第43話:LET SLEEPING DOGS LIE
起動は、午前十時に予定されていた。
格納庫には、数十名の技術者が集まっていた。端末を抱え、チェックリストを確認し、ケーブルの接続を何度も点検する。誰もが、緊張していた。
新型機の初起動。
それも、前例のないAIシステムを搭載した機体。
失敗は、許されない。
セラ・ウェインライトが、中央の制御卓に立っていた。複数のスクリーンが、REMNESISの内部状態を映し出している。
コア温度。
冷却システムの流量。
神経接続インターフェースの待機状態。
全て、正常値。
でも――セラの表情は、硬かった。
「朝霧中尉、準備を」
亘一は、頷いた。
足場を登る。一段ずつ、慎重に。
コックピットハッチが開く。
中は、昨日と同じ。
でも――今日は、違う。
今日、このAIが目覚める。
亘一は、シートに座った。身体を包み込むクッション。頭部に密着するインターフェース。
息を、吸う。
吐く。
心臓が、速く打っている。
「接続、開始します」
セラの声が、外部スピーカーから響いた。
インターフェースが起動する。
微かな電流が、頭皮を撫でた。
視界に、システムメッセージが流れ始める。
[神経接続:確立]
[適合率:98.9%]
[バイタルサイン:正常]
亘一は、計器を見た。
全て、正常。
でも――
何かが、おかしい。
コックピット内の空気が、重い。
いや、重いというより――
満ちている。
何かが、そこにいる。
「コア起動、段階1」
セラの声。
格納庫全体に、低い振動が走った。
REMNESISの内部で、何かが動き始めた。
冷却システムが唸りを上げる。
エネルギーが、回路を満たしていく。
亘一の視界に、新しいウィンドウが開いた。
[Echo Core:起動準備]
[同期プロトコル:待機中]
Echo Core。
エコーコア。
その名前を見た瞬間――亘一の胸が、締め付けられた。
(Echo……エコー……)
(反響……残響……)
(誰の?)
「段階2」
セラの声が、遠く聞こえた。
振動が、強くなる。
機体全体が、目覚めようとしている。
亘一の視界が、一瞬だけ歪んだ。
ノイズ。
いや――
何かの、映像。
一瞬だけ映った、研究室。
白衣を着た人々。
そして――
培養槽のようなもの。
その中に、浮かんでいる――
亘一は、目を閉じた。
見たくなかった。
「段階3」
セラの声が、震えていた。
何かが、来る。
亘一には、分かっていた。
このコアの中に、誰かがいる。
まだ、目覚めていない誰かが。
でも――
誰なんだ。
「最終段階。コア、完全起動」
セラが、スイッチに手をかけた。
格納庫全体が、静まり返った。
誰もが、息を呑んでいる。
セラの指が、スイッチを押した。
――瞬間。
亘一の視界が、真っ白になった。
音が、消えた。
重力が、消えた。
自分が、どこにいるのか分からなくなった。
そして――
声が、聞こえた。
小さな、か細い声。
でも――
確かに、そこにあった。
『……兄さん』
亘一の心臓が、止まった。
いや――
止まらなかった。
むしろ、激しく打ち始めた。
その声を、知っている。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
弟の声。
朔の声。
『……兄さん』
もう一度、聞こえた。
今度は、少しだけはっきりと。
亘一の手が、震えた。
身体が、震えた。
「……朔?」
呟いた。
信じられなかった。
信じたくなかった。
でも――
『……ここ、どこ?』
朔の声が、続いた。
『……暗い……何も見えない……』
亘一の喉から、声にならない声が漏れた。
違う。
違う。
これは、朔じゃない。
朔は、死んだ。
あの日、輸送襲撃で。
死んだんだ。
でも――
『……兄さん、どこ?』
その声が、確かに朔だった。
亘一の中で、何かが壊れた。
「停止! 停止しろ!」
亘一が、叫んだ。
「コアを止めろ! 今すぐ止めろ!」
