第49話:貴様、俺の娘を
一日目
日和の顔色が悪かった。
朝の通路で顔を合わせた瞬間に気づいた。血の気が足りない。目の下にうっすら影がある。昨夜ベンチで隣に座った時は暗くてわからなかった。
「飯食ったか」
「食べたよ。携行食のBセット」
「あれ不味いだろ。ちゃんと食え。メニュー減ったけど朝の汁物はまだある」
「匂いがちょっときつくて」
昴は足を止めた。
「寝れてるか」
「寝てるって」
「顔色悪い」
「鏡見てないだけだよ」
「医療班行け」
「大丈夫だって、お兄ちゃん」
日和は笑った。いつもの笑い方だった。だが昴は納得しなかった。
『スバル、過保護だよ』
PQの声が頭の中で聞こえた。
「うるさい、妹だぞ」
日和が首を傾げた。昴が急に虚空に向かって喋ったように見えたのだろう。PQとの会話は昴の内側で完結する。周囲の人間には昴の返事だけが聞こえる。
「PQ?」
「余計なこと言ってくる」
日和はまた笑った。今度は少しだけ長く笑っていた。
「お兄ちゃん、PQと仲いいよね」
「仲が良いっていうか、勝手に住み着いてるんだよ、頭の中に」
『失礼な。僕は正規リンクだよ』
昴は無視した。
「とにかく、午後に医療班行け。いいな」
「はいはい」
日和は手を振って歩いていった。背中が細かった。あの背中を何年見てきただろう。両親が死んでから、前を歩くのはいつも昴だった。後ろからついてくる小さな足音。泣き虫だった妹。転ぶと泣いて、昴がおぶって帰った。
あの背中がいつの間にか、一人で歩いている。
『心拍、少し上がってるよ』
「黙れ」
PQは笑っている気配がした。AIに笑いの気配があるのかは知らない。だがPQにはある。昴はそれを知っている。
*
日和は医療班に行った。
兄に言われたからではない。自分でもわかっていた。朝の吐き気。匂いへの過敏。遅れていること。
診察は短かった。担当の医療官は若い女性で、日和より少し年上に見えた。検査キットの結果を確認し、端末に数値を打ち込み、顔を上げた。
「妊娠してます。六週目に入ったところです」
日和は頷いた。
驚きはなかった。どこかで、もう知っていた。身体が先に答えを出していて、頭がそれを追いかけていただけだった。
「ありがとうございます」
医療官は少し間を置いた。
「天城さん。出撃要員に該当するご家族がいらっしゃいますね。報告義務は——」
「自分で伝えます」
日和の声は静かだった。
医療班を出ると、通路は昼の明るさだった。足音が自分のものだけ聞こえた。壁に手をついた。掌が冷たかった。
六週間。あの夜からずっと、この身体の中で何かが育っていた。
怖かった。嬉しかった。二つが同時に来て、どちらが先なのかわからなかった。
亘一に会わなくてはいけない。
兄ではなく、この子の父親に、最初に。
*
亘一を見つけたのは格納区画の裏だった。
REMNESISの整備記録を端末で確認しながら、壁にもたれて携行食を齧っていた。食べかけのBセットだった。日和と同じだ、と思った。
「亘一さん」
亘一が顔を上げた。日和の表情を見て、携行食を端末の上に置いた。
「どうした」
「二人で話したいことがあって」
亘一は周囲を見た。整備班の人間が数人、離れた場所で作業していた。亘一は黙って歩き出し、格納区画の端にある資材搬入口まで移動した。日和がついていく。搬入口は使われていなかった。非常灯だけが点いていて、薄暗かった。
「ここなら大丈夫。何?」
日和は亘一の目を見た。
「亘一さん、子供ができた」
亘一の動きが止まった。
手が宙に浮いたまま、一秒か二秒か、あるいはもっと長い時間、何も動かなかった。目が日和の顔から下がって、腹のあたりを見て、また顔に戻った。
唇が震えた。泣きそうな顔で、笑った。
「——本当に?」
「今日、医療班で確認した。六週目だって」
亘一は壁に背中をつけた。天井を見た。目を閉じた。開けた。
