第2話 最初の監査対象
王都南地区。
崩れた石造りの建物が並ぶ路地裏を、乾いた風が吹き抜ける。
少年は地面に膝をついたまま、小さく肩を震わせていた。
数歩先では、一体のゴブリンが黒パンを片手に持ち、面白そうに眺めている。
「返してください……。」
勇気を振り絞るような声だった。
ゴブリンは鼻で笑う。
「落とした時点で、お前の物じゃねぇ。」
そう言って黒パンを軽く放り上げ、再び片手で受け止める。
少年は悔しそうに唇を噛み締めた。
真人は二人の様子を静かに見つめる。
(感情で動くな。)
(まずは確認する。)
税務調査で一番危険なのは、思い込みだ。
怪しい。
怪しくない。
そんな感覚だけで判断してはいけない。
事実を確認し、証拠を積み重ねる。
判断は、そのあとだ。
真人はゆっくりと歩き出した。
「少し、お時間よろしいですか。」
ゴブリンが怪訝そうに振り向く。
「あぁ?」
「なんだ、人間。」
真人は穏やかな口調で答えた。
「確認したいことがあります。」
ゴブリンは眉をひそめる。
「確認?」
「はい。」
「まず、お名前を教えてください。」
ゴブリンはしばらく真人を見つめていたが、やがて面倒くさそうに口を開いた。
「……ゴルドだ。」
その瞬間、真人の視界に淡い文字が浮かぶ。
【対象確認】
氏名:ゴルド
種族:ゴブリン
続いて、新たな表示が重なった。
【完全査定】
保有魔力:2,480
未納魔力:1,920
未申告魔石:3個
真人は静かに査定結果へ目を通す。
(本人確認完了。)
(査定結果に変化なし。)
(対象に誤りはない。)
ゴルドが苛立ったように口を開いた。
「それで?」
「確認ってのは終わったのか。」
真人はゆっくりとうなずく。
「確認が終わりました。」
「あなたには未納があります。」
ゴルドは眉をひそめた。
「……未納?」
「何を訳の分からねぇことを言ってやがる。」
真人は視線を外さずに続ける。
「確認できました。」
「これより是正を行います。」
ゴルドは鼻で笑う。
「是正?」
「さっきから何の話だ。」
真人は答えない。
静かに視界へ表示された文字へ目を向ける。
【徴収】
対象:ゴルド
徴収対象
・未納魔力 1,920
・未申告魔石 3個
【実行しますか?】
真人は小さく息を吐いた。
(本人確認済み。)
(査定済み。)
(徴収対象に誤りなし。)
現実でも、確認できないものを処分することはない。
だから最後まで確認する。
それが仕事だった。
真人は静かに右手を前へ差し出す。
「――徴収します。」
真人の言葉と同時に、視界の文字が静かに輝いた。
【徴収 実行】
次の瞬間だった。
ゴルドの身体から、淡い赤い光がゆっくりと浮かび上がる。
「……なんだ?」
赤い光は一本の帯となり、真人の手元を通り抜け、そのまま空へ吸い込まれていく。
続いて、ゴルドの腰に下げられていた革袋が小さく震えた。
中から三つの魔石が宙へ浮かび上がる。
「なっ……!」
ゴルドが慌てて掴もうとする。
しかし、指先は空を切った。
魔石もまた、赤い光に包まれながら空へ消えていく。
【徴収完了】
【未納魔力を世界循環へ返還しました】
【未申告魔石を世界循環へ返還しました】
真人は表示を静かに見届けた。
(……返還された。)
奪ったのではない。
世界へ返った。
その感覚が、不思議とはっきり伝わってくる。
一方、ゴルドは数歩よろめき、その場に片膝をついた。
「ぐっ……。」
黒パンを持つ腕から力が抜ける。
パンが石畳へ落ち、小さな音を立てて転がった。
「なんだ……これ……。」
ゴルドは自分の腕を見つめる。
何度も拳を握ろうとするが、思うように力が入らない。
「体が……重い……。」
真人は落ち着いた口調で答えた。
「私は何も奪っていません。」
ゴルドが睨みつける。
「だったら、この体は何だ!」
「本来あるべき状態へ戻っただけです。」
その一言に、ゴルドは言葉を失う。
少年は恐る恐る真人を見る。
そして地面に落ちた黒パンへ視線を移した。
真人は何も言わない。
何もしない。
ただ静かに立っている。
少年はゆっくりと歩き出し、黒パンを拾い上げると、大切そうに胸へ抱きしめた。
