第1話 異世界にも監査は必要らしい
その領収書を見た瞬間、違和感を覚えた。
榊真人は一枚の紙を指先でつまみ、静かに視線を落とす。
金額は七万八千円。
都内の高級ホテル。
日付は三日前。
内容だけ見れば、何もおかしくない。
だが――。
「部長。」
真人が顔を上げると、向かいに座る男性が小さく肩を震わせた。
「はい……。」
「こちらの領収書ですが、三日前に宿泊されたという認識でよろしいですか?」
「え、ええ。その日は地方へ出張していましたので。」
真人は机の上の資料を一枚めくる。
「失礼ですが、その日は本社で役員会議に出席されています。」
「……。」
「勤怠記録、入館記録、防犯カメラ、すべて確認済みです。」
部屋の空気が一気に重くなる。
男性の額から汗が一筋流れた。
「それと。」
真人はもう一枚、別の資料を差し出した。
「ホテル側へ確認したところ、この領収書番号は実在します。」
「よかった……。」
男性が安堵しかけた、その瞬間。
「ただし、宿泊されたのは別の方でした。」
「……え?」
「この領収書は、本物を流用していますね。」
男性の顔から血の気が引いた。
数秒の沈黙。
やがて力なく肩を落とす。
「……申し訳ありませんでした。」
真人は責めることも怒鳴ることもしない。
静かに書類を封筒へ戻した。
「数字は嘘をつきません。」
それが、彼の口癖だった。
「嘘をつくのは、いつも人です。」
◇ ◇ ◇
「いやぁ、本当に驚きました。」
税務署へ戻る車の中。
運転席の若い職員が苦笑する。
「私だったら絶対に見抜けません。」
助手席の真人は窓の外を眺めたまま答えた。
「見抜いたわけではありません。」
「え?」
「確認しただけです。」
若い職員は首をかしげる。
「でも、最初から怪しいって分かってましたよね?」
「違和感があっただけです。」
真人は淡々と続ける。
「帳簿も領収書も、人が作ります。」
「はい。」
「だから、どんなに隠そうとしても、その人の癖が残る。」
数字。
日付。
文字。
並び方。
すべてに理由がある。
「決めつけないことです。」
「まず確認する。」
「証拠を集める。」
「帳簿と照合する。」
「判断は、そのあとです。」
若い職員は感心したように頷いた。
「だから榊さん、調査で負けたことがないんですね。」
真人は少しだけ笑う。
「私は誰かに勝つ仕事をしているわけじゃありません。」
「正しい状態へ戻す仕事です。」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
真人は駅前の横断歩道を歩いていた。
今日は少し風が強い。
信号が青に変わる。
歩き始めた、その時だった。
キィィィィィッ!!
耳をつんざくようなブレーキ音。
悲鳴。
誰かの叫び声。
「危ない!!」
視界いっぱいに大型トラックが迫る。
衝撃。
音が消えた。
景色が白く溶けていく。
そして――。
◇ ◇ ◇
「……目を覚ましましたか。」
女性の声が聞こえた。
真人がゆっくりと瞼を開く。
見渡す限り、白。
床も。
空も。
境界すら分からない真っ白な世界。
その中央に、一人の女性が立っていた。
長い銀髪。
白い衣。
どこか人間離れした美しさを持つ女性だった。
「私は、この世界を司る女神です。」
真人は辺りを見回したあと、小さく息を吐いた。
「夢でしょうか。」
「いいえ。」
女神は静かに首を横へ振る。
「あなたは命を落としました。」
「……そうですか。」
驚きはなかった。
人の人生は、ある日突然終わる。
仕事を通して、それを何度も見てきた。
「では、ここは死後の世界ですか。」
「正確には違います。」
女神は穏やかに微笑む。
「あなたにお願いがあります。」
「お願い?」
「ある世界を救っていただきたいのです。」
真人は眉をひそめた。
「勇者として、ですか。」
「魔王軍によって世界は支配され、人類は滅亡寸前です。」
女神の表情が少しだけ曇る。
「このままでは、その世界は滅びます。」
勇者。
魔王。
異世界。
どこか現実味のない話だった。
真人は少し考え、苦笑する。
「人選を間違えていると思います。」
「私は剣も使えません。」
「魔法も知りません。」
一拍置いて、肩をすくめる。
「私にできるのは……税務調査くらいです。」
その言葉に、女神はほんの一瞬だけ目を見開いた。
しかし、すぐに穏やかな笑みに戻る。
「……そうですか。」
静かに頷く。
「では、お願いします。」
真人は思わず聞き返した。
「それだけですか?」
「普通なら『税務調査官に何ができる』と言われてもおかしくないと思いますが。」
女神は答えない。
ただ、優しく微笑むだけだった。
「あなたなら、きっと世界を救えます。」
「理由を聞いても?」
「今は、お答えできません。」
女神が両手を重ねる。
白い光が真人を包み込んだ。
次の瞬間。
視界に淡い光の文字が浮かび上がる。
【固有スキルを付与します】
【完全査定】
【世界帳簿閲覧】
【徴収】
