第50話:突破口
宇宙は静かだった。
HELIOS CORRIDOR(ヘリオス回廊)の中間点。Aion Sphereの前線艦隊がその回廊を塞ぐように展開している。巡航艦八隻、護衛艦十二隻、量産機は目視で確認できるだけで六十機を超えていた。
昴はVEGAのコックピットから、その壁を見た。
『敵艦隊、確認。正面に展開。密度が高い。正面から抜くのは厳しいね』
「亘一、そっちの方面は?」
通信が入った。亘一の声は軽かった。
「見えてる。正面の厚いところ、俺が開ける。スバルは回廊の奥を叩いてくれ。指揮系統を潰せば壁は崩れる」
黒瀬の声が割り込んだ。
「作戦通りだ。ORIGIN-02《REMNESIS》はA戦域、正面突破。ORIGIN-01《VEGA》はB戦域、回廊奥の指揮艦を叩く。合流点はC-7座標。以上」
短かった。黒瀬はいつも短い。
亘一が最後に言った。
「先に片付けとくよ」
「無茶すんなよ」
「天才に無茶はない」
通信が切れた。
VEGAとREMNESISが左右に分かれる。二つの光が、それぞれの戦場へ向かっていく。
PQが囁いた。
『スバル。集中して。こっちも楽じゃない』
「わかってる」
昴はバイザーを下ろした。
*
A戦域。
REMNESISが敵艦隊の正面に突っ込んだ。
量産機が十二機、扇形の迎撃陣形でREMNESISを包囲しようとしていた。教科書通りの布陣だった。数で囲み、射線を重ね、逃げ道を塞ぐ。相手が人間なら、正しい戦術だった。
亘一はコックピットの中で、一つ深く息を吸った。
「朔。行くぞ」
朔の声が応えた。
「うん。いつでも」
RS(Resonance Sync)——起動。
同期が始まった瞬間、亘一の世界が変わった。
視界が広がる、というのは正確ではない。見えるものの量が増えたのではなく、見えるものの全てが同時に意味を持ち始めた。十二機の量産機の位置、速度、推力方向、武装の残弾予測、パイロットの操縦癖が推力パターンに残す指紋——その全てが、一枚の図として頭の中に展開された。
朔が演算している。亘一の目が捉えた情報を、朔の脳が処理し、最適解を返す。その最適解を亘一の手が実行する。人間一人では不可能な並列処理。それがRSの本質だった。
REMNESISが動いた。
動いた、という表現は不正確だった。量産機のパイロットには、REMNESISが消えたように見えただろう。一瞬前にいた座標に機体がない。次の瞬間、編隊の内側にいる。人間の操縦では成立しない軌道変更。REMNESISは人間向けに操縦を最適化する必要がない。朔の脳が直接制御しているからだ。
最初の二機が落ちた。
REMNESISの左腕が一機の胴体を斬り抜け、右腕のライフルが背後の一機を撃ち抜いた。同時だった。左手で回避、右手で攻撃、脚部で姿勢制御——人間は一度に一つの動作しか意識できない。RSはその制限を外す。
「三機目、右上」
朔の声が短く指示を出した。亘一の手がその通りに動く。一手先を読んでいるのではない。朔が三手先まで読んで、亘一に一手だけ渡している。残りの二手はREMNESISの自律制御が並行して処理する。
三機目が落ちた。四機目が逃げようとして、逃げる先にREMNESISがいた。五機目のパイロットが編隊をばらして散開を指示した。正しい判断だった。だが遅い。
亘一は笑っていた。
戦闘の快感だった。天才が初めて——いや、初めてではない。ずっと我慢していた。弟を新型機に回すために一歩引いていた男が、初めて本気の機体と本気の能力で戦場に立っている。身体の奥から湧き上がる熱。これが自分の本当の速度だ。
