第四話 うそつきの歩幅
自分で描いてて泣いてしまいました……(おバカ)。
◇
「朝比奈くんが幸せなら、それでいい」
そう言い聞かせた夜。
好きな人の恋を応援することを決めた薫と、
そんな決意など知らずに喜んでいる悟。
優しい嘘と、気付かない優しさ。
一番傷付いているのは誰なのか。
そして、一番傷付くことになるのは誰なのか。
そんなお話です。
時間は、少しだけ遡る。
放課後の図書室。
西日の色が窓際の机に薄く伸び、広げられた問題集の余白を淡い橙色に染めていた。
静寂が支配する空間の中で、遠野薫は握りしめていたシャープペンシルをそっと置き、小さく息を吐いた。
「――よし、ここまでにしよっか」
向かいに座っていた藤崎玲奈が、手元のノートをパタンと閉じながら言った。
「うん。今日はありがとう。藤崎さん、やっぱり教え方というか、説明がすごく分かりやすいね」
「それはこっちの台詞。遠野くんと話してると、自分の計算の穴がすぐに見つかるから本当に助かる」
玲奈はそう言って、少しだけ満足そうに笑った。その笑顔はどこか柔らかく、薫だけに向けられているようにも見える。
学年主席と次席。常に成績の上位を争う者同士。放課後の図書室で二人きり。
傍から見れば、仲の良い男女にしか見えなかっただろう。
玲奈は参考書を鞄にしまい終えたあと、ふと動きを止め、表情を改めた。
「……ごめんなさい」
「え?」
「勉強はただの口実で……実はね、こっちが本題……だったりして」
その声は、さっきまで数式を語っていた時とは明らかに違っていた。硬くて、慎重で。それでいて、どこか退路を断ったような、生々しい熱を帯びた声。その頬は僅かに桜色に染まっているように見えた。
薫は不思議そうに小首を傾げた。
「本題?」
玲奈は一度だけ、夕日に染まる自身のローファーの先へと視線を落とした。それから、意を決したようにまっすぐ薫を見つめる。
「あのね、私、好きなの……」
「え――」
一拍の沈黙。
「……朝比奈くんのこと」
肺の空気が完全に凍りつく。
好き。
朝比奈悟。
その二つの言葉が結びついた瞬間――。
胸の奥のいちばん柔らかい輪郭を、冷たい手でぎゅっと鷲掴みにされたような気がした。
耳の奥で、すべての音が遠ざかっていく。
夕方の図書室を優しく満たしていたはずの静けさも、窓の外の遥か下から聞こえる運動部の掛け声も、急に厚い膜の向こう側へと強制的に押しやられていくようだった。
玲奈は、こちらの動揺に気づく様子もなく、真剣な眼差しのまま言葉を重ねる。
「遠野くん、朝比奈くんと仲良いよね? だから……よかったら、私に協力してくれない?」
薫は、すぐに答えることができなかった。
喉の奥が、砂を吐き出したいほどに乾ききっている。
胸の奥が、皮膚の裏側から刃物で抉られるように痛かった。
それなのに、思考とは裏腹に、顔の筋肉だけは自動人形のように勝手に動く。
「……そう、なんだ」
薫は笑った。
自分でも驚くほど、いつも通りの、周囲を安心させるための穏やかな笑顔だった。
「う、うん。ちょっと、考えとくね」
玲奈の、それまで緊張に強張っていた表情が、ぱっと花が開くように明るくなった。
「本当!? ありがとう、遠野くん」
「まだ、考えるだけだから」
「うん、それでもすごく嬉しい。良い返事、待ってるからね!」
玲奈は学生鞄を愛おしそうに抱え、弾むような足取りで図書室の出口へと向かっていく。
その眩しさに背中を押されるようにして、薫もゆっくりと立ち上がった。
一緒に図書室を後にし、薄暗くなりかけた廊下で玲奈と別れる。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
玲奈は最後まで、恋をしている人だけが浮かべられる、眩しいほどの笑顔だった。
その背中が完全に廊下の角を曲がり、足音が聞こえなくなった、その刹那。
薫の顔から、今まで必死に張り付けていたはずの「笑顔」の仮面が、音もなく粉々に崩れ落ちた。
◇
その夜。
薫は自室のベッドの上で、小さく膝を抱えていた。
部屋の明かりは点けていない。
遮光カーテンの僅かな隙間から、外の街灯の淡い白光が差し込み、フローリングの上に冷たい一本の線を引いている。
「朝比奈くんが、藤崎さんと……」
呪文のようにつぶやき、言葉にして世界に放った瞬間、喉の奥が焼けるようにひりついた。
想像したくない。考えたくもない。
それなのに、頭は主人の命令を無視して、勝手に鮮明な絵を描き出していく。
大きな身体で、眩しそうに笑う朝比奈悟。
その隣で、お似合いの笑顔を浮かべる藤崎玲奈。
誰が見ても自然な二人。誰が見ても、祝福されるべき、似合いすぎている二人。
「朝比奈くんがいなくなったら、僕は……」
そこまで呟いて、薫は自嘲気味に自身の唇を強く噛み締めた。
その先の血の滲むような本音を、言葉にして認めてしまうのが、おそろしくてたまらなかった。
悟がいなければ、自分はどうなるのか。
「でも、もうすぐ卒業……。どのみち……もうすぐ終わるものだったんだ」
そうだ。自分たちは、ただのクラスメイト。
薫は必死に、自分に言い聞かせる。
朝比奈悟は人気者。
誰からも好かれる人。
学校の太陽のような人。
藤崎玲奈は頭が良い人。
