第一話 雨傘と優しい檻
雨の日の相合い傘。
ただそれだけのはずだった。
「ほら、家まで送ってやるから。大人しく入ってろ」
学校中の人気者である朝比奈悟と、
彼に密かな想いを抱く遠野薫。
卒業まで残りわずか。
もうすぐ終わるはずだった片想いは、
一本の黒い傘の下で少しずつ形を変え始める。
――そして、その夜。
薫のスマホに届いた一通の通知が、
二人の運命を大きく狂わせることになる。
下校時刻を迎えた校舎の窓を、細かな雨粒が絶え間なく叩いていた。
朝からずっと、空は低い灰色に閉ざされている。まるで、自分の心の奥底をそのまま映し出したかのような色だった。
遠野薫は、人波が途切れた昇降口の隅で立ち止まり、所在なげに鞄の中を探った。
教科書、筆箱、ノート。そして、画面の暗いスマホ。
だが、今もっとも必要としている、あの細長い骨組みの感触だけがどこにも見当たらない。
「……あ」
小さく声が漏れた。今朝、玄関の傘立てに立てかけたまま、足早に家を出てきてしまったことを思い出す。
周囲では、生徒たちが「うわ、最悪。マジで降ってきたじゃん」「一緒に帰ろうぜ」などと賑やかに声を掛け合い、色とりどりの傘を広げて雨の街へと消えていく。その光景を、薫は少し離れた場所から、ガラス越しにぼんやりと眺めていた。
(まあ、いいか……)
濡れて帰るのが、今の自分にはちょうどいい気がした。
卒業まで、あと少し。
学年主席という肩書きを背負った自分が、都内の国立大学へ進学するのに対し、学校の太陽である悟は、スポーツ特待で強豪の体育大学へ進学することが決まっている。進む世界が、文字通り根本から分かれてしまうのだ。
四月になれば、もう同じ教室で、窓際の特等席から彼の広い背中を眺めることもできなくなる。
胸の奥に澱のように沈殿している、この重たく歪んだ感情は、春の雨程度で洗い流せるような軽いものではなかったけれど。それでも、この火照った頭を少しくらい冷やすには、ちょうどいい。
薫は意を決して、体操着袋を抱え直すと、校舎の外へ一歩を踏み出した。
冷たい雨が、自分の白い肌や、頼りない肩を容赦なく打ち据える――そのはずだった。
だが。
何も落ちてこない。
頬にも、肩にも、抱えた鞄にさえも、雨粒は一滴も触れなかった。
不思議に思って、薫はゆっくりと顔を上げた。
視界いっぱいに広がっていたのは、陰鬱な灰色の空ではなく、光を遮る大きな「黒い傘の裏側」だった。
「傘、忘れたのか? 学年主席」
聞き慣れた、低くて少しハスキーな声。
それだけで、薫の心臓は肋骨の裏側を激しく叩きつけ、胸の奥が一気に熱を帯びた。
慌てて振り向くと、そこにはブレザーの片方の肩を少し濡らした悟が立っていた。片手で傘を掲げ、悪戯が成功した子供のような、人懐っこい笑みを浮かべている。
「あ、朝比奈、くん……」
「風邪ひくぞ、遠野」
至近距離で合致した、悟の真っ直ぐな瞳。
その一言、その視線だけで、薫は猛烈にその場から逃げ出したくなった。いや、正確には、胸を突き上げてくる嬉しさと羞恥心で頭がどうにかなりそうで、どうしていいか分からなくなったのだ。
(だめだ、見られない……!)
