表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

第五話 うそつきの笑顔と終着点

「朝比奈くんが幸せなら、それでいい」


そう決めたはずだった。


学年次席・藤崎玲奈から託された恋心。


悟のため。

藤崎のため。

そして、自分のために。


薫は、自分の想いごと胸の奥へ押し込めて、悟の家を訪れる。


けれど――。


「なんでそんな顔しながら、そんなこと言うんだよ……」


優しい嘘と、気付かない想い。


そして、限界を迎えた太陽は、とうとう理性を手放した。


今回。たぶん、一番壊れたのは悟です。


放課後。


朝比奈悟の家へ向かう道中、薫の心臓はずっと、病気のように不規則な脈を打ち続けていた。

ローファーがアスファルトを叩く乾いた音が、やけに鼓膜に響く。

学生鞄の持ち手を握りしめる指先は冷え切り、じっとりと嫌な汗を汗をかいていた。


(朝比奈くんが幸せなら、それでいい)


昨日の夜、暗闇の中で、擦り切れるまで自分に言い聞かせたはずの決意。

それが胸の奥で、鋭いトゲのように何度も何度も突き刺さる。

言葉にするたび、納得しようとするたび、喉の奥に苦い血の味が広がるような気がした。


見慣れた住宅街の一角。

夕日に照らされた一軒家の前で、前を歩いていた大きな背中が、ふと足を止めた。


「入れよ」


鍵を開けながら、悟が振り返りもせずに言う。その当たり前のような響きに、薫は胸を突かれながら、小さく頷くことしかできなかった。


「う、うん……。お邪魔します」


玄関をくぐり、靴を脱ぎ、悟のあとに続いて階段を上る。

何度もクラスメイトたちが集まる場所として話には聞いていた、悟の部屋。

ただそれだけのことなのに、緊張のせいで足元がひどくおぼつかない。自分の膝が、まるで他人のもののように頼りなく震えていた。


「どうぞ」


軽い口調とともに、悟の部屋の扉が開かれる。

薫は息を詰め、恐る恐るその空間へ足を踏み入れた。


「……」


そこは、薫が毎日を過ごす自室とは、まるで違う世界だった。


壁には海外の有名サッカー選手のポスター。

棚には、これまで彼が勝ち取ってきたのであろう、大小様々なトロフィーやメダルが夕日を反射して鈍く光っている。

部屋の隅には使い込まれたサッカーボール。

床にはスポーツ雑誌が乱雑に積み上がり、脱ぎっぱなしのジャージが無造作に放り出されていた。

ごみ箱からは丸められた紙くずが溢れ、机の上も決して整理整頓されているとは言えない。


参考書ばかりが寸分の狂いもなく整然と並ぶ、自分の無機質な部屋とは正反対の、あまりにも「男の子」らしい乱雑さ。


それなのに。不思議と嫌悪感は微塵も湧かなかった。

むしろ、部屋の空気に混ざる、悟の体温や、愛用している柔軟剤の少し甘い香りが、たまらなく愛おしく思えてしまう。


「ちらかってるだろ」

「う……うん。でも、好き……あっ」


口をついて出た言葉に、薫はハッとして慌てて両手で口元を押さえた。

だが、時すでに遅く、悟が怪訝そうに片方の眉をひそめる。


「馬鹿にしてる?」

「ち、違う! 本当に違うから……っ」


慌ててぶんぶんと首を振る薫を見て、悟は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。けれど、すぐに諦めたように溜息をつき、部屋を見回す。ローテーブルの周囲にも、ゲームのコントローラーやプロテインのシェイカーが散乱していた。


「……ここでいいか?」


悟はベッドの上に転がっていた服を適当に端へ押しやると、マットレスの上にどさりと腰を下ろした。

そして、自分のすぐ隣のスペースを、大きな手のひらでぽんぽんと叩く。


「座って」

「うん……ありがとう」


促されるまま、薫は悟の隣へ腰掛けた。


(近い……。近すぎる……)


肩が触れ合いそうなほどの物理的な距離。

マットレスを伝って、悟のずっしりとした体重と、男子高校生特有の強い熱が、薫の肌へとダイレクトに伝わってくる。緊張で、息の仕方を忘れてしまいそうだった。


悟は何でもない顔で、大きな身体をこちらへと向けた。


「で、話って?」

「あの……」


いざ対峙すると、言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。

口の中が砂を噛んだように乾き、視線が泳ぐ。そんな薫の様子を見て、悟が少しだけ身を乗り出してきた。


「なぁんだよ?」


覗き込んでくる、少しからかうような、けれどどこか甘えたような優しい声音。

顔が、本当に近い。悟の切れ長の瞳に、動揺する自分の姿がありありと映り込んでいるのが分かって、薫は耐えきれずにパッと目を逸らした。膝の上で、制服のズボンをぎゅっと掴む。