笑っていた。
日和の知らない笑い方だった。いつもの柔らかい笑いでもなく、スバルと騒いでいる時の豪快な笑いでもない。何かが溢れて、溢れたものを受け止める器が追いつかなくて、ただ零れている、という顔だった。
「亘一さん?」
「ごめん。ちょっと待って。整理する」
整理できていなかった。声が上擦っていた。亘一は額に手を当てて、深く息を吐いた。
朔のことが、一瞬だけよぎった。
REMNESISの中にいる弟。二十二歳で死に、脳だけがコアとして動いている弟。あの弟には——この先、こういう未来はない。子供を持つことも、誰かの父親になることも、名前をつけて呼ばれることも。
亘一はその思考を、三秒で仕舞った。日和の前では笑う。それだけを決めた。
「すごいな」
声が震えていた。仕舞いきれていなかった。
「すごいな、日和」
日和が亘一の手を取った。冷たい手だった。亘一がそれを両手で包んだ。
「お兄ちゃんには、まだ言えてない」
「……そうだよな」
「亘一さんから言ってほしい」
亘一の表情が一瞬凍った。
「……それ、俺が一番怖いんだけど」
日和が笑った。
「大丈夫。お兄ちゃん、亘一さんのこと信頼してるから」
「信頼と、娘を妊娠させたことへの許しは別問題だろ」
「妹だよ」
「スバルにとっては一緒だ」
二人で笑った。資材搬入口の非常灯の下で、薄暗い中で、手を繋いだまま笑った。
笑い終わった後、亘一が日和の手を握り直した。
「俺、絶対帰ってくるから」
日和は頷いた。
「知ってる」
*
亘一はその日の午後、昴を呼び出した。
場所は食堂だった。メニューが三種類に固定されてから、食事時間以外の食堂は空いている。亘一は奥のテーブルに座っていた。昴が来ると、向かいの椅子を足で押し出した。
「座れよ」
「何だ、改まって」
昴は座った。亘一の顔を見て、何かあったことは悟った。だが何かまでは読めなかった。亘一は人当たりが良い分、本気の感情を隠すのが上手い。
「スバル、二つ報告がある」
「二つ?」
「一つ目。日和と結婚したい」
昴の目が見開いた。
「——は?」
「二つ目。日和が妊娠した」
食堂の空気が凍った。
昴は椅子から立ち上がりかけて、テーブルに膝をぶつけ、もう一度座り、また立ち上がった。
「順番が逆だろ!」
「すまん」
「すまんで済むか! 貴様、俺の娘を——」
「妹だろ」
「一緒だ!」
亘一は構えていた。この反応は予測済みだった。というよりも、以前まったく同じやり取りをしている。あの時は交際の報告だった。今回は妊娠と結婚。エスカレーションしているのに、昴のリアクションが完全に同じだった。
昴はテーブルに両手をついて、亘一を睨んだ。亘一は逃げなかった。
「お前な——」
「うん」
「お前——」
「うん」
言葉が続かなかった。怒りなのか喜びなのか混乱なのか、昴自身にもわからなかった。妹が母親になる。あの泣き虫が。あの、転ぶたびに泣いていた日和が。
昴は座った。
両手で顔を覆った。
「……マジか」
「マジ」
「六週って、それ、いつの——いや言うな。聞きたくない」
亘一は何も言わなかった。
長い沈黙があった。食堂の換気音だけが聞こえていた。
昴が顔を上げた。目が赤かった。泣いてはいなかったが、近かった。
「亘一」
「うん」
昴は立ち上がって、テーブルを回り、亘一の前に立った。
両手で亘一の肩を掴んだ。強く。骨が軋むくらい。
「……絶対帰ってこないとな。」
亘一の目が揺れた。
「了解」
昴の手がゆっくり離れた。
『スバル』
PQの声が内側から聞こえた。
『……何も言わないよ。ただ、二人とも心拍数がすごいことになってる。記録だけしておく』
昴は鼻を鳴らした。
「記録すんな」
亘一が首を傾げた。「PQ?」
「余計なこと言ってる」
亘一が笑った。今度は、いつもの笑い方だった。
二日目
出撃前夜。