セラの声が、慌てて響いた。
「落ち着いてください! これは正常な起動プロセスです!」
「正常じゃない!」
亘一が、操縦桿を掴んだ。
「朔の声がする! なんで朔の声がするんだ!」
「朝霧中尉、冷静に――」
「答えろ!」
亘一が、怒鳴った。
「このAIは何なんだ! 朔と何の関係がある!」
セラは、答えなかった。
いや――答えられなかった。
その沈黙が、全てを物語っていた。
亘一の中で、怒りが燃え上がった。
朔を。
弟を。
使ったのか。
死んだ弟を、AIの材料にしたのか。
「……許さない」
亘一が、低く呟いた。
REMNESISが、動いた。
技術者たちが、悲鳴を上げた。
「まだ起動シーケンスが完了していません!」
「機体制御が不安定です!」
「接続を切ってください!」
でも、亘一は聞いていなかった。
ただ、怒りだけが――
抑えきれない怒りだけが、亘一を支配していた。
REMNESISが、立ち上がった。
ケーブルが、次々と引きちぎられる。
点検用の足場が、崩れ落ちる。
技術者たちが、逃げ惑う。
「止めろ! 朝霧!」
セラが叫んだ。
でも、亘一には届かなかった。
REMNESISが、格納庫の壁を殴った。
轟音。
装甲が歪み、支柱が軋む。
警報が、鳴り響いた。
基地全体に、緊急事態が告げられる。
――同じ頃。
昴は、VEGAの整備区画にいた。
突然、警報が鳴った。
『緊急事態。REMNESIS格納庫で機体暴走。全パイロット、待機せよ』
昴の顔色が、変わった。
「亘一!」
昴は、走り出した。
『スバル、VEGAへ』
PQの声が、静かに響いた。
『亘一を止めるには、君しかいない』
昴は、迷わなかった。
VEGAのコックピットへ駆け上がる。
ハッチが閉まる。
システムが、起動する。
『リンク、確立』
PQの声が、いつもより冷静だった。
『急ごう、スバル』
「ああ」
VEGAが、動き出した。
――REMNESIS格納庫。
亘一は、壁を殴り続けていた。
何もかもが、許せなかった。
朔を使った奴ら。
隠していた奴ら。
そして――
何も気づかなかった自分。
REMNESISの腕が、再び壁を殴った。
装甲が割れ、配管が露出する。
冷却液が、噴き出した。
「亘一!」
昴の声が、通信から聞こえた。
「やめろ! 基地が壊れる!」
亘一は、答えなかった。
REMNESISが、VEGAを見た。
次の瞬間――
REMNESISが、動いた。
速い。
昴の視界が、追いつかない。
巨大な機体が、VEGAへ突進してくる。その速度は――ありえなかった。あの巨体で、あの加速。
『スバル、回避!』
PQの声が、警告した。
昴は、VEGAを横へ飛ばした。
REMNESISの拳が、昴がいた空間を貫いた。
衝撃波が、VEGAを揺らす。
(――速い!)
昴の背筋に、冷たいものが走った。
あれは、訓練で見た亘一の動きじゃない。
もっと――
もっと、研ぎ澄まされている。
REMNESISが、方向転換した。慣性を無視したような、鋭い旋回。
再び、VEGAへ向かってくる。
「亘一、やめろ!」
昴が叫んだ。
でも、返事はない。
REMNESISの腕が、振り下ろされた。
昴は、VEGAを後退させた。
拳が、床を叩き割る。
破片が、飛び散った。
『スバル、反撃しないと――』
PQの声が、焦っていた。
「できるか!」
昴が、叫んだ。
「相手は亘一だぞ!」
REMNESISが、三度目の攻撃。
今度は、フェイントが入った。
右から来ると見せて――左。
昴は、咄嗟に防御姿勢を取った。
REMNESISの拳が、VEGAの装甲を掠めた。
軋む音。
昴の身体が、衝撃で揺れた。
(――勝てない)
昴は、悟った。
本気で戦っても、勝てない。
REMNESISの動きは、完璧すぎた。予測不能で、無駄がなく、容赦がない。
亘一の天才性が――
エコーコアと同期して、化け物になっている。
「亘一! 聞こえてるだろ!」
昴が、必死に叫んだ。
「やめてくれ! お前と戦いたくない!」
