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第三話 不機嫌な太陽

卒業まであと数週間。


魔法少女になってしまった薫は、昨夜の出来事を思い出して寝不足。

一方の悟は、そんな薫の異変とは別の意味で落ち着かなかった。


学年次席・藤崎玲奈との放課後の勉強会。

楽しそうに笑う薫。

そして、なぜか帰れなくなる悟。


「遠野に友達ができるのは良い事だろ」


そう思うはずなのに、胸の奥のざらつきは消えない。


それは──本人だけが、まだ名前を知らない感情。


翌朝。


遠野薫は、自身の人生における『睡眠不足ランキング』のトップ五に入るであろう、最悪の目覚めを迎えていた。


(アプリ……変身……怪力……)


重い頭を抱え、通学路の記憶も曖昧なまま席に着く。

教室の窓から差し込む春の柔らかな日差しも、教壇に立つ教師の抑揚のない声も、まるで分厚いガラスを隔てた遠くの世界の出来事のようだった。


ノートを取るはずのシャープペンシルの先が、白い紙の上で完全に止まる。

思考を放棄した脳裏を、昨夜の非現実的な光景が、おそろしく鮮明な解像度でよぎるのだ。


コンクリートの壁に半ばまで突き刺さった、玩具のようなステッキ。

持ち上げようとしただけなのに、天井のベースボードまで弾丸のように跳ね上がった四十キロのダンベル。

そして――鏡の中に確かに存在していた、フリルとレースに彩られた、自分であって自分ではない可憐な魔法少女の姿。


「うぅ……」


己の身に起きた異常事態への恐怖と、ほんの一瞬でもそれを「かわいい」と思ってしまった事実に、薫は机に額を叩きつけそうになった。


その時、直前で視界が遮られた。

前の席から、ひとつの大きな影がくるりと振り返ったのだ。


朝比奈悟だった。


「おい、学年主席」

「ひゃっ……!」


鼓膜に触れた低くてハスキーな声に、薫の肩が過剰なほど大きく跳ね上がった。

思わず口から漏れた奇妙に高い悲鳴は、昨日、悟に肩を掴まれた時のあの無防備な響きと完全に重なる。


「……ッ」


薫は慌てて両手で口を覆い、顔を真っ赤に染めた。

対する悟は、一瞬だけ驚いたように切れ長の目を丸くしたが、すぐにその端正な眉の間に不機嫌そうな皺を刻んだ。


「お前、今日はなんか様子おかしくないか?」

「え、え? 何が……っ?」

「何がって、朝からずっと上の空だろ。挨拶した時も、幽霊みたいにボケっとしてたし」


いつも通りの、遠慮のない踏み込み方。

だが、昨夜、自分が女の子のような衣装を着て大パニックになっていたなど、逆立ちしても言えるわけがない。


「な、なんでもないよ。ちょっと、夜遅くまで、勉強してただけだから……」


薫は視線を泳がせながら、必死に手を振った。

悟は納得のいかない様子でしばらく薫の狼狽ぶりを凝視していたが、やがて「ならいいけど」と短く吐き捨て、退屈そうに前を向いた。


だが、背を向けた悟の胸の奥には、いつもなら薫をからかって霧散するはずの、妙な引っ掛かりが澱のように残り続けていた。



昼休み。


賑やかな喧騒に包まれる教室の片隅で、薫の席の前に一人の女子生徒が立った。


「遠野くん」


声をかけてきたのは、藤崎(ふじさき)玲奈(れいな)

学年次席――常に薫と首位を争ってきた秀才の少女だ。


「大学生活の予習を兼ねて、国立大の数学の過去問、一緒にやらない?」

「え?」

「放課後、図書室ね」


それは、選択の余地を与えない断定口調だった。

朝比奈悟の持つ強引さとは質の違う、合理的で冷徹なまでの距離の詰め方。薫は断る理由を見つけられなかった。


「あ……う、うん。わかった」


薫は小さく頷いた。

その様子を、数席離れた友人たちの輪の中から、じっと見つめている視線があった。


(へぇ……)


悟の唇から、無意識に乾いた声が漏れる。

藤崎と遠野。常に成績のトップを争う、お利口さん同士。同じ国立大に進む者としての、自然な組み合わせ。


「ライバル同士の絆ってやつか……あぁ、『ライバル同士』のな……」


輪の中で盛り上がる友人たちの笑い声を聞き流しながら、悟は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。

