最終話 特別な存在
「逃げるなよ。……逃がさねぇけどな」
想いが通じたはずなのに。
嬉しいはずなのに。
どうしてこんなにも、胸が熱くて苦しいのだろう。
『親しい友人』から『特別な存在❤』へ。
そして二人は、少しずつ引き返せない場所へと歩き始めます。
そんなお話です。
(な…に……?)
両手が動かせない。
手首をベッドのマットレスへと縫い付けている、悟の大きな手のひらのせいで。
声を出せない。
唇を、狂おしいほどの熱量で塞いでいる、悟の――唇のせいで。
肺の中の空気が、すべて強引に吸い出されていくような感覚だった。
あまりの衝撃に身体が完全に硬直する。頭の芯が真っ白になり、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。
夕闇の密室に、衣擦れの音と、逃げ場のない熱だけが満ちていく。
どれほど長く、そうされていたのだろう。
やがて、吸い付くような音を立てて、ようやく重なっていた唇が離れた。
「……っ、は、ぁ……」
新鮮な空気を求めて、薫の肺が大きく膨らむ。
視界が涙で歪む中、至近距離で悟の切れ長の瞳と視線がぶつかった。そこに宿る、獰猛なまでの光に射抜かれ、薫の思考は完全に停止する。
「……どう……して?」
問いかける薫の瞳を真っ直ぐに見つめ、悟は荒い息を噛み殺しながら、低く獰猛な声で呟いた。
「知らねぇよ……」
あまりの眼差しの強さに耐えかねて、薫が顔を背けようとする。
「ん…っ」
だが、逃げるよりも早く、空いた悟の手が薫の顎を強引に掴み、正面を向かせた。
「あれ以上、聞きたくなかった。だから、塞いだ」
「へ……?」
「俺は誰のものにもならない。俺を他人に押し付けるな」
「朝比奈……くん……?」
薫が呆然と名前を呼ぶと、悟はさらに不満そうに眉間を深く寄せて、吐き捨てるように言葉を重ねた。
「ふざけんな。誰が、他の女で幸せになりたいなんて言ったよ」
「え……?」
「勝手に決めんな。俺のことも、お前のことも」
「……」
「逃げるなよ。……逃がさねぇけどな。覚悟しろ」
理解できない。
何一つ、悟の言っていることの論理が頭に届かない。
それなのに、どうしてだろう。
心の奥のいちばん深い場所が、どうしようもなく歓喜に震えていた。
その瞬間、ずっと頑なに押し殺していた涙が、とうとう堰を切ったように溢れ出した。
「ひ…っぐ。い……今まで、どおり?……うぇ、朝比奈くんと、また、普通に……っ」
「それは、無理だ」
「え……?」
涙で顔をくしゃくしゃにする薫を見下ろし、悟は薫の手首を掴む手に、さらにじわりと力を込めた。
「泣くなよ。今までどおりじゃねぇ。……今まで以上だ」
「え……?」
「遠い名で呼ぶな。これからは『悟』だ。わかったな、『薫』?」
「ふぇ……さ、悟…くん……んぅ…っ!?」
これ以上の会話を拒絶するように、再び、上から暴力的なほどの熱い唇が降ってきた……。
何度目かの唇の雨が止んだ後。
気がつけば、窓の外に夕暮れが滲んでいた。
「あの、悟くん……そろそろ、帰らないと……」
「家に電話しろよ」
「え?」
まだ息を乱している悟が、当然のように言い放った。
「筋肉馬鹿と徹夜で勉強会する、ってよ」
「ええ!?」
戸惑う薫の手に、悟は枕元に転がっていたスマホを無理やり握らせる。
逆らえるはずもなかった。薫は震える指先で自宅に発信した。
電話の向こうに向けて「友達の家で勉強して泊まる」という大きな嘘を吐いた。
通話を切り、液晶の光が消えた画面を見つめて、薫はぽつりと呟く。
「初めて、親にウソついたかも……」
「嘘じゃねぇよ」
背後から、悟の大きな腕が回ってきた。引き寄せられ、背中に驚くほどの体温が密着する。
「机に向かってするのだけが、勉強じゃないぜ?」
「あぁ…っ!」
からかうような低い囁きと共に、再び視界がぐらりと揺れた。
ギチリ、とベッドのバネが重たい音を立てて密室に響き渡る。