その感情が、朔に流れ込んでいた。
RSは脳の同期だ。亘一が感じていることは、朔にも伝わる。戦闘の高揚も、喜びも、そしてその奥にあるもの全部。
亘一の意識の底に、日和の顔があった。
昨夜の展望室。星を見ながら名前の話をした。天城家の味噌汁の話をした。朝霧家と合わせて新しい味にしようと言った。あの場所に帰る。あの二人の元へ帰る。日和と、まだ名前もない命の待つ場所へ。
朔はそれを受け取っている。
兄の中にある「帰る場所」の温度を。帰りを待っている人がいるという感覚を。そして、自分にはそれがないという事実を。
朔は何も言わなかった。
「六機目、下方。七機目が連動する」
声は明瞭だった。演算は完璧だった。六機目と七機目が同時に落ちた。
残り五機。包囲陣形は完全に崩壊していた。
四十秒。十二機中七機撃墜。残りは散開して逃げている。追う必要はなかった。正面の壁に穴が開いた。
だが、壁の向こうに艦がいた。
*
Aion側の護衛艦が二隻、REMNESISに向けて主砲を向けた。
護衛艦。量産機よりはるかに大きい。装甲が厚く、火力が高い。通常のORIGIN級であれば、正面から突破するには僚機との連携が前提になる。
REMNESISは一機だった。
「朔、艦の構造データ」
「もう出してる。一隻目、動力炉の冷却管が左舷第三区画を通ってる。装甲の継ぎ目が0.4メートル。二隻目は右舷上部に排熱ダクトの脆弱部。貫通できる」
朔の声は淡々としていた。艦の構造を解析し、弱点を特定し、攻撃手順を組み立てるまでの時間は二秒だった。人間には不可能な速度の演算を、朔の脳がやっている。
「順番は?」
「一隻目を先に。主砲が動力炉と連動してるから、冷却管を潰せば十二秒で過熱停止する。その十二秒で二隻目に回れる」
「了解」
REMNESISが加速した。
護衛艦の主砲が火を噴いた。巨大な光の柱がREMNESISの横を抜けていく。一発目は回避。二発目はREMNESISが射線の死角に入った。護衛艦の主砲は旋回速度が遅い。機体サイズの目標を至近距離で捉え続けることはできない。朔はそれを知っていた。
左舷第三区画。装甲の継ぎ目。
REMNESISのライフルが、針を通すような精度で撃ち抜いた。
護衛艦の左舷から白い蒸気が噴き出した。冷却管破裂。動力炉の温度が急上昇し始める。主砲の旋回が停止した。十二秒のカウントが始まった。
亘一はもう二隻目に向かっていた。
右舷上部、排熱ダクト。護衛艦の上を通過しながらライフルを下に向ける。通常の人間の操縦では、この角度での精密射撃は不可能だ。機体の姿勢制御と射撃制御を同時にやるには脳のリソースが足りない。
RSでは足りる。
ライフルが一発。排熱ダクトを貫通。
二隻目の護衛艦の右舷が膨らみ、内側から爆発した。装甲が裂けて、構造材が宇宙に散った。
一隻目の主砲が完全に停止した。十二秒。朔の予測通りだった。
亘一はREMNESISの速度を落とさなかった。護衛艦の間を抜け、その向こうに展開する量産機の第二波に突っ込んだ。二十機以上。さっきより多い。
「朔——」
「全部見えてる。左翼から崩す。右翼は六秒後に自分から動く」
朔の声は変わらなかった。
REMNESISが第二波に突入した。左腕のブレードが一機を切り落とし、その残骸を蹴って方向転換、ライフルで三連射。三機が同時に火を噴いた。
Aion側の無線が混乱していた。
『REMNESIS、第一防衛線を突破! こちらC-4区画、護衛艦二隻が——』