綺麗な人。
悟の隣に立っても誰もが納得するような人。
そして、何よりも――玲奈は、女子だ。
「……僕は、しょせん男だ」
蚊の鳴くような小さな声が、暗闇の底へと落ちる。
「どうして、僕じゃ駄目なんだ……」
胸の奥の檻から、熱くてドロドロとした醜い感情が、一気に込み上げてくる。
「どうして、僕は――女子じゃないんだ…っ」
声が、情けなく震えた。
息が詰まる。喉の奥が勝手に引きつり、激しい嗚咽が漏れた。
薫は慌てて両手で口元を強く押さえる。
だが、一度決壊したものは、もう止まらなかった。
「えぅ…っ、朝比奈くん……朝比奈くん……うぐ…っ」
枕に顔を深く押しつけても、毛布を頭から被っても、胸の奥から溢れ出す涙と、張り裂けそうなこの胸の痛みはどうにもならなかった。
──しばらくして。
どれくらい泣いていたのか分からない。
すべての涙が出尽くした頃、薫は赤く腫れた目で、ぼんやりと天井を見つめた。
「……朝比奈くんが幸せなら、それでいい」
ガラガラに擦り切れた声だった。
けれど、不思議なことに、一度その諦めを口にしてしまうと、その重たい言葉はすとんと胸の最深部へと沈んでいった。
悟と玲奈。
学園の太陽と、女子のトップの秀才。
自分なんかより、ずっとずっと似合っている。きっとその方が自然で、正しい。きっとその方が、悟も真っ当に幸せになれる。
「それが、朝比奈くんの幸せなら……」
薫は冷え切った指先で、濡れた目元を乱暴に拭った。だが、不思議なくらい、胸の奥だけは奇妙に静まり返っていた。
まるで、自分の中でいちばん大切にしていた何かが、ひとつ、音を立てて壊れてしまったみたいに……。
無機質な動きでスマホを手に取る。
連絡先画面から、『朝比奈悟』の名前をタップする。
開かれたメッセージのトーク履歴は、0件。連絡先を交換しながらも、文字でのやり取りは一度もない。
メッセージ欄に指先を置く。けれど、何を打てばいいのか分からなかった。
突然、スマホが震えた。
画面に浮かんだ名前を見た瞬間、薫は反射的に返信していた。それが、今の自分に許された唯一の接点のような気がした。
返信を終えると、薫はスマホを枕元へ伏せる。もう画面を見る勇気はなかった。
◇
翌日の放課後。
薫は、下校する生徒たちで賑わう校門前の人波の中に、目的の背中を見つけた。
大きな背中。逞しい、広い肩。
昨日までなら、その姿を見つけただけで、愛おしさと気恥ずかしさで足がすくんでいた。
近付きたいのに、近付けない。声をかけたいのに、どうしても声が出ない。それがいつもの、弱虫な自分だった。
けれど、今日は違う。
薫は学生鞄の持ち手を、指の関節が白くなるほどにぎゅっと握り締め、迷いのない足取りで悟の方へ歩き出した。
「朝比奈くん」
人混みを掻き分けるようにして声をかけると、悟が大きな身体をくるりと振り返らせた。
「おぉ、どうした、学年主席? 何か俺の助けが必要か?」
いつも通りの、少し意地悪で、けれど底抜けに優しい声音。
その響きを耳にした瞬間、薫の五臓六腑は痛いほどに軋んだ。一瞬だけ、足がすくみそうになる。
(――協力するって、自分で決めたじゃないか)
薫は深く、小さく、胸の内で息を吸った。
そして、悟の切れ長の瞳を見上げる。今度だけは、気まずさに視線を逸らしたりせずに、まっすぐに。
「うん。ちょっと相談事があって……。今日、朝比奈くんの家に行ってもいい?」
悟の目が、わずかに、驚いたように見開かれた。
薫は笑った。涙など昨夜ですべて綺麗に流し切って忘れてしまったかのような、いつも以上の、完璧に美しい笑顔だった。
その薫の笑顔を見た瞬間。
悟は胸の奥に昨日からずっとへばりついていた、あの不機嫌な灰色のざらつきが、綺麗に霧散していくのを感じていた。
昨日、図書室の窓際で、藤崎にだけ向けられていたあの柔らかい笑顔。今、それ以上に眩しい無防備な笑顔が、他ならぬ自分だけに向けられている。
薫が、自分を頼って、自分の家に来たいと言っている。
その笑顔の裏にある、薫の引き裂かれそうな絶望など、知る由もなく――。
「……いいぜ」
悟は、短く答えた。
声に混じりかけた、破顔しそうなほどの喜びを必死に誤魔化すように、すぐに意地悪く口の端を吊り上げる。
「でも、勉強は教えられないぜ?」
「うん。勉強の話じゃないから」
「なら、なおさら怪しいな。何だ、色恋沙汰か?」
いつものように、ただのからかいのつもりで放った言葉。
だが、その核心を突く単語に、薫の身体が微かに固まった。
「そう、だったりして……」
ほんの一瞬の硬直の後、薫もまた、軽薄な冗談に乗るようにして小さく茶化してみせた。
そして、すぐに悟を追いかけるようにして、早歩きでその広い肩の隣に並ぶ。
「おいおい、怖ぇな、学年主席」
悟の、どこか上気したような声が降ってくる。
今日は、雨は降っていない。遮るための黒い傘も、そこにはない。
それでも、二人の距離は、あの日、狭い傘の檻の中で肩を寄せ合って歩いた時と同じくらいに近かった。
そう、並んで歩く二人の、物理的な距離に限っては。
(今だけ。これが最後……)
互いの胸の内だけが、致命的なまでにすれ違っていることなど、お気楽な太陽は、まだ何も気づいていなかった。