見慣れないはずの文字列。
なのに、どこか仕事で使い慣れた言葉を見ているような、不思議な感覚があった。
「……変わった能力ですね。」
女神は何も答えない。
その微笑みだけが、なぜか真人の胸に小さな違和感を残した。
直後、足元から光が溢れ出す。
世界が白く染まり、真人の意識は静かに遠のいていった。
――熱い。
最初に感じたのは、肌を刺すような熱気だった。
真人はゆっくりと目を開く。
乾いた風が頬をなで、土埃が舞い上がる。
「ここが……異世界。」
周囲を見渡した瞬間、言葉を失った。
崩れた城壁。
焼け落ちた家々。
窓ガラスは割れ、石畳には無数の亀裂が走っている。
人通りはある。
だが、誰一人として笑っていなかった。
痩せ細った子ども。
虚ろな目で座り込む老人。
荷物を抱え、怯えるように歩く人々。
町全体が、生気を失っていた。
「……思っていた以上だな。」
その時だった。
頭の奥で、小さな音が響く。
――ピッ。
視界の隅に淡い光が浮かぶ。
【固有スキル『完全査定』が起動しました】
「……?」
真人が目を細める。
すると、崩れた井戸の上に赤い文字が浮かび上がった。
【魔力供給停止】
【原因:未納】
「未納?」
思わず足を止める。
続いて、枯れ果てた畑へ目を向ける。
【魔力循環停止】
【原因:未納】
倒壊した橋。
【維持魔力不足】
【原因:未納】
街路樹。
【生命力供給停止】
【原因:未納】
真人は眉をひそめた。
「どういうことだ……。」
魔物に壊された跡ではない。
戦争の傷跡だけでもない。
まるで、この世界そのものが何かを失い、機能しなくなっているようだった。
その時。
パンッ、と乾いた音が響く。
路地裏で、小さな男の子が転んだ。
手に持っていた黒パンが地面へ転がる。
「あっ……。」
駆け寄ろうとしたその瞬間。
一体のゴブリンが現れ、黒パンを拾い上げた。
子どもは震えながら頭を下げる。
「か、返してください……。」
ゴブリンは鼻で笑い、黒パンを片手で弄びながら言う。
「人間が食うな。」
真人は思わず拳を握る。
だが、飛び出そうとして足を止めた。
(待て。)
(状況が分からないまま動くな。)
長年の癖だった。
感情より先に、確認する。
証拠を集める。
判断はそのあと。
その時、ゴブリンへ視線を向けた瞬間だった。
【完全査定】
名前:ゴブリン兵
Lv.12
状態:正常
保有魔力:2,480
未納魔力:1,920
未納資産:魔石3個
真人は思わず息を呑む。
「未納……?」
その言葉を口にした瞬間だった。
ゴォォォォォン――。
空が震えた。
雲がゆっくりと左右へ割れていく。
町中の人々が一斉に空を見上げた。
「な、なんだ……?」
「空が……。」
巨大な光が空一面へ広がる。
それは、本だった。
果てが見えないほど巨大な、一冊の帳簿。
金色の装飾が施された表紙がゆっくりと開いていく。
誰にも見えていない。
驚いているのは真人だけだった。
「まさか……。」
ページが静かにめくられる。
そこに記されていた文字を見た瞬間、真人の表情が変わる。
そこにあったのは、勇者の能力でも、魔法の説明でもなかった。
世界そのものの監査報告だった。
真人はゆっくりと息を吐く。
「……なるほど。」
静かに呟く。
「魔王が強いから滅びるんじゃない。」
視線を上げる。
「世界そのものが、正常に循環していないのか。」
その瞬間、女神の笑顔が頭をよぎる。
「……あの女神。」
思わず苦笑した。
「説明不足にもほどがあるだろ。」
しかし、不思議と腹は立たなかった。
この世界を救えるかは分からない。
それでも。
この状況を見てしまった以上、放ってはおけない。
真人は静かに空を見上げる。
「まずは調べよう。」
「全部確認してからだ。」
「話は、それからだ。」
巨大な世界帳簿のページが、ゆっくりとめくられていく――。
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世界帳簿
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世界健全率 3%
魔力循環率 5%
世界幸福度 8%
魔王軍支配率 94%
監査済み地域 0/128
世界監査局 未設立
監査官 0名
世界監査機能 停止
未納総額 計測不能
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総合評価
『世界は崩壊寸前です。』
『世界循環システムは機能を停止しています。』
『直ちに監査を開始してください。』
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監査記録 No.0000
案件名:『世界の現状確認』
結果:監査開始
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次回『最初の監査対象』




