第二話 フォロー対象者
少しだけ、時間は放課後の夕暮れ時へと遡る。
遠野薫は、自分の人生の行く末について、いたって真面目に頭を抱えていた。
「はぁ……」
学生鞄を胸元に抱えながら、大きな、大きなため息を吐く。
別に、目前に迫る大学生活に向けた勉強が辛いわけではない。将来の進路に対する漠然とした不安でもなかった。彼が直面しているのは、それらよりも遥かに深刻で、理不尽極まりないプライベートの問題だった。
「体育倉庫でなんて……」
ぽつりと、誰もいない道端で漏れた自分の言葉に、たちまち顔が火を噴いたように熱くなる。
――放課後。人気のない、埃っぽい薄暗い体育倉庫。
跳び箱の影に押し込まれ、悟の強靭な腕の檻に囚われていた時のことを思い出し、薫は慌ててぶんぶんと首を振った。
「だ、だめだめだめ……っ!」
思い出しただけで、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほど跳ね上がる。
最近の朝比奈悟は、本当に容赦というものを知らない。
学校の死角でも。
放課後の帰り道でも。
あるいは休日であっても。
隙さえあれば、まるでお気に入りの玩具を見つけた猛獣のように薫を確実に捕獲して、自分の歪んだ独占欲のペースへと有無を言わさず巻き込んでいく。
しかも最近は、そのお仕置きの度合いが、日に日にエスカレートしている気がしてならなかった。情けない声を絞り出されるまで啼かされるのが当たり前になりつつある。
「もう少し、その……普通のお付き合いってないのかな……」
――ない。
考えるまでもなく、即座に結論は出た。
あの傲慢な絶対強者の頭の中に、そんな甘酸っぱくて平和な概念が存在していないことなど、薫は誰よりも、それこそ身をもってよく知っていた。
「はぁ……」
本日二度目となる、諦めを孕んだため息。
その時だった。
――ブルルッ、ブルルッ。
制服のポケットの中で、スマートフォンがけたたましく震えた。
「ん?」
不思議に思いながら取り出したスマホの画面には、見慣れた、しかし見るだけで胃が痛くなるピンク色のアイコンがこれ見よがしに輝いていた。
謎のアプリ――『Magical Transfer』。
薫の整った表情が一瞬で引きつる。
「また……?」
嫌な予感しかしないまま、恐る恐る通知のポップアップを開いた。
【Magical Transfer】
朝比奈悟(特別な存在❤)に関する通知があります。
「だから、それやめて……っ!? 『特別な存在』もだけど、特におまけのハートマーク!!」
思わず、人気のない夕暮れの歩道で思いきり叫んでしまっていた。
ハッと我に返り、大慌てで周囲を見回す。幸いなことに、通り過ぎる通行人は誰もいない。だが、薫の心臓は別の意味で盛大な悲鳴を上げていた。
特別な存在。
百歩譲って、そこまではまだいい。いや、本当は全然良くないけれど、現実の関係性を考えれば受け入れるしかない。
問題は、そのすぐ後ろにくっついている、やたらと自己主張の激しい「桃色のハートマーク」だった。
なぜ桃色なのか。なぜ毎回、こんなにもおふざけが過ぎる通知を送ってくるのか。なぜこのアプリは、人のデリケートな羞恥心をこうも的確にフルスイングで攻撃してくるのか。
開発者がいるなら今すぐここに連れてきてほしい。そして、三時間くらい正座させた上で問い詰めたい。
「もう……」
耳まで真っ赤になった頬を両手で押さえ、逃げるようにスマホを閉じようとした、まさにその瞬間だった。
チカチカと、画面全体が毒々しい警告色の赤へと急変する。
薫の華奢な身体が、びくりと大きく跳ねた。
【Magical Transfer】
警告:フォロー対象者が危険な状態です
「え……?」
一瞬で思考がホワイトアウトした。
フォロー対象者。危険な状態。
数秒のタイムラグを経て、その無機質な文字列が意味する真実が、頭に突き刺さる。
そして。
「悟くん……!?」
サーッと全身の血の気が引いていくのが分かった。胸の奥が、嫌な音を立てて凍りつく。
交通事故。不良との喧嘩。最悪の事件。
ありとあらゆる恐ろしい想像が、一瞬にして脳裏を濁流のように駆け抜けた。いつも絶対的な強者として自分を支配しているあの悟が、危険な状態にある?
「嘘、どうしよう……っ」
震える指先で、なんとか状況を把握しようと画面を操作する。
だが、その理不尽なアプリは、持ち主である薫の意思などこれっぽっちも尊重しなかった。
【Magical Transfer】
緊急対応を開始します。
転移を実行します。
「え? 転移って……」
【Magical Transfer】
対象:朝比奈悟(特別な存在❤)
「え?」
【3】
「ちょ、待っ――」
【2】
「ま、待って、転移って何!?」
【1】
「説明が先じゃないかなぁぁぁ!?」
抵抗を許さぬカウントダウンの終了と同時に、画面から溢れ出した眩い桃色の光が、夕暮れの穏やかな歩道を一瞬で呑み込んだ。
薫の身体が重力を失い、ふわりと宙に浮き上がる。
目の前の景色がぐにゃりと歪み、足元の感覚が完全に消失する。世界が猛烈な速度で回転していく。
「いやぁぁぁ……っ!」
もはや悲鳴を上げる暇さえ与えられなかった。
視界のすべてを埋め尽くす、きらきらとした桃色の光粒子。
そして、遠野薫の姿は、夕暮れの住宅街から跡形もなく、瞬時に消え去った。
◇
次の瞬間。
公園の片隅、鬱蒼とした茂みの空気が、爆発するかのように激しく揺らいだ。
渦巻く桃色の光が周囲に弾け飛び、その光の中心に、一人の少年の姿が突如として実体化する。
「え……?」
あまりの理不尽な事態に、呆然とした声が薫の口から漏れた。
そして、その直後。
世界で一番、聞き間違えるはずのない、掠れた声が響き渡る。
「薫……っ!?」
驚愕に満ちたその叫び声の主を、しかし、薫には確認する余裕すら与えられなかった。
状況が全く飲み込めない。ただ、見たこともない鬱蒼とした茂みと、自分たちを囲む下品なニヤつきを浮かべた見知らぬ男たち。そして何より――地面に片膝をつき、制服を泥で汚しながら血を流している悟の姿。
それらの異様な光景が、一気に薫の視界へと飛び込んできた。
「さ、悟くん!?」
「薫?! 何でここに? じゃなくて、逃げろ!」
叫ぶ悟。だが、逃げる間など一瞬たりともなかった。
「遠野くん、うしろ!」
声のする方に振り向く。
「え?! 藤崎さん?!……あぁ…っ!」
背後から伸びてきた男の太い腕が、薫の華奢な身体を容赦なく羽交い絞めにする。骨の細い肩が軋み、身動きが完全に封じられた。
その瞬間、薫の危機に反応するように、手の中のスマホが強烈な熱を帯びて真っ赤に明滅を始める。
【Magical Transfer】
警告:ユーザーの拘束を感知しました
安全確保のため『Magical Transfer』を緊急起動します