その姿を見ても、真人は表情を変えなかった。
ゴルドも動かなかった。
いや、動けなかった。
未納によって膨れ上がっていた力が失われ、身体が本来の状態へ戻っただけだった。
しばらくして、ゴルドはふらつきながら立ち上がる。
悔しそうに真人を睨むが、再び少年へ手を伸ばすことはなかった。
「……覚えてろ。」
吐き捨てるように言うと、そのまま路地の奥へ歩き去っていく。
真人は追わない。
その背中を静かに見送るだけだった。
少年がおずおずと口を開く。
「あ……ありがとうございました。」
真人は少年へ視線を向ける。
「礼を言われることではありません。」
一拍置いて続けた。
「私は、確認しただけです。」
その瞬間だった。
カラン、と乾いた音が響く。
二人が振り向くと、近くの井戸から一滴、水が落ちた。
そして、もう一滴。
やがて細い水の流れが静かに湧き始める。
路地の隅で枯れかけていた草も、わずかに緑を取り戻していた。
その瞬間、真人の視界に淡い光が浮かび上がった。
【監査完了】
【世界循環への返還を確認】
【監査報酬を算出中――】
真人は思わず目を細める。
「……報酬?」
次の瞬間、柔らかな白い光が真人の身体を包み込んだ。
疲労がすっと消え、身体がわずかに軽くなる。
【監査報酬を付与しました】
・経験値 +120
・監査ポイント +10
【レベルアップ】
Lv1 → Lv2
真人は自分の両手を見つめる。
「世界へ返還した結果、その一部が監査報酬として支給された……。」
誰かから奪ったわけではない。
世界の循環を正常に戻した対価として与えられたもの。
それは税務調査官だった頃の「成果に対する評価」に、どこか似ていた。
真人は静かに息を吐く。
「なるほど……。」
「これが、この世界の仕組みか。」
その時だった。
空から低く響くような音が鳴り渡る。
ゴォォォン――。
真人が顔を上げると、頭上に巨大な光の帳簿がゆっくりと開いていく。
見開きになったページへ、金色の文字が一行ずつ刻まれ始めた。
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世界帳簿
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世界健全率 3.0% → 3.1%
魔力循環率 5.0% → 5.4%
世界幸福度 8.0% → 8.1%
魔王軍支配率 94%
監査済み地域 1/128
世界監査機能 停止
未納総額 計測不能
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【更新履歴】
・王都南地区
・未納魔力 1,920 返還
・未申告魔石 3個 返還
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数字が更新されるたび、井戸から流れる水の勢いがわずかに増した。
路地の隅で枯れかけていた草にも、淡い緑が戻っていく。
真人はその光景を静かに見つめる。
「数字だけじゃない……。」
「世界そのものが、少しずつ元へ戻っている。」
世界帳簿は、ただの記録ではない。
世界の状態そのものを映し出す帳簿なのだ。
真人は空を見上げ、小さく息を吐く。
「なら、一件ずつ確認して、一件ずつ是正していくしかない。」
「地道な仕事だ。」
だが、それは税務調査官だった頃と何も変わらない。
派手さはない。
それでも、確実に世界は変わる。
真人は静かに歩き出した。
まずは、この王都で何が起きているのかを知るために。
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監査記録 No.0001
案件名:『王都南地区 ゴブリン兵未納案件』
結果:監査完了
返還内容:
・未納魔力 1,920
・未申告魔石 3個
世界健全率:3.0% → 3.1%
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次回『世界を知るための一歩』




