第44話:それが現実だ
格納庫に残ったのは、壊れたものばかりだった。
足場の残骸。引きちぎられたケーブルの束。冷却液の水溜まりが、低い場所に流れて光を反射している。壁の一面に、REMNESISの拳の痕が三つ残っていた。装甲が内側に折れ込んで、剥き出しになった配管から、細い煙が立ちのぼっている。
技術者たちは、まだその場にいた。
逃げ場所がないからではない。帰る気になれないのだ。チェックリストを抱えたままの者、端末を手に持ったまま画面を見ていない者、ヘルメットを脱いで床に置いたままの者。誰もが、動作の途中で止まっていた。
セラ・ウェインライトは、制御卓の前に立っていた。スクリーンには、エコーコアの出力ログが並んでいる。数値は、正常範囲内に収まっていた。正常。
その言葉が、今この格納庫では最も不似合いな言葉だった。
誰も「成功です」と言わなかった。
言えなかった。
朔が亘一を止めた。機体制御が成立した。パイロットとエコーコアの信頼関係が証明された。技術的に言えば、これは成功だ。想定していた以上の成功だ。レポートにそう書けば、上層部はそう受け取る。
でも、今ここにいる全員が、「成功」という文字を胃の中で消化できないまま立っていた。
弟の脳で作ったコアが、兄の暴走を止めた。
それが成功だと、誰が言える。
セラは、端末を閉じた。
亘一のコックピットへ向かった。足場は崩れているから、瓦礫を踏んで登った。ヒールの底に破片が当たる音がした。
ハッチは、昴がすでに開けていた。
中に、亘一がいた。シートに座ったまま、正面を見ていた。何を見ているのかは、わからない。コックピットの前面パネルの向こうは、壊れた格納庫の壁だけだ。
「朝霧中尉」
セラが、静かに言った。
「……すみませんでした」
亘一は、セラを見た。
怒りではなかった。もう怒りは底を打って、その下にある何かが顔を出していた。疲弊、でも正確ではない。虚脱、でも足りない。全部を使い果たした後の、空洞。
「何が」
「全てです」
セラは、視線を逸らさなかった。逸らす権利は、自分にはないと思っていた。
「朔のこと。隠していたこと。あなたに先に教えるべきでした」
「命令だったんですよね」
亘一が、言った。問い詰める声ではなかった。ただ確認する、だけの声だった。
「はい」
「上層部の判断で」
「はい」
「俺の心理的負荷を考慮して」
セラは、答えなかった。
亘一が、小さく笑った。口の端だけが動く、力のない笑いだった。
「隠してた方が、よっぽど負荷でしたよ」
「……そうですね」
「REMNESISに乗るたびに、妙に馴染む感じがした。自分用に作られてるみたいだって思ってた。実際そうだったんですね」
亘一の声が、平坦だった。感情の乗り方が変わっていた。怒鳴っていた頃より、今の方が重かった。
「正式運用が、決定しました」
セラが、言った。言わなければならなかった。
亘一の顔が、わずかに歪んだ。
「朔が、あなたを止めた」
「……うん」
「技術的には、パイロットとエコーコアの信頼関係の成立と見なされます。運用上の問題なし、との判断が」
「聞きたくないです」
亘一が、遮った。
静かに、はっきりと。
「今は聞きたくない。後で書類にして渡してください。今日は、読めないと思うけど」
「……わかりました」
その時、コックピットの内部に、声が響いた。
『兄さん』
朔の声だった。
セラの手が、端末の上で止まった。
亘一の表情が、変わった。怒りでも悲しみでもなく、もっと複雑な何かに。
『怒らないで』
「……怒ってない」
『嘘。声でわかる』
亘一は、何も言わなかった。
『俺、嬉しいんだ』
朔の声が、まっすぐだった。
『兄さんと一緒に戦える。それだけで、本当に、十分だよ』
沈黙があった。
格納庫全体の沈黙ではなく、亘一とセラと朔の三人だけの、小さな沈黙だった。
セラは、その声を聞いていた。
エコーコアの出力データを見ていた時と、今聞いている声が、同じ存在から来ているという事実が、うまく繋がらなかった。データは数値だ。でも今の声は、人の声だ。