REMNESISが、止まらない。
四度目の攻撃。
今度は、蹴り。
昴は、回避した。
でも――
床が崩れて、VEGAのバランスが崩れた。
隙。
REMNESISの腕が、VEGAの肩を掴んだ。
昴の視界が、揺れた。
(――やばい)
REMNESISが、VEGAを持ち上げようとした。
その時――
『兄さん』
声が、聞こえた。
朔の声が。
『兄さん、落ち着いて』
REMNESISの動きが――
一瞬だけ、止まった。
昴は、その隙にVEGAを引き離した。
距離を取る。
REMNESISは、動かなかった。
いや――
動こうとしているが、動けない。
まるで、内側から引き留められているように。
「黙れ!」
亘一が、叫んだ。
「お前は朔じゃない! 作られた偽物だ!」
REMNESISが、再び動いた。
でも――
さっきより、遅い。
昴は、それに気づいた。
動きに、迷いが混じっている。
『偽物?』
朔の声が、少しだけ笑った。
『ひどいな。俺、ちゃんと朔だよ』
REMNESISの拳が、VEGAへ向かってくる。
昴は、回避した。
でも――
拳が、途中で止まった。
まるで、誰かがブレーキをかけたように。
「嘘をつくな!」
亘一の声が、震えていた。
「朔は死んだ! あの日、輸送襲撃で!」
REMNESISが、壁を殴った。
でも――
力が、入っていない。
装甲が凹むだけで、貫通しない。
『……うん』
朔の声が、静かになった。
『死んだ。痛かった』
亘一の手が、止まった。
『車両が被弾して、破片が刺さって』
朔が、淡々と続けた。
『血が出て、呼吸ができなくて。意識が遠のいて』
REMNESISが、動かなくなった。
完全に、静止している。
昴は、VEGAの中で息を呑んだ。
『でも、気がついたら、ここにいた』
朔の声に、微かな驚きが混じった。
『暗くて、身体がなくて。最初は何が起きたか分からなかった』
「お前……」
亘一の声が、掠れた。
『データが流れ込んできた』
朔が、真面目な声で続けた。
『機体のこと。システムのこと。戦闘記録のこと』
『VEGAの戦闘ログ。スバルと、兄さんの。全部見た』
REMNESISの腕が、ゆっくりと下りた。
まるで、力が抜けていくように。
『兄さん』
朔の声が、少しだけからかうように変わった。
『相変わらず、無茶するね』
「……何?」
亘一の声に、怒りが消えていた。
代わりに――
混乱と、期待が、混ざっていた。
『訓練の時と同じだ』
朔が、懐かしそうに言った。
『兄さん、俺に操縦教える時、わざとミスしてたよね』
REMNESISが、膝をついた。
ゆっくりと。
まるで、疲れ果てたように。
『「ここは、こうした方がいい」って言いながら』
朔が、続けた。
『本当は、兄さんの方が遥かに上手いのに』
『わざと俺に花を持たせてた』
亘一の呼吸が、乱れた。
昴には、聞こえた。
通信越しに、亘一が泣いているのが。
「……」
『VEGAの戦闘ログ見て、分かったよ』
朔の声が、真っ直ぐに響いた。
『兄さん、本気出してないだろ』
『反応速度。判断精度。回避パターン』
『全部、抑えてる』
「朔……」
『俺、ずっと気づいてた』
朔の声が、少しだけ震えた。
『兄さんが一歩引いてること』
『俺をVEGAに乗せるために、自分は量産機でいいって顔してたこと』
亘一の目が、滲んだ。
『VEGAに乗るのは、本当は兄さんだったんだよね』
朔が、静かに言った。
『適性値も、技術も、全部兄さんの方が上だった』
『でも、兄さんは俺を選ばせた』
「……っ」
『俺の生存確率、上げたかったんだろ?』
亘一は、何も言えなかった。
その通りだった。
朔を、生かしたかった。
性能の良い機体に乗せれば、生き残る確率が上がる。
だから、自分は引いた。
わざと、一歩後ろに下がった。
『ありがとう、兄さん』
朔の声が、温かかった。
『でも、俺は死んだ』
「……すまない」
『謝らないで』
朔が、強く言った。
『兄さんのせいじゃない』