「藤崎さんのこと……なんだけど」


その名前を口にした瞬間。


悟の眉間に、ピキリと不機嫌な皺が寄った。

昨日の放課後。図書室の窓際で、夕日に染まりながら親しげに笑い合っていた二人。自分の胸の奥を激しくざらつかせた、あの忌々しい光景が悟の脳裏を一瞬でよぎる。


悟は無意識に視線を落とし、低く、探るような声を出した。


「好き……なのか?」

「ちが…っ!」


即答だった。


その瞬間、悟の肩から目に見えてフッと力が抜ける。不機嫌そうだった双眸に、あからさまな安堵の色が浮かんだ。


「じゃあ、なんだ?」


今度は不思議そうに、首を傾げる。


薫は膝の上で、指を痛いくらいに複雑に絡め合わせた。

怖い。この先を、自分の手で紡がなければいけないことが。この関係を、自分から終わらせなければいけないことが。


「好き……なん……だって……」


途切れ途切れに、消え入りそうな声で呟く。


「は? そっち……?」


悟が再び眉をひそめた。

短い、けれど重苦しい沈黙が部屋を支配する。

悟の、膝の上に置かれた拳が、少しだけ強く握りしめられるのを、薫は視界の端で捉えていた。


「遠野を……か……」

「ちが…っ!」

「は? じゃあなんなんだよ」


悟は困ったように、けれどまだどこか余裕を残した風に笑った。


「朝比奈くんのことが……好き……なんだって!」

「は? そっち……?!」


挿絵(By みてみん)


今度こそ、悟の表情が完全に凍りついた。

見開かれた瞳。言葉を失った唇。


薫は深く、胸が張り裂けんばかりに大きく息を吸った。

途中で止めてしまったら、二度と最後まで言えなくなる。そんな恐怖が、薫の背中を無理やり押し出す。

ただ前だけを見て言葉を捲し立てる。


「朝比奈くんのことが好きで、だから、協力してって言われたの」

(ショックだった。本当は。世界がひっくり返るくらい、すごく。だけど……)


「学校で一番のスポーツ万能で、かっこいい朝比奈くん」

(本当に、誰よりもかっこよくて、眩しくて……)


「女子で成績トップの、綺麗な藤崎さん」

(ずっと、成績を競い合ってきた、素敵な相手)


「二人なら、本当にお似合いだって思った」

(僕なんかより、男の僕なんかより、ずっとずっと……)


薫は笑った。

顔の筋肉が引きつりそうになるのを必死に抑え込み、これ以上ないほどの、完璧な笑顔を張り付ける。


「朝比奈くん、いつも面倒見がいいし、すごく頼りになるし」

(あの雨の日。黒い傘。あの時に感じた温かさ。僕、本当に、死ぬほど嬉しかった……)


「二人なら、学校のみんなが祝福してくれると思うよ!」

(うん、僕も……きっと!)


言い切った。

笑顔で。心の中でこれが最後と泣きながら。

恋の仲介人としての役割を完璧に演じて。


静まり返る部屋。

返事は、ない。

夕闇が迫る部屋のどこかで、時計の秒針だけが、チク、タクと、残酷に時を刻む音を小さく立てていた。


「朝比奈……くん?」


あまりの無反応さに不安を覚え、薫は恐る恐る悟の方を向く。

そして、その表情のまま、身体が固まった。


「え……?」


悟は、微動だにしなかった。

焦点の定まらない瞳が、ただ空間の一点を見つめている。時間がそこだけ完全にストップしてしまったかのような、見たこともない空白の顔。


怒っているのか。悲しんでいるのか。それすらも読み取れない。


やがて。

地を這うような、ひどく掠れた声が、悟の唇からポツリと落ちた。


「なんで……」

「え?」

「なんで、笑ってんだよ」


「……あ」


薫は、言葉に詰まった。


悟がゆっくりと顔を上げ、その切れ長の瞳で、薫を射抜くように見つめる。


「なんでそんな顔しながら……そんなこと、俺に言うんだよ……っ」


その声は、微かに、けれど確実に震えていた。悟の見たこともない脆い拒絶。


薫は耐えかねて目を逸らした。視線が、フローリングの床へと落ちる。


「だ、だって……」


喉の奥が引きつるのを、必死に抑え込む。


「二人が幸せになるところ、近くで見たいかなって思って……。朝比奈くん、優しいから……」


胸が痛い。狂いそうなくらいに苦しい。今すぐここから逃げ出して、また部屋で一人で泣き叫びたい。

けれど、これが「男」である自分にできる、唯一の、最後の役割。


「だから、僕なんかに構ってないで……藤崎さんと――」

「黙れ!」

「……んぅっ!?」


鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声と同時に、視界が激しく揺れた。

ドサリと、背中にベッドのマットレスの柔らかい衝撃が加わり、世界の天地が完全に反転する。


挿絵(By みてみん)


何が起きたのか、一瞬理解できなかった。


ただ、ギチリと軋んだベッドのバネの音。

両手首をベッドに縫い付けるように押さえつけている、悟の強靭な手のひらの硬さ。


そして、言葉を遮るように強引に押し付けられた、自分のものではない唇の熱。


それらだけが、夕闇の密室の中で、どうしようもないほど鮮烈に、薫の五感を支配していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