その音に重なるように、薫のスマホがポケットの中で静かに震え、無機質な通知音を鳴らした。
【Magical Transfer】
友達ランクが上がりました。
朝比奈悟:クラスメイト ➔ 親しい友人
「え……?」
「なに他所見してんだよ」
一瞬だけ見えた画面の文字列に薫は目を丸くしたが、すぐに、視界はスマホの画面から、覆いかぶさってくる悟の顔へと強制的に切り替えられた。
薫にその通知の奇妙な内容を確認するだけの猶予は、その夜には一秒たりとも与えられなかった……。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ました薫は、視界に飛び込んできた「いつもと違う天井」に、数秒間フリーズした。
ゆっくりと横を向く。そこには、まだ静かな寝息を立てて眠っている悟の横顔があった。
その瞬間、昨夜の記憶の断片が頭の中に一気にフラッシュバックする。
「ひぃ…っ!」
薫は悲鳴を上げて跳ね起きた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光の熱と冷たい空気が、全身の肌に直接触れる。
「はわわっ!?」
慌てて毛布を頭から引っ被った。
心臓が朝から壊れそうなほど暴れ回っている。
チリン、と手元でスマホが鳴った。
心臓をビクリと震わせながら、恐る恐る液晶画面を覗き込む。そこには、昨日見た怪しげな魔法少女アプリの画面が、淡々とピンク色の通知を表示していた。
【Magical Transfer】
友達ランクが上がりました。
朝比奈悟:親しい友人 ➔ 特別な存在❤
おめでとうございます❤
フォローを開始します。
対象者が危険な状態になった際に通知されます。
「な、なにこれ……? フォローって……? いや、この『❤』ってぇ…っ!?」
あまりの恥ずかしさと混乱に、慌ててスマホをベッドの上に伏せる。
『特別な存在』。
その破壊的な文字列だけでも致命傷なのに、その後ろで無邪気に主張している桃色のハートマークが、追い打ちをかけるように薫の精神を蹂躙してくる。
「朝からうるせぇな……」
すぐ隣から、低く掠れた、起きたばかりの男の声が聞こえた。
びくり、と薫の華奢な肩が大きく跳ねる。
毛布から這い出て振り向けば、寝癖だらけの髪を掻きむしりながら、悟がゆっくりと上半身を起こすところだった。
「お、おはよう、悟くん……」
「おう」
悟は大きな欠伸を一つすると、まるでそれが何年も前からの習慣であるかのように、当たり前の動作でベッドの上を這い、薫のすぐ隣へと移動してきた。
近い。朝の光の中で見る彼は、夜よりもさらに体格の差が際立って見えて、あまりの近さに薫は反射的に後退ろうとした。
だが。
「あ」
逃げるより先に、長い腕が伸びてきて、薫の手首をがっちりと掴まれた。
そのまま、抵抗する間もなく、軽い力で悟の胸元へと引き寄せられる。
「逃げんな」
「に、逃げてないよ……っ!?」
「逃げてる」
即答だった。
悟は不満そうに、鋭い眉を中央に寄せる。掴んだ手首を離す気配は微塵もない。
「今日は土曜だ」
薫はパチパチと目を瞬かせた。
「昼、食ってけよ」
「え? でも……」
「帰っても、どうせ暇だろ」
「ひ、暇じゃないよ。やること、あるし……」
「何すんの?」
「えっと……それは……」
言葉に詰まる。参考書を開いても、もう昨夜の熱が邪魔をして勉強なんて手につかないことくらい、自分でも分かっていた。
答えられない薫を見て、悟が勝ち誇ったように、ニッと口の端を吊り上げて笑った。
「ほらな」
どこまでも理不尽だった。傲慢で、高圧的で。
なのに。どうしてこんなに、胸の奥がじんわりと温かくなってしまうのだろう。
昨日の放課後の自分なら。
今頃はもう、この恋に綺麗な蓋をして、一人で泣きながら終わりを迎えていたはずだった。
叶わない片想い。男である自分という絶望。
