。もう絶対——離さない」
コックピットの中で、二つの呼吸が重なった。
荒くて、壊れかけていて、それでも——同じリズムを刻み始めていた。
*
センサーが鳴った。
『——スバル。空気の読めないお客さんが来たよ』
PQの声に、わずかな呆れが混じっていた。
『単機。REGULUS。到着まで四十秒』
昴はマリアの肩をそっと離した。マリアが顔を上げる。涙の跡と血の跡が入り混じった顔。
「ルシアン?」
「ああ。——大丈夫、すぐ終わらせる」
昴はマリアの身体をパイロットシートの横にずらし、自分は操縦桿を握った。
「マリア、しっかり掴まってて」
優しい声だった。
マリアが昴の腰に両腕を回した。今度は拳じゃない。信じて、預けて、託す腕だった。
「……行ってらっしゃい」
『——回収対象は無事か。こちらで預かる。マリア・シンクレア、識別番号AS-17-VEIL-09——帰投を命じる』
共通帯域にルシアンの声が入った。静かな声。怒りも焦りもない。規格通り。
「お前に返すものは何もない」
昴の声が変わっていた。怒りじゃない。もっと静かで、もっと確かなもの。
『——不服従は資産毀損と同義だ。手順に従え』
「マリアは資産じゃない」
VEGAが加速した。小惑星帯を抜け、開けた空間へ出る。REGULUSが正面にいた。指揮・拘束仕様の重装甲。拘束ワイヤーの射出口が昴を向いている。
『所有の意味を知らない人間が、何を守れる』
「所有と愛は違う。——PQ」
『RB-2 Frame Release、起動。最大稼働四分。行けるね、スバル』
「行ける」
VEGAの装甲可変剛性が切り替わった。全身の関節が柔らかく開き、通常では不可能な機動軸が解放される。
REGULUSが拘束ワイヤーを射出した。六本。VEGAの四肢と胴を同時に絡め取る精密射撃。
昴は全部見えていた。
VEGAが踊った。六本のワイヤーの間を縫い、一本を掴んで引いた。REGULUSの姿勢が崩れる。
立て直す前に、VEGAがREGULUSの拘束アームを蹴り折った。
『——速い』
VEGAの拳がREGULUSの胸部装甲を打った。二撃目が右肩の射出機構を潰す。三撃目で主推進器の噴射口を踏み砕く。REGULUSの機動力が半減した。
ルシアンの声に、初めてわずかな硬さが混じった。
『人一人に執着して、戦争が終わるとでも——』
「終わるさ」
四撃目。REGULUSの左腕関節を極め、拘束システムの制御基盤ごと引き剥がした。
「人一人を守れない奴が、何を終わらせるんだ」
REGULUSが片膝をつく姿勢になった。拘束系全壊。主推進器半壊。
通信が入った。REGULUSに。
ルシアンが二秒だけ沈黙した。
『——A戦域、制圧確認。全軍戦線離脱命令。追撃なし』
亘一が、やり遂げていた。
ルシアンの声が戻った。静かで、淡々としていた。
『……撤収する。次は手順通りに回収させてもらう』
REGULUSが反転した。半壊の推進器で、ゆっくりと離脱していく。
『RB-2、解除。負荷は許容範囲内。よくやった、スバル』
昴は操縦桿から手を離した。
腰に回されたマリアの腕が、まだそこにあった。戦闘の間ずっと、離さなかった。
「——終わった?」
「終わった。帰ろう」
VEGAが反転する。小惑星帯の向こうに、味方艦隊の灯火が見えた。
マリアが昴の背中に顔を押し当てた。何も言わなかった。その代わりに、腕の力が少しだけ強くなった。
帰る場所がある。
握った手じゃなくて、背中に回された腕で——マリアはそう言っていた。