『応答しろ! 第一波全滅、第二波が——』
『何だあの機動は——照準が追いつかない——』
亘一は聞こえていなかった。敵の無線は遮断している。聞こえていたのは朔の声だけだった。
「上に三機。下に二機。正面から四機来る」
「どこから行く」
「正面。四機の後ろに指揮機がいる。潰せば残りは散る」
亘一はREMNESISを正面に向けた。四機が一斉に射撃してきた。光の雨が降る。REMNESISは光の隙間を縫って前進した。あり得ない機動だった。パイロットが操縦桿を切っているのではない。機体の全関節が同時に、独立した最適解で動いている。人間が乗っている機体の動きではなかった。
指揮機が見えた。
REMNESISのライフルが、四機の間を貫通して指揮機のコックピットを狙った。
一発。
指揮機が爆発した。四機のうち二機が破片に巻き込まれ、残り二機が反射的に散開した。上の三機と下の二機が判断を失い、合流しようとして互いの射線を塞いだ。
六秒後、朔が言った通り右翼の量産機が動いた。逃げた。
第二波壊滅。
REMNESISは止まらなかった。その向こうに、巡航艦が見えている。
「朔、巡航艦の——」
「兄さん」
朔の声に、初めてノイズが混じった。
「……ちょっと、待って」
亘一の手が止まった。
「朔? 熱は?」
沈黙が0.3秒あった。RSの中での0.3秒は長い。同期中の二人にとって、0.3秒は会話三往復分の空白に等しい。
「……まだ大丈夫。冷却が追いつかなくなりかけた。もう戻った」
声は戻っていた。明瞭だった。だが、「もう戻った」という言い方を朔はこれまでしなかった。戻る必要があったということだ。
「無理するなよ」
「無理はしてない。兄さんこそ、楽しみすぎ」
朔は笑っていた。少なくとも声は笑っていた。
亘一は笑い返した。だが感覚共有の残滓が、何かを伝えていた。朔の脳の温度。数値ではなく、温度そのものの感触。RSを通じて亘一の身体が覚えている。さっきまでと、何かが違う。
何が違うのか、言葉にできなかった。
*
B戦域。
昴は量産機八機と交戦していた。
VEGAの性能なら圧倒できる数だった。だが、相手は陣形を崩さずに距離を保っている。無理に突っ込まず、射線を維持したまま後退と前進を繰り返す。訓練された部隊だった。
『スバル。無理に押さなくていい。向こうは時間を稼いでる。指揮艦が後退中』
「逃がすのか」
『今は亘一の突破を活かす方が優先。指揮艦は後で叩ける』
PQの判断は正しかった。昴は前進を止め、量産機を牽制しながら位置を維持した。
通信が入った。Genea側の戦術回線だった。
『——A戦域、REMNESIS脅威度MAX。全方面部隊に援護要請——』
Aion側の通信ではない。Genea側が傍受したAionの戦術回線だった。PQが拾って、昴のモニターに表示した。
『A戦域でREMNESISの脅威度がAion側の最大判定を受けた。援護要請が全方面に出てる』
「亘一、暴れてるな」
『うん。でも、それだけ敵がA戦域に集中する。こっちは薄くなるかもしれない——逆に、向こうが厚くなる』
PQが何かを検知した。
『パラス隊の反応。B戦域から離脱してA戦域方面へ移動を開始した。四機編隊。REGULUS、CASTOR、POLLUX——と、もう一機。識別コード、VEIL-09』
昴の指が操縦桿の上で止まった。
VEIL-09。マリアの識別コードだ。初交戦の時から、ずっと同じ番号。
マリアがいる。パラス隊にいる。
あの夜、PQに聞かれた問いが蘇った。
——マリアがあっち側にいたら、どうする?
