第二話 魔法少女に?!
相合い傘の余韻に浸る遠野薫。
だが、その夜。
スマホに届いた一件の通知が、すべてを変えた。
【Magical Transfer をインストールしますか?】
拒否しても消えない。
電源を切っても終わらない。
そして気づけば――。
「か、かわいい……」
「じゃなくてぇぇぇぇ!?」
フリルだらけの魔法少女姿と、
ありえない怪力を手に入れていた。
薫、人生最大のパニック回。
ついに物語が動き出す。
自室のベッドに突っ伏したまま、薫は顔だけを枕の奥深くへと埋めていた。
(なんだったんだろう……今日……)
目を閉じれば、網膜の裏にあの黒い傘の裏側が鮮明に蘇る。
衣服越しに伝わってきた、悟のあの高くて硬い体温。自分の細い肩をいとも簡単に制圧した、熱く大きな手のひら。耳元で、雨の音を弾くように響いた不敵な声音。
思い出すたびに、胸の奥がドロドロと熱を帯び、じわじわと形を変えて広がっていく。
「うぅ……」
己の小ささと未練がましさに、情けない声を漏らしながら毛布を抱えて寝返りを打った、その時だった。
――ピロン。
静まり返った部屋に、聞き慣れない無機質な電子音が響いた。
「……ん?」
薫はゆっくりと顔を上げた。
サイドテーブルの上で、スマホの画面が白く発光している。
不思議に思って手を伸ばし、画面を覗き込んだ。通知欄には、アプリストアの定型文とは明らかに異なる、出所不明の奇妙なフォントで文字列が並んでいた。
【Magical Transfer をインストールしますか?】
「え?」
薫は小さく首を傾げた。
知らないアプリだ。ダウンロード元や開発者の表示、あるいは警告のマークさえどこにも見当たらない。学年主席としての合理的な思考が、即座に「気味が悪い」とアラートを鳴らす。
薫は迷わず、画面の端にある『拒否』のボタンをタップした。
画面が暗転する。
(消えた……)
張り詰めた肩の力を抜き、ほっと息を吐き出した。
――ピロン。
遮るように、また同じ音が鳴った。
液晶が再び浮き上がらせたのは、先ほどと全く同じ無機質な文字列。
【Magical Transfer をインストールしますか?】
「ひっ……」
短く息を呑み、慌てて拒否のボタンを連打する。しかし、スマホは薫の拒絶をあざ笑うかのように、間髪入れずに次の音を刻み始めた。
ピロン。
【Magical Transfer をインストールしますか?】
消す。
ピロン。
消す。
ピロン。
消す。
画面をいくらスワイプしても、電源ボタンを長押ししても、その執拗な「誘い」は止まらない。
「怖い怖い怖い怖い怖い!」
思わずベッドの上で後退り、壁に背中を打ち付けた。
スマホだけが、部屋の隅で生き物のように不気味な光を放ち続けている。まるで薫をじわじわと追い詰めるように。どこまでも逃がさないと言わんばかりに。
やがて、画面の点滅に耐えかねた薫は、震える指先で恐る恐る通知の核心へと触れた。
「お願いだから、ウイルスとか本当にやめて……っ」
その呟きに呼応するかのように画面に文字が浮かび上がる。
【ご安心ください】
そして、スマホの画面が爆発的な輝きを放った。
【インストール完了】
「え?」
【起動します】
「え?」
画面いっぱいに、毒々しいほど鮮やかなピンクのハートマークが広がっていく。
次の瞬間。
四角い自室の空間全体が、昼間の太陽すら霞むほどの眩い光に包まれた。
「ええええぇぇぇっ!?」
薫は思わず腕で顔を覆い、強く目を閉じた。
全身の細胞が、内側から組み替えられていくような、奇妙な浮遊感と熱が体を駆け巡る。
やがて、網膜を焼くような光がゆっくりと収まっていった。
薫は恐る恐る、薄く瞼を開いた。
そして、そのまま呼吸を忘れて固まった。
ベッドの脇に置かれた姿見の鏡の中。
そこに映っていたのは、確かに自分だった。
だが、自分ではなかった。
フリル、リボン、幾重にも重なった純白のレース。