日が落ちてから、昴は一人で格納区画にいた。
VEGAの足元に座り、壁にもたれていた。コックピットには入らなかった。ただ、機体の近くにいたかった。ヤヒロがいつもこうしていた。整備が終わった後、機体の足元で缶コーヒーを飲んで、鉄の塊を見上げて、「よし」と一言だけ言って立ち上がる。あの背中を、何度も見た。
PQは沈黙していた。リンクは繋がっている。聞こえている。ただ、黙っている。賢いから、今が言葉の時間ではないとわかっている。
昴は目を閉じた。
暗闇の中に、幼い日和がいた。
両親が死んだ日のことは、あまり覚えていない。覚えているのは、その翌日だった。朝、目が覚めたら隣に日和がいた。昴のシャツの裾を握って、丸くなって寝ていた。泣き疲れて眠ったのだろう。まつ毛がまだ濡れていた。
あの日から、昴が朝一番に起きるようになった。
味噌汁の作り方を覚えた。母親がやっていたのを思い出しながら、何度も失敗した。薄すぎたり、煮すぎたり。日和は何も言わずに飲んだ。不味くても「おいしい」と言った。あれは嘘だったのか本当だったのか、今でもわからない。
学校へ送った。手を繋いで歩いた。日和の手は小さくて、いつも少し湿っていた。校門の前で手を離す時、日和が振り返る。毎朝同じだった。振り返って、手を振る。昴が手を振り返すまで、歩き出さない。
夜は二人で狭いベッドに寝た。日和が怖い夢を見て泣くと、昴が背中をさすった。さすり方も母親の真似だった。円を描くように、ゆっくり。日和はそのうち寝息を立てる。昴はその後も少しだけ起きていて、妹の呼吸を数えていた。
あの子が、母親になる。
昴が守ってきた命が、新しい命を守ろうとしている。
系譜。継承。Geneaが掲げる理念。遺伝子と教育で人材を再生産する計画。朔の脳を核にした機械。そういう言葉で語られてきたものの、本当の意味は——こういうことだったのではないか。
誰かを愛して、子供が生まれて、その子がまた誰かを愛する。操作しない。設計しない。ただ、続いていく。
PQが、ほんの小さな声で言った。
『……スバルのお父さんとお母さんも、きっとこんな気持ちだったんだろうね』
昴は目を開けなかった。
「たぶん」
それだけ言って、また目を閉じた。瞼の裏が熱かった。
*
同じ頃。
展望室に、日和と亘一がいた。
ヤヒロが死んだ後の、あの静かな夜にも、二人はここに来た。同じ窓。同じ星。あの時は「全力で生きる」と亘一が言った。今夜は、もっと具体的な話をしていた。
「男の子と女の子、どっちがいい?」
亘一は窓枠に肘をついて、少し考えた。
「どっちでも。健康なら」
「つまんない答え」
「本音だよ」
日和は窓の外を見た。星が多かった。基地の照明が落とされているせいで、普段より星がよく見える。明日の出撃に備えて、電力を節約している。その結果として、星が綺麗だった。残酷な理由で美しい夜空だった。
「名前、考えてある?」
「まだ早くないか。六週だぞ」
「早くないよ。考えるのはタダだし」
亘一は笑った。
「じゃあ、日和が先に言えよ」
日和は膝を抱えて、少し考えるふりをした。ふりだった。もう考えてあった。
「お兄ちゃんみたいに優しい子がいい」
亘一は黙った。
その言葉を、日和はマリアにも言ったことがある。独房の中で、手を握りながら。「子供が欲しい」「お兄ちゃんみたいに優しい子」。あの時マリアは泣いた。生殖権を手放した不死の女が、有限の少女の願いに触れて泣いた。
日和はそのことを覚えている。覚えていて、もう一度同じ言葉を使った。今度は、本当にその子が来る場所で。
「お兄ちゃんみたいに、転んでも泣いてる子の手を引っ張って、黙って歩き出すような。そういう子」
亘一は少し声を整えてから言った。
「朔に似てたら天才かもな」
声が揺れた。
日和は気づいた。気づいて、触れなかった。代わりに、隣に寄った。肩が触れた。