限界だった。薫は反射的に、悟の正面から逃れるように、彼の背後へと素早く回り込んだ。
「お、おい? 遠野?」
困惑した悟の声が、傘の内側に反響する。
長身の悟が、不思議そうに振り返る。しかし、薫は彼の顔が視界に入る恐怖から、さらにその反対側へと、ステップを踏むようにして回り込んだ。
「なんだそれ。何かのゲームか?」
悟の声に、クツクツとした楽しげな笑いが混ざる。
追いかけるように、大きな体を器用に反転させる悟。それに合わせて、さらに反対側の死角へと逃げようとする薫。雨の昇降口の前で、傍から見ればおそろしく奇妙な、それでいてどこか睦まじい追いかけっこが始まった。
「こら! 濡れるぞ?」
その言葉通り、必死に正面を避けようとする薫の肩は、とっくに傘の境界線からはみ出し、雨粒を浴びていた。それでも、悟の顔を正面から見る方がよほど怖かった。
もう一度、悟の影に隠れようと足を動かした、その瞬間。
「――っと、捕まえた」
逃げ道を塞ぐようにして、悟の大きな、熱い手が、薫の華奢な肩をがっしりと掴んだ。
「ひゃっ……!」
静かな雨の音を引き裂いて、薫の口から、自分でも驚くほど高い声が漏れた。その声に、掴んだ側の悟も、一瞬だけ目を丸くした。
「変な声出すなよ、調子狂う。」
悟はすぐに悪戯っぽく笑い、薫の細い肩を引き寄せた。
「……ほら、家まで送ってやるから。大人しく入ってろ」
当然のように告げられる言葉。断る理由など、薫には最初からなかった。
一本の黒い傘の下、二人の距離は、教室にいる時とは比べ物にならないほど近かった。
一歩歩くたびに、悟の鍛え上げられた逞しい肩と、自分の頼りない肩が、衣服越しに擦れ合う。悟の体から放たれる熱が、雨の冷気を含んだ空気をじわじわと侵食していく。
薫は、自分の心臓の音が悟に聞こえてしまっているのではないかと、そればかりが恐ろしかった。
「遠野ってさ、本当に細いよな。ちゃんと飯食ってんの?」
悟が、横目で薫の横顔を覗き込みながら話しかけてくる。
「えっ……う、うん。普通に、食べてる、けど……」
「マジかよ。腕なんか、俺の半分くらいしかないじゃん。学年主席様は、脳みそに栄養全部持ってかれてんのか?」
からかうような言葉なのに、それでいてどこか庇護するような口調。
薫は、俯きながら自分の白い、長い指をぎゅっと握りしめた。
(どうして、こんなに目立たない僕に構うんだろう)
彼の、無駄のない筋肉の動き、歩幅、そして自分を簡単に制圧したあの手のひらの硬さを感じながら思う。
「朝比奈くんは……」
薫は、消え入りそうな声で呟いた。
「ん? なに?」
「……寂しく、ないの? もうすぐ、卒業なのに」
一瞬、雨の音だけが二人の間を支配した。
悟は少しだけ前を見つめ、それから、いつもの不敵な笑みを浮かべて薫の頭を、大きな手で乱暴に撫で回した。
「寂しがる暇ねえよ。向こうに行ったら、即レギュラー争いだしな。……でも、まあ」
悟の手が、薫の頭から離れる際、その白い首筋へと触れた。
一瞬だけ、ゾクりとするような感覚を覚える。
「お前みたいな危なっかしい奴を置いてくのは、ちょっとだけ心配かもな」
「え……」
「俺がいないと、お前、誰にも話しかけられずに干からびそうだろ?」
冗談めかしたその言葉は、薫の胸の最も深い場所に、鋭い楔となって突き刺さった。
(うん。僕は、君がいないと……)
それが「恋」なのか、それを通り越した「依存」なのか、まだ薫は分からないでいた。
「じゃあな。風邪ひくなよ、学年主席!」
薫の家の玄関前。雨が少し小降りになった頃、悟はからかうような口調でそういうと、いつもの調子でひらひらと手を振り、何事もなかったかのように去っていった。
その大きな背中が、雨の霞の向こうに消えていくまで、薫は冷たいドアの前に立ち尽くしていた。
悟の手が触れていた肩は、今でもじんじんと熱い。
はみ出していた指先は、凍えるように冷たい。
それなのに、胸の奥だけが、どうしようもなく熱く、激しく波打っていた。
まるで、冷たい雨の中で、自分一人だけが、取り残されてしまったみたいに。
スマホの中で、可憐な衣装を纏い、誰にも負けない魔法少女たち。
(僕にも……もし、彼を驚かせるような、特別な力があったなら……)
その時、薫のポケットの中で、スマホが奇妙な、聞いたこともない電子音を立てて短く震えた。
だが、胸の熱さに眩暈を覚えていた薫は、まだその異変に気づく由もなかった。




