第五話 うそつきの笑顔と終着点
「朝比奈くんが幸せなら、それでいい」
そう決めたはずだった。
学年次席・藤崎玲奈から託された恋心。
悟のため。
藤崎のため。
そして、自分のために。
薫は、自分の想いごと胸の奥へ押し込めて、悟の家を訪れる。
けれど――。
「なんでそんな顔しながら、そんなこと言うんだよ……」
優しい嘘と、気付かない想い。
そして、限界を迎えた太陽は、とうとう理性を手放した。
今回。たぶん、一番壊れたのは悟です。
放課後。
朝比奈悟の家へ向かう道中、薫の心臓はずっと、病気のように不規則な脈を打ち続けていた。
ローファーがアスファルトを叩く乾いた音が、やけに鼓膜に響く。
学生鞄の持ち手を握りしめる指先は冷え切り、じっとりと嫌な汗を汗をかいていた。
(朝比奈くんが幸せなら、それでいい)
昨日の夜、暗闇の中で、擦り切れるまで自分に言い聞かせたはずの決意。
それが胸の奥で、鋭いトゲのように何度も何度も突き刺さる。
言葉にするたび、納得しようとするたび、喉の奥に苦い血の味が広がるような気がした。
見慣れた住宅街の一角。
夕日に照らされた一軒家の前で、前を歩いていた大きな背中が、ふと足を止めた。
「入れよ」
鍵を開けながら、悟が振り返りもせずに言う。その当たり前のような響きに、薫は胸を突かれながら、小さく頷くことしかできなかった。
「う、うん……。お邪魔します」
玄関をくぐり、靴を脱ぎ、悟のあとに続いて階段を上る。
何度もクラスメイトたちが集まる場所として話には聞いていた、悟の部屋。
ただそれだけのことなのに、緊張のせいで足元がひどくおぼつかない。自分の膝が、まるで他人のもののように頼りなく震えていた。
「どうぞ」
軽い口調とともに、悟の部屋の扉が開かれる。
薫は息を詰め、恐る恐るその空間へ足を踏み入れた。
「……」
そこは、薫が毎日を過ごす自室とは、まるで違う世界だった。
壁には海外の有名サッカー選手のポスター。
棚には、これまで彼が勝ち取ってきたのであろう、大小様々なトロフィーやメダルが夕日を反射して鈍く光っている。
部屋の隅には使い込まれたサッカーボール。
床にはスポーツ雑誌が乱雑に積み上がり、脱ぎっぱなしのジャージが無造作に放り出されていた。
ごみ箱からは丸められた紙くずが溢れ、机の上も決して整理整頓されているとは言えない。
参考書ばかりが寸分の狂いもなく整然と並ぶ、自分の無機質な部屋とは正反対の、あまりにも「男の子」らしい乱雑さ。
それなのに。不思議と嫌悪感は微塵も湧かなかった。
むしろ、部屋の空気に混ざる、悟の体温や、愛用している柔軟剤の少し甘い香りが、たまらなく愛おしく思えてしまう。
「ちらかってるだろ」
「う……うん。でも、好き……あっ」
口をついて出た言葉に、薫はハッとして慌てて両手で口元を押さえた。
だが、時すでに遅く、悟が怪訝そうに片方の眉をひそめる。
「馬鹿にしてる?」
「ち、違う! 本当に違うから……っ」
慌ててぶんぶんと首を振る薫を見て、悟は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。けれど、すぐに諦めたように溜息をつき、部屋を見回す。ローテーブルの周囲にも、ゲームのコントローラーやプロテインのシェイカーが散乱していた。
「……ここでいいか?」
悟はベッドの上に転がっていた服を適当に端へ押しやると、マットレスの上にどさりと腰を下ろした。
そして、自分のすぐ隣のスペースを、大きな手のひらでぽんぽんと叩く。
「座って」
「うん……ありがとう」
促されるまま、薫は悟の隣へ腰掛けた。
(近い……。近すぎる……)
肩が触れ合いそうなほどの物理的な距離。
マットレスを伝って、悟のずっしりとした体重と、男子高校生特有の強い熱が、薫の肌へとダイレクトに伝わってくる。緊張で、息の仕方を忘れてしまいそうだった。
悟は何でもない顔で、大きな身体をこちらへと向けた。
「で、話って?」
「あの……」
いざ対峙すると、言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。
口の中が砂を噛んだように乾き、視線が泳ぐ。そんな薫の様子を見て、悟が少しだけ身を乗り出してきた。
「なぁんだよ?」
覗き込んでくる、少しからかうような、けれどどこか甘えたような優しい声音。
顔が、本当に近い。悟の切れ長の瞳に、動揺する自分の姿がありありと映り込んでいるのが分かって、薫は耐えきれずにパッと目を逸らした。膝の上で、制服のズボンをぎゅっと掴む。
「藤崎さんのこと……なんだけど」
その名前を口にした瞬間。
悟の眉間に、ピキリと不機嫌な皺が寄った。
昨日の放課後。図書室の窓際で、夕日に染まりながら親しげに笑い合っていた二人。自分の胸の奥を激しくざらつかせた、あの忌々しい光景が悟の脳裏を一瞬でよぎる。
