11 上書き後、何が映るか
「……、!」
堪らず青年は目を逸らし、そのまま視界に映り込んだものに、ハッとする。
「ん?」
少年は怪訝そうな声を上げ、青年の視線の先を見た。
「あー。」
「ああああの、いつまでこうしていれば!」
少年は腑に落ち、青年はみるみる真っ赤な顔になっていく。
「イヤだよねー、外そうか。あ、でも、紫が見えなくなるか。」
さも当然のように提案され、
「イイイ、ヤじゃありません! むしろ光栄で、手汗が──、じゃなくて! 紫さ──」
必死に否定する余り、違うことまで言いそうになり、慌てて少年から出された話題に乗るが──。
──ヒュッ。
青年は息を呑む。吸った息が奥まで入らず、ピリッと舌先に張り付く。
──ドクッ、ドッ
鼓動が不自然に騒ぎ出す。
「……」
カラカラとした喉は、喋る機能を損なわせ──、口を僅かに動かすことしか出来ない。
膝が震え出し、ガクンッと崩れるのも時間の問題だったが、その前に──。
「……。」
青年の喉に少年の手が触れた。その動作は一瞬で、いつ青年の手から離れたのか分からない。
「──。」
少年の唇が開き、音にならない言葉を象り─、青年の喉から手が離れた。
「えっ。──あ、あれ。」
何を言ったのか聞き返そうとして、声が出たことに驚く。
青年は喉を手で押さえた。
「あ、あ。」
普通に喋れて、普通に呼吸が出来る。
青年は、そのことにほっとする。
「──ムラサキ」
「え?」
「今度から彼女のこと、そう読んでね。」
間違えちゃったんだー、と困ったように笑う少年を不思議に思いつつも、話題の人物を目に映そうとするが──、少年の掌を見て、青年は目を丸くした。
「い、いないです!」
そう、先程まで少年の右掌にちょこんと立っていた──、少年がムラサキと呼び直した少女が忽然と消えていた。
「まぁまぁ、そう慌てずに。」
少年はにこやかな顔であった。
「そう言われてもですねっ!」
「ときに、君は彼女が何色に見えた?」
軽い口調と口元の笑みはそのままだが、瞳は至って真剣だった。
「え、紫色でしたけど。」
唐突な質問に、思わず素直に青年は答えた。
「どのぐらいの濃さ?」
少年は矢継ぎ早に尋ねる。鋭さが微増したが、青年は考え込むことに夢中で気付かない。
「……、葡萄ゼリーの濃さです。」
考えた末、青年は真面目に答えた。
よく思い出してみたが、それしか思い当たらなかったのだ。
「……っ。うん。葡萄ゼリー、……であっても、色の濃さは、多種多様だよね。」
こちらも真面目な顔付きであるが、口角がピクピク震えている。
「……そうですね。高級葡萄ゼリーとでも言うべきでしょうか。光沢があって、ツヤツヤしていて、濃厚そうで── 」
「う、うん。」
尚も考え込んで話す青年に、少年は俯き肩を震わせている。そのような少年の様子に勿論、青年は気付いていない。
「質の良い葡萄だけを使って圧縮させ、搾り取った果汁満点ですよ!」
力強く拳を握って、青年は熱弁した。
「か、果汁百パーセントってとこかな。」
少年は口元を手で押さえ、俯きながら聞く。
「はい。」
勢い良く即座に頷く。
「……っく。……そっか、君の考えは分かったよ、っ。」
少年はもういいと、青年に手を向け示す。
「果汁満点ねぇ。」
少年はちらっと右掌を見る。
「……っ、ごめんごめん。機嫌直してよ。」
少年の目尻にはうっすらと光るものが見えた。
「ということは、カガミか。」
「え?」
思案げに呟いた少年に、青年は聞き返す。
「さ、回路を繋ぎ直そうか。ん。」
少年は左掌を青年に差し出す。
少年の言っていることは分からないが、これは要するに手を出せということだろう。
