かっこいいなぁ
卒業まであと数週間。
サッカー部のエース・朝比奈悟に密かに憧れる遠野薫。
ただ見つめることしかできないまま、高校生活は終わろうとしていた。
薫は、まだ知らなかった。
悟と、ただのクラスメイトではいられなくなることを。
それ以前に、自分が魔法少女になることも。
そして、あれほど眩しかった彼との立場が、完全に逆転する日が来ることも。
そんな未来を、欠片ほども想像していなかった。
卒業式までの数週間──。
高校生活も残りわずかとなった、三月の昼休み。
窓からは、春の湿り気を帯びた土の匂いと、遠くで響くホイッスルの音が入り混じって流れ込んでくる。
「かっこいいなぁ」
遠野薫は、窓際に群がるクラスメイトの女子たちの背中越しに、校庭を眺めながら一人つぶやく。色とりどりの声が飛び交う中、薫の視線は桜の花びらが舞い散る向こうのただ一人、朝比奈悟の背中を追い続けている。
砂埃をあげて芝生を駆ける悟。彼は鮮やかなステップでボールを、そしてゲームを支配していく。
「よし!」
鋭いシュートが放たれ、白いネットが無造作に揺れた。直後、耳をつんざくような女子たちの黄色い悲鳴が上がる。
悟は、誰からも好かれる太陽のような存在だ。彼を中心にして世界が回っているような、そんな錯覚さえ覚える。教室のあちこちで女子たちが頬を赤らめて彼を語る光景は、もはやこのクラスの、いや、この学校の日常茶飯事だった。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。どこか頼りなく、クラスの喧騒に馴染めない自分。教室の端に溶け込むような自分。
(自分には、あんな風に笑う資格も、あの輪に混ざる権利もないんだ)
色とりどりの声を響かせ、光を反射するガラス玉がぶつかり合うように騒ぎ立てる彼女たち。
女子たちの黄色い歓声を聞くたび、胸の奥がざわつく。
彼女たちと同じ気持ちのはずなのに、同じ場所には立てない。
どれほど憧れても、どれほど願っても。
自分という生き物の構造そのものが、彼女たちの住む世界を拒絶している、自分とは住む世界が根本的に違う気がしてならなかった。
(もうすぐ卒業……そうしたら……)
彼は体育大学に進むという。今のようにただ眺めることすらできなくなる。変えられない運命に、ただ背を丸めることしかできない……。
薫は逃げるように鞄からスマホを取り出した。病的なまでに白く、そして細長い指で画面を滑らせ、お気に入りの電子コミックサイトを開く。指先に伝わる画面の熱。
「こんな風になれたらいいのに……」
最近の心の拠り所は、可憐な衣装を纏い、魔法で鮮やかに悪を討つ魔法少女の物語だ。もし自分にも、運命を変えるような特別な力があれば、もっと胸を張って歩けるだろうか。現実から意識を切り離し、それを自分とは正反対の輝きを持つ主人公に溶かしていく。
「続きは明日……か」
最新話を読み終えた瞬間に訪れる、この独特の虚無感。画面が暗転し、そこに映り込んだのは、やっぱり冴えない自分だ。薫は小さく息を吐き、スマホを鞄の奥へと押し込んだ。
「また、一人でスマホ見てたのか? 勉強? 学年主席は違うね」
背後から届いた聞き覚えのある声に、肩を跳ねさせる。
振り向いた薫の長い睫が震える。
「え?」
そこには人差し指の上でサッカーボールを器用に回し、人懐っこい笑みを浮かべた悟が立っていた。
彼の運動直後の体温が、二人の距離を不必要なほど近く感じさせた。肋骨を内側から叩きつけるような激しい鼓動が、彼はおろか、静かな廊下にまで漏れ聞こえてしまいそうで、薫は肩をすくませる。
「……う、うん。」
まさか魔法少女の物語を読んでいたなどとは言えず、反射的に返事する。
「運動も、みんなと話すのも、あまり得意じゃないから…っ」
絞り出すような声。悟に見下ろされると、自分の小ささが強調されるようで落ち着かない。
「えっと……」
意を決して会話を続けようとした刹那、二人の距離を切り裂くように、昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に鳴り渡った。
「5時間目は体育だな。着替え、遅れると先生に怒られるぞ。行こうぜ」
悟がひょいと首を傾げて、廊下の先にある更衣室を指差した。
「あ、うん……そうだね」
薫は、体操着が入った少しシワの寄った布製のバッグを手に取る。
悟の大きな背中に隠れるようにして、薫は教室から一歩を踏み出した。鏡の前で髪を整える女子たちの横を通り抜け、重いドアを開ける悟の背中を、吸い込まれるように追う。悟が中へ消えると、薫もまた、男子更衣室独特の熱気と喧騒へと、その身を投じた。
スマホの中の魔法少女。彼女のようにはなれなくても、せめて彼の隣を歩けるだけの勇気が欲しい。そう望みながら……。