悟は無意識に視線を落とし、低く、探るような声を出した。
「好き……なのか?」
「ちが…っ!」
即答だった。
その瞬間、悟の肩から目に見えてフッと力が抜ける。不機嫌そうだった双眸に、あからさまな安堵の色が浮かんだ。
「じゃあ、なんだ?」
今度は不思議そうに、首を傾げる。
薫は膝の上で、指を痛いくらいに複雑に絡め合わせた。
怖い。この先を、自分の手で紡がなければいけないことが。この関係を、自分から終わらせなければいけないことが。
「好き……なん……だって……」
途切れ途切れに、消え入りそうな声で呟く。
「は? そっち……?」
悟が再び眉をひそめた。
短い、けれど重苦しい沈黙が部屋を支配する。
悟の、膝の上に置かれた拳が、少しだけ強く握りしめられるのを、薫は視界の端で捉えていた。
「遠野を……か……」
「ちが…っ!」
「は? じゃあなんなんだよ」
悟は困ったように、けれどまだどこか余裕を残した風に笑った。
「朝比奈くんのことが……好き……なんだって!」
「は? そっち……?!」
今度こそ、悟の表情が完全に凍りついた。
見開かれた瞳。言葉を失った唇。
薫は深く、胸が張り裂けんばかりに大きく息を吸った。
途中で止めてしまったら、二度と最後まで言えなくなる。そんな恐怖が、薫の背中を無理やり押し出す。
ただ前だけを見て言葉を捲し立てる。
「朝比奈くんのことが好きで、だから、協力してって言われたの」
(ショックだった。本当は。世界がひっくり返るくらい、すごく。だけど……)
「学校で一番のスポーツ万能で、かっこいい朝比奈くん」
(本当に、誰よりもかっこよくて、眩しくて……)
「女子で成績トップの、綺麗な藤崎さん」
(ずっと、成績を競い合ってきた、素敵な相手)
「二人なら、本当にお似合いだって思った」
(僕なんかより、男の僕なんかより、ずっとずっと……)
薫は笑った。
顔の筋肉が引きつりそうになるのを必死に抑え込み、これ以上ないほどの、完璧な笑顔を張り付ける。
「朝比奈くん、いつも面倒見がいいし、すごく頼りになるし」
(あの雨の日。黒い傘。あの時に感じた温かさ。僕、本当に、死ぬほど嬉しかった……)
「二人なら、学校のみんなが祝福してくれると思うよ!」
(うん、僕も……きっと!)
言い切った。
笑顔で。心の中でこれが最後と泣きながら。
恋の仲介人としての役割を完璧に演じて。
静まり返る部屋。
返事は、ない。
夕闇が迫る部屋のどこかで、時計の秒針だけが、チク、タクと、残酷に時を刻む音を小さく立てていた。
「朝比奈……くん?」
あまりの無反応さに不安を覚え、薫は恐る恐る悟の方を向く。
そして、その表情のまま、身体が固まった。
「え……?」
悟は、微動だにしなかった。
焦点の定まらない瞳が、ただ空間の一点を見つめている。時間がそこだけ完全にストップしてしまったかのような、見たこともない空白の顔。
怒っているのか。悲しんでいるのか。それすらも読み取れない。
やがて。
地を這うような、ひどく掠れた声が、悟の唇からポツリと落ちた。
「なんで……」
「え?」
「なんで、笑ってんだよ」
「……あ」
薫は、言葉に詰まった。
悟がゆっくりと顔を上げ、その切れ長の瞳で、薫を射抜くように見つめる。
「なんでそんな顔しながら……そんなこと、俺に言うんだよ……っ」
その声は、微かに、けれど確実に震えていた。悟の見たこともない脆い拒絶。
薫は耐えかねて目を逸らした。視線が、フローリングの床へと落ちる。
「だ、だって……」
喉の奥が引きつるのを、必死に抑え込む。
「二人が幸せになるところ、近くで見たいかなって思って……。朝比奈くん、優しいから……」
胸が痛い。狂いそうなくらいに苦しい。今すぐここから逃げ出して、また部屋で一人で泣き叫びたい。
けれど、これが「男」である自分にできる、唯一の、最後の役割。
「だから、僕なんかに構ってないで……藤崎さんと――」
「黙れ!」
「……んぅっ!?」
鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声と同時に、視界が激しく揺れた。
ドサリと、背中にベッドのマットレスの柔らかい衝撃が加わり、世界の天地が完全に反転する。
何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
ただ、ギチリと軋んだベッドのバネの音。
両手首をベッドに縫い付けるように押さえつけている、悟の強靭な手のひらの硬さ。
そして、言葉を遮るように強引に押し付けられた、自分のものではない唇の熱。
それらだけが、夕闇の密室の中で、どうしようもないほど鮮烈に、薫の五感を支配していた。




