第一話 絶対強者の下校時刻
「じゃあな、薫」
「う、うん……また、あとでね」
名残惜しそうに、そしてどこか微熱を孕んだ瞳でこちらを見上げてくる遠野薫へ、朝比奈悟は片手をひらひらと振り返す。それだけで、薫という従順なネコは、赤くなった耳を隠すようにしてそそくさと踵を返した。
悟は、その華奢な後ろ姿を見送りながら、一人で帰路についた。
本来なら、このまま薫の細い手首を掴み、自宅まで強引に連行していくところだった。檻に閉じ込めるように、二人の時間を義務付けるのがいつもの日課だ。
だが、今日は違った。
つい、たった今まで。
人気のない薄暗い体育倉庫。跳び箱の影で、組み伏せた薫をこれでもかと無茶苦茶に可愛がってあげた。激しいお仕置きの痕跡をその白い肌にたっぷりと刻みつけ、情けない声で何度も啼かせた挙句、解放してやったのだ。
悟は思わず口元を歪め、低く笑う。
「……あれだけ可愛がってやったんだ。今日は勘弁してやらないとな」
たぶん、薫は家に着くなり、ベッドの上で顔を真っ赤にして悶絶するに違いない。そう考えるだけで、胸の奥が妙な全能感で満たされ、すこぶる機嫌が良かった。
夕暮れの公園。
オレンジ色の西日が、遊歩道に長い影を落としている。
悟は両手を制服のポケットへ突っ込みながら、鼻歌交じりに歩みを進めていた。
その時だった。
「いや……っ!」
静かな公園の空気を引き裂く、甲高い悲鳴。
「はなして……っ!」
悟の足が、ピタリと止まる。
声のした方向へ鋭く振り向いた。
公園の端、人気のない鬱蒼とした植え込みの向こう側。
複数の男たちが、一人の女子生徒を品定めするような下品な目で見下し、取り囲んでいた。
見覚えのある制服。長い黒髪。そして、端正な横顔。
「……藤崎玲奈?」
男たちは藤崎の細い腕を乱暴に掴み、そのまま薄暗い茂みの奥へと引きずり込もうとしている。藤崎は必死に抵抗していたが、相手は複数人の男だ。明らかな体格差を前に、女子の力で引き剥がせるはずがなかった。
「助け――」
藤崎の声が、途中でガチリと塞がれる。男の一人が、その口元を汚い手で押さえたのだ。
悟は無言で、その冷酷な光景を見つめた。
そして――。
何事もなかったかのように、踵を返しにかける。
「知るか」
小さく、冷たい声で吐き捨てた。
「俺の薫を泣かせた女だ」
――好きなの……朝比奈くんのこと。
薫の口から聞かされた、藤崎からの告白の言葉。
薫は笑顔で、俺と藤崎を引っ付けようとした。心で泣きながら。
思い出せば思い出すほど、胸の奥が今でも激しくざらつく。
だからどうした。
勝手に俺を好きになって、勝手に薫を泣かせて、そして今は、勝手に面倒事に巻き込まれているだけだ。
悟は再び、冷淡に歩み出そうとした。
その時だった。
不意に、あの日の薫の声が耳の奥で再生された。
『朝比奈くん、優しいから……』
自分を他人へ押し付けようとしながら、今にも泣き出しそうな歪んだ顔で笑っていた、か弱きネコの姿。
「……っ」
盛大な舌打ちが漏れた。
心底面倒臭そうに、悟はガシガシと自らの髪を掻きむしる。
もし。もしも今、ここで藤崎を見捨てたという事実を、あの生真面目な薫が知ったらどうなる。
失望される。軽蔑される。
そうなっても、薫は俺から逃げられない。恐怖と執着で、その身体はいくらでも捕まえておける。たぶん。
でも――心は?