朔が「十分だよ」と言った。
でも、十分なはずがない。
コアの中にあるのは、生前の朔ではない。戦闘ログから抽出されて整形されて再構成された何かだ。それが本当に朔なのかは、誰も証明できない。亘一が「朔だ」と感じても、セラが「朔です」とは言えない。
それでも、今の声は。
セラは、そこで考えるのをやめた。
考え続けると、この仕事を続けられなくなる。
セラは、端末を閉じた。
「今日は、ここまでにします」
亘一に言った。
「ゆっくり休んでください」
亘一は、答えなかった。
セラは、足場を降りた。
格納庫を出る前に、一度だけ振り返った。
REMNESISが、膝をついたままだった。冷却液の水溜まりに、その影が映っていた。
成立してしまった。
セラは、その言葉を飲み込んで、廊下に出た。
黒瀬の執務室の照明は、半分だけ点いていた。
節電ではない。暴走の余波で電力系統の一部がまだ不安定なのだ。半分の明かりの中で、黒瀬明は報告書を読んでいた。読んでいる振りをしていた、が正確かもしれない。
扉をノックする音がした。
「入れ」
セラが入った。
「報告します」
「わかっている」
黒瀬が、報告書を閉じた。
「朔が止めた。だから運用が成立した」
「はい」
「止めなければ、機体を廃棄するか、亘一を降板させるかの判断になっていた」
「そうなります」
「つまり」
黒瀬が、窓の外を向いた。
「朔が優しかったから、使える。朔が兄を大事にしていたから、制御が成立した」
セラは、何も言わなかった。
「それが、Geneaの技術的成果として記録される」
黒瀬の声は、感情を抑えた平坦さで出来ていた。怒りを隠した平坦さではなく、怒りを通り過ぎた先の平坦さだった。
「暫定的な成功だ」
黒瀬が、続けた。
「亘一が、いつか答えを出す。あれは、納得して止まったんじゃない。朔に止められた。違いは大きい。いつか、その違いが表に出る」
「……その時は」
「その時はその時だ。今は動かせない」
セラは、頷いた。
黒瀬が、椅子の背もたれに体重を預けた。
「継承計画への疑念は、消えない。むしろ今日で深まった。優秀な人間の脳をコアにして、兄弟の絆で制御を成立させて、それを戦争資産として運用する」
黒瀬が、セラを見た。
「Aion Sphereが人間を更新記録として管理するのとどこが違う、とあの二人は思っている。答えが出ないまま、戦場に出す」
「……出さなければ」
「出さなければ、もっと多くが死ぬ。それが現実だ」
黒瀬が、報告書を引き出しにしまった。鍵をかけた。
「下がっていい」
セラは、頭を下げて、部屋を出た。
亘一の部屋は、真っ暗だった。
照明をつけていなかった。電力の問題ではない。つける気力がなかった。
亘一は、ベッドに座って、天井を見ていた。暗いから天井は見えない。ただ、上を向いていた。
「……朔」
呟いた。
REMNESISとのリンクは、切れている。今は、ここには声が届かない。朔は、機体の中にいる。今夜、亘一の部屋には来ない。
来られない。
来る方法がない。
亘一は、その事実を今日初めて意識した。
朔がいる。でも、手が届かない。コックピットに乗れば話せる。でも降りれば聞こえない。一緒に戦える、と朔は言った。でも、戦場の外では。食事の時間には。
眠れない夜には。
嬉しい。
本当に嬉しい。声を聞けて、笑えて、「ばか」と言えて、泣けた。
でも。
亘一は、目を閉じた。
嬉しさと苦しさが、同じ重さで胸を満たしていた。天秤が、どちらにも傾かない。
格納庫の中で壊したものを、明日から修理する。亘一が壊したものを、技術者たちが直す。その費用も、工数も、誰かが処理する。
朔が兄を止めたという事実が、運用開始の判断材料になった。
朔は、それを知っているだろうか。
自分が優しかったことが、自分を兵器として確定させたと。
亘一には、聞けなかった。
聞いたとしても、朔はたぶん笑って「そういうもんだよ」と言う。それがわかるから、聞けない。
暗い部屋の中で、亘一は、ずっとそこにいた。