——わからない。会った時に考える。
会う時が来るのかもしれなかった。だが今は目の前に八機いる。
『スバル。集中して』
「わかってる」
昴は操縦桿を握り直した。
*
A戦域。
REMNESISは巡航艦の至近まで到達していた。
巡航艦は護衛艦より大きく、装甲も厚い。だが朔の演算は巡航艦の構造も既に解析していた。弱点は三箇所。そのうち最も効率的なのは、艦橋直下の通信アレイを破壊して指揮能力を奪うことだった。
「兄さん、通信アレイ。艦橋の下、六時方向。一撃で抜ける」
「見えた」
REMNESISが巡航艦の腹に潜り込んだ。対空砲火が追いかけてくるが、艦体の至近では味方を撃つリスクがあるため火力が落ちる。朔はそれも計算に入れていた。
ライフルが通信アレイを撃ち抜いた。巡航艦の艦橋から光が消え、周辺の量産機の動きが一瞬乱れた。指揮が途絶えた。
「もう一隻、左に——」
朔の声が途切れた。
0.5秒。
「——左に巡航艦。同じ手順で行ける」
繋がった。だが、途切れた。0.5秒の空白。RSの中でのそれは永遠に近い。
亘一の胸に冷たいものが走った。
「朔」
「大丈夫。演算を並列に走らせすぎた。整理した。続けて」
嘘ではなかった。朔の声は明瞭に戻っていた。だが亘一は、感覚共有を通じて別のものを感じていた。
朔の脳の熱が、さっきより確実に上がっている。数値ではわからない。RSで繋がっている亘一の身体が、右のこめかみの奥にじわりとした温みを感じている。自分の熱ではない。朔の熱だった。
「……朔。RS、一回切るか」
「切ったら巡航艦に追いつけないよ。今が一番効率いい。あと少しで突破口が開く」
正しかった。合理的には正しかった。
だが亘一は、弟の合理を疑い始めていた。「大丈夫」という言葉を、朔がどういう計算で出しているのか。兄に心配をかけたくないから大丈夫と言っているのか、本当に大丈夫なのか。RSで感情は伝わるが、朔が意識的に隠したものは伝わらない。
「……わかった。開けるぞ」
亘一はREMNESISを加速させた。
二隻目の巡航艦。同じ手順。通信アレイ。艦橋直下。朔の誘導で一発。
巡航艦が沈黙した。
A戦域の敵艦隊主力が崩れ始めた。指揮艦二隻の通信が死に、護衛艦二隻が行動不能、量産機は半数以上が撃墜されている。壁に穴が開いた。
亘一はREMNESISの速度を落とした。
「RS解除」
同期が切れた。
世界が狭くなった。さっきまで同時に見えていた全てが、人間一人分の視界に戻る。音が遠くなり、情報量が一気に減る。まるで深い水の中から水面に出たような感覚だった。
亘一は息を吐いた。身体が重い。RSの負荷はエコーコア側が請け負うが、脳の同期が切れた直後の感覚の落差は、パイロット側に来る。慣れの問題だ、と朔は言った。亘一はまだ慣れていなかった。
「朔」
返事に、0.2秒の遅れがあった。
「……うん」
「お疲れ」
「兄さんこそ」
声は穏やかだった。いつもの朔の声だった。だが——出撃の朝、カタパルトで聞いた「兄さん」と同じ深さが、微かに混じっていた。
亘一には、それが何なのかわからなかった。
「冷却、どのくらいで戻る」
「三十分もあれば。次の同期は問題ない」
「無理すんなよ」
「してないって」
朔は笑った。笑い方はいつも通りだった。
REMNESISのモニターに、エコーコアの温度ログが表示されていた。折れ線グラフが急激に上がり、RS解除後に降下している。数値は正常域に戻りかけていた。
亘一はその折れ線を見つめた。
正常域。戻っている。数字の上では問題ない。
だが0.5秒の空白と、こめかみに残る温みと、「もう戻った」という言い方と、笑い方は同じなのにどこか違う声の深さが、亘一の中で消えなかった。
言葉にならなかった。何を聞けばいいのかもわからなかった。
朔が、ふいに口を開きかけた。
「兄さん——」
間があった。
「……何でもない。冷却に集中する」
亘一はモニターから目を離さなかった。
折れ線は降下を続けていた。正常域に近づいている。何も問題はない。数字の上では。
Genea側の戦術回線が入った。黒瀬の声だった。
「A戦域突破確認。全軍、回廊内へ前進。——朝霧中尉、見事だ」
亘一は応答した。
「了解」
短かった。いつもならもう少し軽口を叩く。だが今は、朔が言いかけてやめた言葉のことを考えていた。
REMNESISの中で、エコーコアの電子音が静かに鳴っていた。
心電図のような、規則的な波形。
正常。
正常のはずだった。