「朔さんにも会わせたいね。叔父さんだもん」
亘一の呼吸が一瞬止まった。
叔父さん。朔が。
脳をコアにされた弟が、この子にとっての叔父になる。人として生まれ、人として死に、機械の中で動き続けている弟が——叔父さんと呼ばれる未来。
亘一は窓の外を見た。
「……そうだな」
星が見えた。静かだった。日和の体温が肩から伝わってきた。
この手触りを、朔は知らない。知ることがない。優秀だったから脳を抜かれて、兄のために戦わされて、叔父さんと呼ばれることもないまま、戦争が終わるか壊れるかのどちらかで止まる。
亘一はそのことを考えないようにした。考えないようにして、日和の肩に頭を預けた。
「住む場所、どうする」
「戦争が終わったら考えよう」
「終わるかな」
「終わらせるんでしょ。お兄ちゃんと亘一さんが」
「……そうだな」
「最初に食べさせるもの、味噌汁がいい。お兄ちゃんが作るやつ」
「あれ、スバルが作ってたのか」
「うん。お母さんの真似。最初はすっごく不味かったけど、だんだん上手くなった。今はおいしいよ」
亘一は笑った。
「じゃあ俺も習おう。スバルに」
「亘一さん料理できないもんね」
「うるさいな。朔もできなかったぞ。朝霧家は全員ダメだ」
「じゃあ私が教える。天城家の味」
「天城家の味か」
「うん。朝霧家と合わせて、新しい味にしよう」
二人は黙った。
星だけが見えた。
言葉が途切れた後の沈黙は、温かいのに痛かった。手触りのある未来を語るほど、明日の重さが増す。それでも語ることを止められなかった。語ることが、二人にできる唯一の抵抗だった。
格納区画の奥。
REMNESISは沈黙していた。
コックピットは閉じている。亘一は展望室にいる。整備班も引き上げた後で、機体の周囲には誰もいなかった。
だが、REMNESISは沈黙していなかった。
微かな電子音。心電図のような、規則的な波形。それが一度だけ、ほんの僅かに——乱れた。
展望室の会話は、基地内通信のどこかを経由して、この機体の中まで届いていたのかもしれない。あるいは届いていなかったのかもしれない。
朔が何を聞いて、何を思ったかは、誰にもわからない。
電子音は、やがて元の波形に戻った。
格納区画の非常灯だけが、REMNESISの輪郭を照らしていた。
出撃の朝
カタパルトに全機が整列した。
照明が戦闘モードに切り替わり、格納区画が赤い光に染まった。整備班が最終確認に走り回っている。ヤヒロがいない整備班。補充されなかった穴を、残った人間が埋めている。
昴がVEGAのコックピットに座った。ハッチが閉まる。世界が狭くなり、PQの声だけが近くなる。
『全系統正常。リンク安定。いつでも行ける』
「ああ」
隣のREMNESISで、亘一がシートベルトを締めた。
コックピットの中に、朔の声が響いた。
「兄さん」
いつもと違うトーンだった。
毎日の会話で聞いてきた声——「楽しみにしてる」「本気で戦ってくれよ」——のどれとも違う。もっと静かで、もっと深い場所から出てきた声だった。
亘一は気づかなかった。出撃前の緊張が感覚を塞いでいた。
「おう。行くぞ、朔」
「うん」
朔はそれ以上何も言わなかった。
VEGAが射出された。加速が身体を押しつぶす。星が線になる。
REMNESISが続いた。二つの光が、暗い宇宙へ消えていく。
*
同時刻。Aion側。
マリアはコックピットの中にいた。
AS-17、VEIL仕様。二ヶ月で馴染んだ操縦桿。VEEの待機表示が点灯している。
前方に、パラス隊の全機が並んでいた。REGULUSを先頭に、CASTOR、POLLUX。そしてVEIL-09。
端末に作戦概要が表示されている。交戦予想宙域。敵識別コードのリスト。
ORIGIN-01──VEGA。
マリアはバイザーを下ろした。
今度こそ、終わらせる。