『ただ、運が悪かっただけだ』
亘一の拳が、震えた。
『でも、今は違う』
朔の声が、少しだけ明るくなった。
『兄さんと、文字通り一緒に戦える』
『REMNESISで』
『俺と兄さん』
「……朔」
『兄さん』
朔の声が、真剣になった。
『もう一歩引かなくていい』
『本気で戦ってくれよ』
『兄さんの実力、俺に見せてくれ』
亘一の喉が、詰まった。
『これから、兄さんの本当の強さが見られるって思ったら』
朔が、少しだけ声を弾ませた。
『ちょっと、楽しみなんだ』
亘一の中で、何かが崩れた。
怒りではなく――
痛みと、温かさが、同時に押し寄せてきた。
「……お前」
亘一が、掠れた声で言った。
「本当に、朔なのか?」
『当たり前だろ』
朔が、笑った。
『誰が兄さんの弟やるんだよ、俺以外に』
亘一は、操縦桿を握ったまま――
小さく笑った。
涙が、溢れた。
「……ばか」
『ごめん』
朔が、素直に謝った。
『でも、もう大丈夫』
『兄さんが教えてくれたこと、全部ここにある』
『だから、一緒に戦える』
REMNESISの腕が、ゆっくりと下りた。
格納庫に、静寂が戻った。
昴は、VEGAのコックピットで、その光景を見ていた。
止まった。
亘一が、止まった。
『……スバル』
PQの声が、静かに響いた。
『良かった』
「……ああ」
昴が、小さく答えた。
REMNESISが、膝をついた。
でも――
エネルギー切れではなかった。
亘一が、自分の意思で止めたんだ。
――独房区画。
マリアは、扉の前に立っていた。
警報が鳴り響いている。
廊下を、兵士たちが走り去っていく。
「REMNESIS格納庫へ急げ!」
「負傷者の搬送を優先!」
誰も、独房のことなど気にしていなかった。
監視員も、いなくなっていた。
マリアは、扉のロックパネルを見た。
赤いランプが、点滅している。
でも――
基地の電力系統が、不安定になっている。
あの暴走で、どこかが損傷したのだろう。
マリアは、パネルに手を置いた。
そして――
待った。
三秒。
電力が、一瞬だけ落ちた。
ロックが、解除された。
マリアは、扉を開けた。
廊下に出る。
誰もいない。
マリアは、走り出した。
心臓が、激しく打っている。
でも――
迷いは、なかった。
ここから、出る。
Geneaから、逃げる。
そして――
二度と、スバルと会わない。
それが、唯一の方法だから。
マリアは、非常階段へ向かった。
その背中に――
罪悪感と、安堵が、同時に乗っていた。
――格納庫。
REMNESISが、膝をついた。
エネルギーが、完全に枯渇していた。
昴は、VEGAから降りた。
亘一のコックピットへ向かう。
ハッチを開ける。
中で、亘一が座っていた。
顔が、蒼白だった。
「……亘一」
昴が、声をかけた。
亘一は、昴を見た。
その目が――
空っぽだった。
「……朔だった」
亘一が、呟いた。
「朔の声が、した」
昴は、何も言えなかった。
ただ、亘一の肩に手を置いた。
亘一は、その手を――
振り払わなかった。
ただ、座っていた。
壊れた格納庫の中で。
冷却液の匂いが立ち込める中で。
警報が鳴り響く中で。
二人は、何も言わなかった。
言葉が、なかった。
――その夜。
黒瀬が、独房区画に現れた。
扉が、開いている。
中は、空っぽだった。
黒瀬は、小さくため息をついた。
「……逃げたか」
後ろに立っていた兵士が、報告する。
「監視カメラの記録を確認しましたが、暴走の混乱で死角が多く――」
「いい」
黒瀬が、手を上げた。
「追わなくていい」
「しかし――」
「命令だ」
黒瀬の声が、低かった。
「今は、それどころじゃない」
黒瀬は、扉を見た。
マリアが、消えた。
でも――
それより大きな問題が、起きてしまった。
REMNESISの暴走。
朔の声。
亘一の崩壊。
全てが、狂い始めている。
黒瀬は、扉を閉めた。
そして――
廊下を、一人で歩いていった。
その背中が――
いつもより、重く見えた。