そうだ、お互いに話の合う、同類同士の集まりだ。

そのはずなのに。なぜか胸の奥が、乾いた砂を噛んだときのように激しくざらついた。そのざらつきは、昼休みが終わっても消えなかった。



放課後。


西日が長く伸びる校庭で部活動を終えた悟は、なぜかどうしても帰る気になれなかった。


友人たちとは校門の前で別れた。

鞄を肩にかけ、そのまま帰路につけばいいはずだった。


それなのに、足は校門とは逆の方向へ、まるで磁石に吸い寄せられるように校舎の敷地内を彷徨っている。


「遅えんだよ……」


気付けば、部活が終わってから一時間近くが経過していた。

薫は細い。放っておけば、勉強に熱中して昼飯を食うことすら忘れるような危なっかしい奴だ。


(あいつ、また貧血でぶっ倒れてんじゃねえだろうな)


心配している理由は、それだけだ。

自分に言い聞かせるように心の中でつぶやくと、苛立ちを誤魔化しながら、悟は図書室のある旧校舎へと足を向けた。


放課後の図書室は、静寂に満ちていた。

西日の差し込む窓際の特等席に、目的の二人は並んで座っていた。

薫と、藤崎。


机の上には、びっしりと数式が書き込まれた問題集が広げられている。

藤崎が何かを指摘するように指を差すと、薫が、ふわりと微笑んだ。

それに釣られるように藤崎も小さく笑い、薫がまた、嬉しそうに目を細める。


図書室の入り口近く、本棚の影で、悟の足が完全に止まった。


挿絵(By みてみん)


「あいつ……」


言葉が、喉の奥で硬く凍りつく。

見たことがなかった。薫の、あんな顔。


教室で、悟にからかわれた時に見せる、遠慮がちで、羞恥に染まった、どこか怯えるような顔ではない。

対等な立場で、同じ言語を話す者同士が見せる、もっと自然で、もっと柔らかくて――心から楽しそうな、無防備な笑顔。


「あんな笑顔、するんだな」


ぽつりと漏れた声は、静かな図書室の空気に虚しく吸い込まれていった。

悟は知らず、奥歯を強く噛み締めていた。

その理由が何なのか、分かりたくもなかった。ただ、胸の奥に湧き上がった不快感だけが、どうしても消えなかった。


「なんだよ、クソ……」


吐き捨てるようにそれだけ呟き、悟は背を向け、逃げるように図書室を後にした。


帰り道。

燃えるような夕焼けが、アスファルトの街を真っ赤に染め上げていた。


「遠野に、話の合う友達ができるのは良い事だろ」


悟はぶっきらぼうに呟いた。

自分には勉強のことは分からない。スポーツ推薦の脳筋男より、藤崎の方がよほど話が合うに決まっている。

それは当然だ。至極まっとうな、ただの現実だ。


だが──その現実の先にある、一つの結論に足が止まる。


「……俺がいなくても、大丈夫ってことかよ」


ドサリ、と胸の奥に重たい何かが落ちてきた。


もやもやとした霧のような焦燥感が、じわじわと全身の血を冷やしていく。


自分が何に対してこんなに怒り、何に対してこれほど焦っているのか、どうしても理解が追いつかなかった。



夜。


自室のベッドに仰向けに寝転がりながら、悟はスマホを開いた。


連絡先画面から、『遠野薫』の名前をタップする。

開かれたメッセージのトーク履歴は、0件。連絡先を交換しながらも、文字でのやり取りは一度もない。


悟は、その無機質な白い画面をじっと見つめた後、スマホの画面に指を滑らせる。


『ちゃんと帰れたか?』


送信ボタンへ指を伸ばしたところで、ピタリと動きが止まった。


(……子供じゃあるまいし)


消去。


スマホを一度ベッドへ放り投げ、天井を睨みつける。だが、五分も持たずに再び端末を掴み、画面を立ち上げていた。


『まだ図書室か?』


(……ストーカーじゃん)


消去。


『今日は眠そうだったな。早く寝ろよ』


(親かよ。)


消去。


静まり返った部屋。時計の針の音だけが響く数分間の沈黙の後、悟は半ば自暴自棄気味に、親指を叩きつけた。


『生きてるか? 学年主席!』


いつもの、からかいを交えた、自分たちの距離感を保つための言葉。

送信。


――その瞬間、手の中で、端末がブルリと短く震えた。


薫からの返信。おそるべき即レス。

悟は弾かれたように画面を開いた。


『生きてるよ(汗)』


挿絵(By みてみん)


冷や汗の絵文字が一つ添えられた、それだけの短い文章。

それだけだった。何のひねりもない、ただの生存報告。


それなのに。


「……ふ。」


その早すぎる返信に、気付けば、悟の口元は、締まりなく緩んでいた。

胸の奥に一日中へばりついていた、あの嫌な焦燥感や不機嫌なざらつきが、嘘みたいに綺麗に霧散していく。


悟はスマホを枕元へと放り投げると、両腕を頭の後ろで組んで天井を見上げた。


街灯の光が薄く差し込む暗い部屋で、彼は今日初めて、心から笑った。


だが、この時の悟は知る由もなかった。

その返信が早かった理由を。


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