14 見えなかった者 3
それは、一切の無駄が削ぎ落とされたかのような、至って無機質な声だった。普段耳にしている、彼女の舌足らずの可愛らしい要素はごっそりと消えていた。
ただ、チリチリとした空気は変わらず、この身に刺さる。
「……こ、れは、ど、ういうことだ?」
タラリと一滴、汗が額から頬を伝って滑り落ちた気がする。出された声は少々掠れ、強張っていた。
「おーい。そろそろ止めてあげなよー。」
この緊迫感漂う空気には似ても似つかない、全然離れていないのに、どこか遠いところから、のんびりとした声が通る。
「……止める。承りました。停止、移行」
予め決められている何かを、そのままなぞるかのように、彼女の唇は動き──、音もなく、しなやかに離れる。それは一瞬だった。元から何も起こっていなかった、と言われて頷いてしまう程には、不自然な所がなかった。
「……」
思わず吐息をつく。それにより、身体に変な力が入ってしまったことに気付かされた。
「……。は、はは……。」
カサカサに乾いた笑いが漏れた。
「ねぇ、緑ー。」
「なんだ?」
呼び掛けられていつものように、彼の方へ、当たり前のように向く。
何てこともない、日常の続き。彼はこうして今日も、緑の気持ちを上書きしてくれる、はずだった。
「一応、治療、したら?」
それを日常と片付けてしまうには、無理があった。
「へ。」
「なんか、そういう気がするんだよねー。ね、橙?」
「……あ、」
対応しきれなくなったとき、ものが分からない幼子と化してしまう。
少年と橙が何かを言っているのに、耳に入ってこない。
少年の軽めの口調に、笑って吹き飛ばす余力は、緑にもあったはずだ。
いや、まだ間に合う。まだその方向に位置付けられてない空気は、撤回出来るはずなのだ。
「……、何を、言って」
その空気に逆らって、笑みを浮かべてみるが口元は引き攣るのみ。
……あぁ、無様だぜ、俺。
金の瞳は強く引き絞られて、避けられようもない。
確かに、少年の瞳が細まっただけと言われればそれだけだ。
だが、ただ見られている、それだけのことが、このだだっ広い空間に、俺ともう一人だけのような、そんな途方もない感覚にさせる。
彼の前では言わなくてもいいことが、出てしまう。その瞳の前では全てが見透かされてしまいそうで。
「……ん? 僕が代わりにかけようか?」
少年は瞬き、首を傾げた。
それは年相応、正確に言えば見た目相応の仕草だった。
「え」
「ん?」
思った展開にならず、緑は驚いて少年を凝視する。少年はただ、緑の答えを待っていた。
「俺はっ──」
何かは分からない。だが、言わなくてはならないという感情に突き動かされ──、力を入れて発した声は、
「駄目ですよ。甘やかしては。」
嗜めるような声によって遮られた。それまで黙って少年の肩に座っていた黄が口を開く。
「出来るものを奪っては、一人立ち出来なくなりますからね。確かに、見ていて危く、口出ししたい気持ちは分かりますが、ここは落ち着いて見守る方が最善でしょう。」
黄は真面目腐った顔で頷く。
「大体、貴方が彼を甘やかし過ぎなのがいけないのですわ!」
赤は青に引き連れられて、少年の側、即ち玉座の方へ移動したのだった。
「んー、そう? 僕は甘やかしているつもりないけどなー。」
少年は軽く思い返してはいるようだが、思い当たらないといったところか。
当事者を除いて、三者は思い思いに述べていた。
それに当事者、つまり緑はというと、聞くのも我慢ならないというように、目元に力を入れた──
「き、聞いてれば……! 皆、俺のこと子供扱いしやがって! 俺は子供じゃないぜ!立派な、お、おっとっと……今は淑女だぜ!」
しかし最後の最後で締まらず、大分気の抜けた抗議となった。
「「「……立派な?」」」
胡乱な目が次々と緑に向けられる。
「な、なんだよ!」
「貴方が立派な淑女であったとは……すみません、気っ、が付かなくて……」
静かに肩を震わせる黄。
「寝言ですか? ……寝て言え。」
バサリと切り捨てた青。怒気を含み口調が乱れる。
「立派ですって? 私も気が付きませんでしたわ。」
閉じた扇を開き、そこから覗く赤い瞳は暗く冷えきっていて、何も読み取ることが出来ない。低音に変わった声は果たして何を思うのか。
「まっ、待った、待った! 違うんだ! 誤りがあった!」
先程から勝手に震えている一人は放置しても平気だろう。問題は凍てつくような瞳をこちらに向け、背景に収まりきれていない吹雪を放っている二者だ。
(何でだ!? 寒い!……そうか! だから黄は、震えて! どうにかしねえと!)
止まったはずの冷や汗が、再び吹き出ようとしていた。
絶賛勘違い中の緑であるが、この二人を何とかしなくてはならないという、最善策は弾き出せていた。
「そうでしたの。誰でも誤りはありますわね。」
扇から覗いた瞳はにこりと笑みの形を象った。
「誤り、ですか。」
柄と鞘にそれぞれ手を掛けた状態で油断なくこちらを窺う瞳。
ゴクっと、緑はそれを見て唾を飲み込む。
(じ、時間がねえ! ええい、ままよ!)
「そ、そう! 訂正だ! この俺こそが! 今、乗ってる、最も! 元気な淑女だぜ!」
親指を立てて、キラーンと、清々しい笑みを浮かべた。
(決まった!)
緑は瞳に輝きを取り戻し──、
「あ、あれ?」
周囲の空気と自分の達成感が一致しないことに今更ながら気付く。遅れ馳せながらその場に止めをさしたのは、自分である可能性に向き合わねばならなかった。
「……もしかしなくとも、俺、やっちまった?」
ダラダラとかいてないはずの汗が背中を伝っているような錯覚に陥る。
場は静まり返っていた。
「……最も元気。ぶはっ……!」
ただ一人呼吸困難に陥っている者──黄を除いて。一身に注目を浴びた黄は、苦しそうに片手で口を押さえ、もう片方の手を小さく挙げた。
少年はそれを正確に汲み取り、こちらを窺っていた者に、
「えーと、じゃあ、こちらは気にしないでどーぞー」
手を差し出して勧めた。
「おい、シュユウ! それってどういうことだ、……って!?」
スラリ、物騒な音が聞こえて、緑はそちらに目を向けたら、
「寝てください。」
先程までは見られなかった白銀色の刀身が鞘から顔を出していた。
「……赤、命令を。」
そのままの体勢で、短く問う。
「……いいえ、青。貴方は見てなさい。私が引導を渡して差し上げますわ。」
決意を湛えた瞳へと塗り変わると同時に、パチンと扇を閉じた。
彼女は歩き出した。その毅然とした姿に誰もが一度は目を奪われるだろう。一線を画する凛とした気高さは隠せず、誰かの心を傅かせずにはいられない。……ここが閉ざされた場所でなければ、彼女に惹かれる輩は無駄に増え続けていたに違いない。
青は彼女の二歩後ろに付き従いながら、彼女の背中を見ていた。