そうやって一人で抱え込もうとしたはずの重い蓋を悟は、なんの遠慮もなく足蹴にして吹き飛ばしてしまったのだ。
◇
結局、昼食までご馳走になった。
帰る頃には、窓の外は茜色に染まり始めていた。
玄関先。
「じゃあ……帰るね」
靴を履きながら告げる。
「薫」
低く、けれど酷く甘い響きで名前を呼ばれると同時に、手首へ彼の指が絡んだ。
まるで枷のように。
薫は弾かれたように顔を上げた。
「ちゃんと連絡しろよ」
「え?」
「帰ったら、着いたって連絡」
「……?」
「心配だから」
「でも……」
「俺がしろって言ってんだから、しろ」
当然の義務のように、悟は言い切る。
(あぁ……もう、逃げられない……)
手首を掴む彼の体温を通じて、身体の芯が、ドロドロとした甘い熱で満たされていく。
「……また、明日ね」
気付けば、拒絶ではなく、そんな言葉が自らの口から零れ落ちていた。
それを聞いた悟は、一瞬だけ驚いたように目を丸くしたあと、凶悪なほどに嬉しそうに、クシャリと顔を綻ばせた。
「当たり前。明日は日曜日だ」
悟は当然のように続けた。
「昼には来い。学校じゃなくて、ここな。間違えんなよ」
その返事を聞きながら、薫は小さく目を伏せる。
逃げ出したい。恥ずかしい。消えてしまいたい。
それなのに。
明日もまたこの強引な太陽に振り回されることが、どうしようもなく嬉しくて、たまらなかった。
◇
その日以降の悟は容赦がなかった。
遠慮もなかった。
学校でもプライベートでも。
昼の学校では、執拗なまでに絡まれた。
休み時間になれば、周りの目も気にせず当然のように薫の席の隣に居座る。
放課後になれば、校門の前で待ち伏せされ、一緒に帰るのが当たり前になった。そして気付けば、自分の家より先に悟の家へ向かうのが日課になっていた。
家に帰れば帰ったで、即座に連絡することを要求される。
「既読ついてから五分経ってんだけど」
「なんで速攻で返事しねぇんだよ」
挙句の果てには、そんな執拗極まりない追及のメッセージがスマホに届くようになった。
「危ないから」
「俺が心配だから」
その、有無を言わせぬ「配慮」という名の支配を突きつけられるたびに、薫は、何も言い返せなくなってしまうのだった。
そして、夜はもっと酷かった。
「今日、他の奴と楽しそうに話してただろ。お仕置き」
「さっき欠伸した。俺といるのに眠いのか? お仕置き」
「今、一瞬目が合った。お仕置き」
理由は毎回滅茶苦茶で、というよりも、たぶん最初から理由など存在していなかった。
「テストで100点取った? ……生意気。お仕置き」
……これは、たぶん本気だった。
理不尽だ。
理不尽なのに。
どうしても彼の腕から逃げることはできなかった。
昼は学校で悟のペースに振り回される。
夜は彼の自室で、もっと別の、抗えない暴力的な甘さに振り回される。
最近の薫は、慢性的な寝不足に陥っていた。
身体は限界だった。
体力は、とっくに空っぽだった。
けれど。
それとは裏腹に、胸の奥だけは、どうしようもないほど満たされていた。
(もし、悟くんが居なくなったら……)
それは、彼に片想いをしていた頃から、ずっと薫の胸にこびりついていた根源的な恐怖だった。
だが、今の恐怖は、あの頃とは比べ物にならないほど深く、黒く、鋭い。
想像しただけで、五臓六腑が凍りつくように冷えていく。
もし、この理不尽な連絡が来なくなったら。
名前を呼ばれなくなったら。
毎日のようにその大きな身体で抱きすくめられ、隣に居られなくなったら。
(きっと、僕は――壊れてしまう)
そう、確信できるほどに。
守られ、攻められ、お仕置きされっぱなしのこの檻から、薫はもう自力で抜け出す意思を失っていた。
二人は、まだ気付いていない。
自分たちが紡いできた歪な歩幅が、もう引き返せない場所まで来てしまっていることに。
――第零章 絶対強者の余裕 完