ゴクッと喉を鳴らし、青年は少年の指先を掴んだ。
「あ、もう置くだけで平気だよ。 回路は残っているから。」
「?」
「あー、そのままでいいや。手っ取り早いし。」
「は、い。」
青年は疑問を抱きながら、取り敢えず頷く。
「さあ、左手側を御覧ください。」
「?」
青年は言われた通り左、つまり少年の右掌を見る。
「あっ!」
そこには、消えていたはずの少女──、ムラサキが口をへの字に曲げて、少年をじっと見詰めていた。
「ム、ムラサキ様! 」
ちゃんと言えているのだが──、
「あ、れ」
──何かが可笑しい。
己の喉から出した声のはずなのに、その言葉だけは意図せぬまま、勝手に早く流れる。
戸惑いつつも、こちらをハッと見てきたムラサキに、無理矢理、違和感を振り切り──、
「不躾なことを幾度となく申し上げて、誠に申し訳ございませんでした。」
折り目正しく、頭を下げた。しかしそれ故──。
悲しいかな。少年の手を握ったままであることが、一層不自然に感じる。
「え」
ムラサキはその光景に目を丸くする。
無理もない。この空間に入ってきてから初めて見る青年のまともな姿である。
この青年、髪があちこち跳ねているだけで、外見だけ見れば、有能に見えるのだ。外見だけ見れば。
……本人は髪が跳ねている原因を天然パーマによるものと思っており、整えることすら諦めている。そのように過ごしているからこそ、寝癖すら、パーマと同化し始めていた。
「あっ、いえ! その、分かって頂ければ、それでいいですから!」
青年の急変した態度に、思考停止し掛けたムラサキは、慌てて応える。
「ですが……!」
青年は眉を下げて、言い募ろうとするその姿は……。
「ふふっ。」
ムラサキは笑ってしまった。
「えっ、」
青年は何か粗相をしてしまったのかと、一気に血の気が失せる。
「あ、ごめんなさい。そちらの方が貴方らしいなと思って。 」
口元を手で押さえ、苦笑気味にムラサキは話した。
「?」
「ふふっ。何でもありません。」
それは暖かな訪れを感じさせる微笑みだった。
そんなムラサキの微笑みに呆けていると、
「シュユウ?」
ムラサキは視界の端に震えている少年を認め、声を掛ける。
「……っ。いつもの弱々しい姿とは違い、頼もしく見えたから誰だろう? ってね。」
笑いを収めた少年は、肩を竦めた。まだ完全に収まってないのか、笑顔は保持されていた。
「シュ、シュユウ!」
ムラサキは焦った声を上げる。
「でしょ? 」
少年は、ほくそ笑む。
「……」
ムラサキは少年を見たまま、何か言いたそうである。
「……そうでしたか。」
その落ち着いた声に、ムラサキは身体が強張った。
「あ、あの。情緒豊かな方だと──」
ムラサキは慌てて付け加える。
「よかったです。」
「え」
思いがけない言葉にムラサキは目を見張り──、
「ありがとうございます。」
青年は安心したようにへにゃっと笑った。
格好いいとは言えないが、不意を突く──。
「──」
「1、2、……残らず、ねぇ。」
──そんな中、少年はさっと周囲を見渡して、面白そうに呟いた。
「あ、あの?」
何か企んでいるような少年に、青年は戸惑いがちに声を掛けた。
「ううーん、何でもないよ。君を放っとかせないと、手を挙げる者は一定数いるだろうなーって。」
「放っとかせない?」
意味が分からず、困惑する青年。
「あ、養いたいの間違いだ。」
気が付いたように、ほわっと軽く言い直した。
「な、なんでそんなことをっ!?」
青年はぎょっとする。
「いなかったの?」
少年は首を傾げた。