心だけは、俺の手から永遠にすり抜けていく。
「くそ……っ」
胸の奥が、最悪な予感で不快にざわついた。
さらに追い打ちをかけるように、脳裏をよぎったのは、あの図書室の光景だ。
夕日に照らされた窓際、笑顔に満ち溢れた様子で、楽しそうに並んで勉強していた二人。
薫と藤崎玲奈。
学年主席と次席。
話も合う。頭も良い。
藤崎が泣けば、あいつは絶対放っておけない。
そして気付けば、またあの図書室みたいに二人で笑う。
そのまま――。
「は?」
悟の眉が、一瞬で凶悪に吊り上がった。
「そんなこと、許すわけねぇだろ」
想像しただけで、脳味噌が沸騰しそうなほどの激しい怒りが湧き上がってきた。胸の奥が猛烈に苛立つ。
薫は俺のものだ。俺だけを見て、俺の腕の中で泣いていればいい。他の誰かと幸せになる未来なんて、1ミリたりとも認めない。絶対にだ。
「ちっ……」
本日何度目か分からない舌打ち。
そして――次の瞬間には、悟の身体はアスファルトを強く蹴り出していた。
サッカー部仕込みの爆発的な脚力で、一気に距離を詰める。
突進してくる影に、男たちもようやく異変を察知したらしい。一人が慌てて振り返る。
「誰だてめ――」
最後まで言わせなかった。
乗せた体重のすべてを叩き込むように、悟の硬い拳が男の顔面へ容赦なくめり込んだ。
鈍い破裂音。
男の身体が、まるで紙屑のように横ざまに吹き飛んでいく。
「離せ」
低い、地を這うような声。
ドスの利いた怒気を孕んだその一言に、藤崎を掴んでいた男たちの表情が一変した。
「なんだこいつ」
「一人か?」
「調子乗ってんじゃねぇぞ、ガキが!」
悟は首を小さく鳴らした。
人数差は一目瞭然。五人、いや、倒した奴を除いて五人か。正直、まともにやり合うのは面倒極まりない。
だが。
「来いよ」
不敵に挑発する。捕食者の目をギラつかせ、逃げる素振りなど微塵も見せない。
その直後、男たちが怒号を上げながら、一斉に悟へと襲い掛かった。
◇
十分後。
「……ぐっ!」
悟は、雑草の混じる地面に片膝をついた。
頬は赤く切れ、端正な顔に血が伝う。紺色の制服も、泥と砂でボロボロに汚れていた。
相手も無傷ではない。すでに二人が地面に転がって呻いている。だが、高校生が一人で相手をするには、さすがに数が違いすぎた。
容赦なく、男の硬い靴底が悟の腹を蹴り飛ばす。
鈍い衝撃。肺の空気が、口から強制的に絞り出された。
「っは……、ぁ……!」
「まだ立つ気かよ、このガキ」
「しつけぇんだよ。おい、動けなくしとけ」
乱暴に髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
霞む視界の端では、藤崎玲奈が恐怖に顔を歪ませ、再び男たちに羽交い絞めにされていた。
「朝比奈くん……っ!」
藤崎の悲鳴が響く。
悟は口内に広がる鉄臭い血の味を、忌々しげに飲み込んだ。
まずい。さすがに、身体が動かない。これは――。
その時だった。
夕暮れの、暗くなりかけた公園の空気が、にわかに歪んだ。
次の瞬間、視界のすべてを侵食するような、不自然なほど鮮やかな「桃色の光」が周囲一帯に激しく溢れ出した。
男たちが、その異様な光景に一斉に振り返る。
「なんだ……!?」
「おい、何だあれ……!」
掴まれていた髪が離され、悟もまた、眩しさに目を細めながら顔を上げた。
きらきらと輝く粒子が舞う、光の中心。
そこには――見覚えのある、ファンシーなキーホルダーのついたスマホをぎゅっと握りしめた、誰かの人影がぽつんと立っていた。
「え……?」
呆然とした、聞き慣れた呟き。
世界で一番、聞き間違えるはずのない声。
悟の瞳が、驚愕でこれ以上ないほど大きく見開かれる。
「薫……っ!?」
その掠れた声を掻き消すように、溢れ出した桃色の光は、さらに激しく、強く、その輝きを増していった――。