白と桃色を基調とした、おそろしく可憐な、そして扇情的な衣装。
肩や鎖骨は大きく露出し、翻るスカートは信じられないほどに短い。
それは、薫が現実逃避のため、最近ずっと読み続けていた電子コミックから飛び出してきたような『魔法少女』そのものの姿だった。
長い睫毛に縁取られた瞳を限界まで見開き、鏡の中の自分を凝視する。
「か、かわいい……」
思わず見惚れた。
あまりの完成度に、無自覚な感嘆が唇から漏れた。
「……でも、恥ずかしいかな……」
頬が火照るのが自分でもわかった。
しかし、そのわずか三秒後。脳が現実を殴りつける。
「じゃなくてぇぇぇぇ!?」
裏返った悲鳴が部屋中に響き渡った。
慌てて事態を把握しようとスマホを見る。だが、自分の右手が握りしめていたのは、長方形の精密機械ではなかった。
先端に、仰々しいほど大きな金色のハートの飾りが付いた、パステルピンクのステッキだった。
「え?」
完全に思考が停止した。
目をこすり、もう一度手元を見る。どこからどう見ても、おもちゃのような、けれど、不気味な存在感を放つステッキだ。
「え?」
パニックのあまり、薫はそれを全力で前方に放り投げた。
――ヒュン。
風を切る、羽根のように軽い音。
直後。
――ドゴォッ!!!
凄まじい破壊音が爆発した。薫が投げたステッキは、あろうことか自室の頑丈なコンクリートの壁に、半分ほどまで深く突き刺さっていた。周囲の壁紙が蜘蛛の巣状にひび割れている。
「え?」
薫は呆然と壁を見た。
次に、そこに突き刺さるステッキを見た。
もう一度、無残に砕けた壁を見た。
「え?」
意味が分からない。
恐る恐る、つま先立ちで近付き、柄を掴んで引き抜いてみる。抵抗もなく、するりと抜けた。軽い。やはり綿毛のように軽いのだ。
(まさか……)
薫は部屋の隅に転がっていた、昔買ったまま放置されていた鉄製のダンベルに目を留めた。
四十キログラム。
これまでの華奢な薫であれば、両手で持ち上げるのさえ腰を痛めそうになる重量だ。
そのダンベルを今までの感覚で力を込めて持ち上げる。
「よいしょ……わ…っ!」
――ガツン!!
軽い手応えと共に、持ち上げるにとどまらなかった四十キロの塊が天井のベースボードに激突した。
そのまま、重力に従い、鉄の塊がまっすぐに落ちてくる。
「あ…っ!」
避ける間もなかった。それは薫の脳天へと正確に直撃した。
――ゴン。
鈍い音が響く。
「いたっ――くない?!」
たんこぶ一つできていない。それどころか、当たったのかすら分からないほどの、微々たる衝撃しか感じなかった。
「えええぇぇぇぇぇっ!?」
己の肉体に起きた、異常事態に理解が追い付かない。
薫は口を半開きにしたまま固まった。
しばらく呆然としていると、手の中のステッキから、けたたましい警告音が鳴り響いた。
『ピピピピピピピ……』
再び視界を覆う、淡いピンクの光。
強烈な浮遊感と、頭を揺さぶられるような眩暈。
気付けば。
薫は、いつも通りのヨレたTシャツと、頼りない自分の四肢に戻っていた。
「夢?!」
だが、ダンベルは確かにそこにある。
両手で持ち上げようとする。だが、鉄の塊はびくともせず、薫の細い指先を冷たく拒絶した。壁と天井の傷だけが、悪夢の残骸のようにそこに残されている。
薫は弾かれたようにベッドへ飛び込むと、毛布を頭からすっぽりと被った。
心臓が、昼間の相合い傘の時とは全く違うベクトルで、壊れたように脈打っている。
「なんだったのあれ……」
数秒後。
「なんだったのあれ?」
さらに数秒後。
「なんだったのあれぇぇぇぇっ!?」
暗闇の毛布の中で、薫は何度も同じ言葉を繰り返した。
目を閉じても、あのフリフリ姿の自分と、軽々と天井へ跳ね上がった鉄の塊の残像が交互に視界を覆う。
その夜、薫は一睡もすることができなかった。
部屋の隅では、放置されたスマホの画面が静かに光っていた。
【クールタイム残り:23時間59分】