「え、いなかったこともなかった──って、それは私が頼りないからで! ──いや、何を言わせるんですか!?」
青年はやや仰け反り気味に応えた。
「言ったのは君じゃん。 やっぱ、あったかー。」
呆れ半分、感心半分といった体だった。
「? ……まさか、見ていたのですか!?」
訝しげな表情から、青年は目を見張る。
「どうやって見るっていうのさ。君を四六時中見詰めていろって?」
少年は片眉を上げてみせた。
「あ、いや! そそそ、そういう訳じゃなくって!」
青年は激しく動揺していた。
「冗談だよー、それはそれで面白いかもしれないけど……。まっ、それはいいか。……正解はね、ある知人の意見からの推測ー。」
少年は気儘な感想をそこそこに、理由を話した。
「今、聞き捨てならないことが聞こえた気が……って、どんな知人ですか!?」
青年の関心対象も、それに追随した。
「うーん、一言で表すと、あらゆる者の噂が大好物な知人かな。……まぁまぁ。」
思案していた少年は、ふと宙を見て宥めるように言った。
「そんなにカリカリしなくても。お互いに、単なる暇潰しのお喋り相手にしか思ってないでしょ。──そうだっけ?」
「悪い方だとは思いませんが……。」
少年が見ているであろう虚空に、ムラサキも視線を移して会話に入っていく。
「どこを見て話して……。ハッ! そういえば、まだ、いらっしゃるんですよね!?」
「何のことー?」
「惚けないでください! 彼の方々のことですよっ!」
そう、少年は精霊達とか、彼等とか複数を示唆する語を使っていた。
「あ、あと、何名、い、いらっしゃるのですか。」
ムラサキがいる手前、何とか丁寧な言葉を維持する。
「あのねー、君がどう思おうと、皆聞いてるから畏まらなくて平気だよ。」
少年は眉を顰めていた。
「……えっ!? ……まさか、今までのやりとりをですか!」
「そう。」
少年は頷く。
「ええっ!!」
青年は一際大きな声を出した。
「いや、だって、貴方、言ってたじゃないですかっ! 通訳してあげるって! だから、私の言葉は通じてないのかと──」
「あ」
思い出したような声を出す。
「あ、って何ですかっ!? まさか忘れてたと──」
「うん、忘れてた。」
清々しい程、晴れやかな笑みを向けられた。
それは一種、眩しくて後光が差しているような──目の暴力。
「……」
何も考えられなかった青年は、
「……シュユウ。」
ムラサキの困った声で、我に返った。
「と言われてもねぇ、君の、『ちょっ、え、もそっ、ば』では、君の尋ねたいことが、把握出来なかったし。」
「え!? そんなこと── 」
……確かに言ってしまったのかもしれない。そのとき青年は、少年の言動に頭が一杯一杯で、細かいことは覚えていなかった。
──だとしても。
「っ!」
恐らく少年は、青年がそのまま発した、自分でも纏まってないと分かる、意味不明な1音1音を正確に出力したのだろう。
──あぁ、なんて、なんてっ! ……恥ずかしいっ!
青年は少年と握ってない手で、思わず口元を覆う。顔に熱が集まるのを、はっきりと感じた。
「で、その異なる複数音で、何が言いたかったのさ。ねぇ。」
少年は問い掛けた。しかし──。
「おーい。」
幾ら待っても返事は来ない。
「ねぇねぇ、これって待っててあげた方がいいの?」
固まっている青年から視線を外し、宙を見た。
「あの。もし?」
因みにムラサキも呼び掛けているが、返答はない。
「戻っておいでー。」
呼び掛ける少年に対し、青年の思考は加速していた。
──私の言動は向こうに筒抜けだったということで──、──私は、何てことをっ!
青年は、一気に全身が冷えていくのを感じた。そして、それは多少なりとはいえ、彼の外側に意識を向ける視野が生まれ──
「ちょっ、え、もそっ、ば。ば、もそっ、え、ちょっ。」
訳の分からない音の連なりを、青年の耳は拾った。
「えっ、もそっ、ちょっ、ば」
それはリズムが伴って、軽快な歌のように聞こえてくる。
こちらの心を軽くするような、楽しげな雰囲気に誘われて──、青年は口元から手をするりと外し、顔を上げた。
「お、こっち見た。」
その金の瞳に迎えられた瞬間──。
「わっ」
青年の身体は沈む──、その勢いで少年の身体もぐらつく──。
「シュユ──」
それを見ていたムラサキは、焦った声を上げ──途切れた。
その結果──、青年は地に両膝を付いて、座った格好であった。少年も道連れとなり、尻餅を付いていた。
「もー、何すんのさ。」
少年は片膝立ちに切り換えた。
「申し訳ありませんでした!」
青年は頭を下げていた。それは、少年に頭を差し出す形であった。
「何のこと? ……少なくとも、今のことじゃないよね。」
少年は青年の頭を見下ろした。
「彼の方々に、不快な思いをさせてしまったことです!」
「……不快な思い?」
少年の疑問は解消されていない。
「そうです。……私は見えない、聞こえないを言い訳に、恐怖の対象としては勿論、彼の方々を居ないことにしてきました。」
「……」
少年は黙る。
「実際、私の中では居ないも同然で、先程仰っていたように、本の中の、架空の物語の延長線上でしかないと。」
そうでないと、自分が保てなくなるから、と青年は僅かに震える声で付け加えた。
スゥ、息を吸った音が聞こえた。
「自分の世界を守るために、誰かを傷付けている当たり前を、私は鈍感でいることで、顕在化することを無意識に避けていたのです。……今になって分かりました。」
苦々しく、告白をする。
「彼の方々は、何をしても、何を言っても通じない。そんなことはありませんでした。……ムラサキ様を見て、気付かされました。寧ろ、通じないと自分で作り上げていたのです。」
バラバラに切り出された話は、繋がりが見えないが、どれも青年にとっては本当のこと。だから──、
「どうして、私は見えないのでしょう。聞こえないのでしょう。ただ、他の方と同じでありたいだけなのに。─それは私にとっては、許されないことなのでしょうか!」
諦念したと思い続けていた、受け止めなければならないと抑圧していた感情が、ぶり返した。
ボタッ、ボタと生暖かくて、空気に接したことで冷たくもあるものが、少年の足の甲に落ちてきた。
「……君は、他と比べたら、出遅れていると思っている。もしかしたら小さいときは一歩の差だったかもしれない。大きくなるにつれて、隔たりが大きいことを目の当たりにしたのかもしれない。 それでも、そんな君だから。君でなければ、見えないもの、聞こえないものがある。見えるものが、聞こえるものが全てじゃない。」
少年はただただ、静かに話した。
「君はそれでも生きてきた。生きることを選択した。嘆いていたら、今の君を否定することにしかならない。」
青年に語りかける。
「今の君でなければ、ここまでの歯車が重なり合うことはなかった。どこかが違えば、一瞬で君の人生は様変わりしていた。そして、僕と会うこともなかった。……それは幸せだったかもしれない。」
過去を顧みて出された総括は独り言に近く、しっとりと温かくて──冷えていく。
「でも僕は君に、会えたことは心から嬉しく思っているよ。」
青年は動かないままだ。
「……勿論、今まで会ってきた者、全てにも。」
少年は目を伏せた。
「……無かったことにしてしまうのは、彼等全ての生き様に泥を塗ってしまうから。僕自身も、無かったことにするには、余りにも濃い時間だったから。」
金の瞳は、蝋燭の灯火のようにゆらゆらと揺れていた。
「さぁ、そろそろおやすみの時間だよ。」
少年は青年からスルリと手を離す。
「……って!」
縋るように青年は少年の手を追う。さながら迷い子のように。
「……おやすみなさい」
少年は青年の頭に手を置いた。
青年は虚ろになった目を閉じた。
周辺の風が青年を包むように、細やかな渦が発生した。目を凝らせば、仄かな桃色の微細な粒子が見え隠れする。
コオォ。
それはどこか繊細でいて、優しい──。
解かれた渦から現れたのは──、モコモコしたピンクの掌サイズの羊だった。正確に言えば、羊擬きか。
本来なら羊が生えてくるであろう角の場所には、山羊の角が生えていた。それは、少年が前に作り出した玩具にほぼ近い。際立った違いは、閉じられた目蓋から涙の跡が見えるぐらいだろうか。
──待って!
青年が最後に言った言葉は、少年に届いていた。
「……全く、言う相手が間違っているよ。」
少年は苦笑を漏らし、そっと、その羊擬きを手で拾ったのだった。




