第32話:噂
噂というのは、火ではなく水に似ている。
燃え広がるのではなく、低い場所へ低い場所へと流れていって、気づいた頃にはどこにでもある。昴がそれを知ったのは、朝の整備区画で、知らない整備員に「あ、VEGAの」と言われた瞬間だった。名前ではなく、機体名で呼ばれた。それ自体は珍しくない。でも、その後に続いた「あの人ですよね」という声の含み方が、普通じゃなかった。
昴は気づかないふりをして、工具を取りに行った。
「よお」
ヤヒロが、VEGAの脚部パネルの下から顔を出した。作業着の袖が、いつもよりオイルで汚れている。朝から動いていたのだろう。
「……おはようございます」
「噂、聞いたか」
開口一番だった。
「聞いた」
「で、どうなんだ」
「どうって」
「マリアのこと」
昴は、工具を持ったまま、何も言わなかった。
ヤヒロが、脚部パネルから完全に出てきた。立ち上がって、作業着で手を拭く。その間、整備班の何人かが視界の端でこちらを見ているのが分かった。見ているというより、気にしている。気にしていることを隠す気がない、という温度だった。
「好きか、嫌いかでいえば」
「嫌いじゃないです」
「それだけか」
「それだけです」
ヤヒロが、少しだけ笑った。大きな笑い声ではなかった。むしろ、昴が予想していたより静かな笑いだった。
「まあ、そうだよな」
ヤヒロが、パネルの縁に腰を下ろした。
「助けたいとは思ってるだろ」
「……思ってる」
「正直だな」
「嘘ついても分かるでしょ」
「そりゃそうだ」
ヤヒロが、VEGAを見上げた。機体の腹部が、整備灯の光を反射している。
「まあ、噂は噂だ。出撃に支障が出なきゃ、誰も本気で咎めない。ここの連中、そのくらいの分別はある」
昴は、ヤヒロの横顔を見た。
整備班の誰かが、後ろで小さく笑う声がした。揶揄ではなく、温かい類の笑いだった。昴はそれを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
昼過ぎに、日和が来た。
整備区画に医療班の人間が来ることは珍しくない。定期確認の用件で月に何度か顔を出す。でも今日の日和は、チェックリストを持っていなかった。
「お兄ちゃん」
「……なんだ」
「マリアさんのこと、好きなの?」
整備班の手が、一瞬止まった。
昴は、工具を持ったまま固まった。
「何を急に」
「噂になってるんだもん。本人に聞いた方が早いと思って」
日和の論理は、いつも真っ直ぐで、昴の斜め上から来る。昴は顔を覆った。
「……好きか嫌いかで言えば、好きじゃないとは言い切れない。それだけだ」
「十分じゃない」
日和が、少しだけ頷いた。
「マリアさん、いい人だと思う。ちゃんと泣ける人だった」
昴は、何も言わなかった。
日和が、昴の腕を軽く叩いた。
「お兄ちゃんが幸せになりたいなら、応援する。それだけ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
日和が踵を返したところへ、亘一が入ってきた。
「日和、ここにいたのか」
二人が自然に並んだ。手が触れて、そのまま繋がった。
昴は、それを見た。
整備班の誰かが「いいなあ」と言った。冗談めかした声だったが、昴には少しだけ刺さった。
亘一が昴に目を向けた。笑っていた。でも昴は、その笑いの奥に、別の何かがあるのに気づいた。
笑い切れていない。
亘一は笑顔を作るのが上手い。いつでも、誰に対しても、場の温度に合った笑いを出せる。でも今の顔は、その精度が一割だけ落ちていた。口は笑っているが、目の端がどこか遠くを見ていた。
「スバル、今夜作戦会議がある」
「掃討作戦か」
「ああ。規模が大きい。お前も出撃だ」
昴は頷いた。
日和が、亘一の手を少しだけ強く握った。それに気づいた亘一が、日和を見た。何も言わなかった。握り返した。
昴は、工具を元の場所に戻した。
夜。
作戦会議は四十分で終わった。黒瀬司令が地図を示して、進路と担当区域と優先順位を説明した。昴はメモを取った。亘一は一度も手元を見なかった。全部、頭に入れていた。
解散の後、昴は廊下を歩いていた。
基地は静かだった。いつもより静かだった。出撃前夜の静けさは、昴にも少しずつわかるようになってきていた。話し声が少なくなる。足音が速くなる。整備区画の照明が夜中まで落ちない。
PQが、頭の中で言った。
『スバル』
「なに」
『今夜、通信帯域に少しノイズが増えてる』
「敵の哨戒が近づいてるのか」
『かもしれない。断定はできない』
昴は、廊下の窓の外を見た。基地の外側、遠くの宙域は暗いままだった。何も見えない。でも、何もないのとは違う。
ヤヒロが、すれ違いざまに肩を叩いた。
「またな」
嫌な予感があった。うまく言葉にできない種類の予感だった。PQのノイズの話とも、今夜の掃討作戦とも、直接繋がらない。でも、何かが今夜の空気に混ざっている。
昴は、部屋に戻った。
眠れそうになかった。




