29.エピローグ
事件のあった民宿を後にした時、富山の山あいの空は、すでにどんよりとした朝の光に包まれていた。
あの後の民宿は、パトカーのサイレンと警察官たちの足音が飛び交う大騒動だった。私たちはろくに眠ることも、朝食を食べることもできず、そのまま現地の警察官たちによる張り詰めた事情聴取を受けていた。
疲れ果てて解放されたものの、美咲の落ち込みようはひどかった。声をかけるのも躊躇われるほどに傷つき、憔悴しきっている。行きは美咲が運転していた軽自動車「タント」だったが、とても彼女にハンドルを握らせられる状態ではない。
「美咲、後ろの席に座って。運転は私がするから」
私は美咲からスマートキーを受け取ると、後部座席に美咲を座らせ、その隣のケアを白奈に任せることにした。
車を走らせながら、私はバックミラー越しに二人の様子を窺う。本当なら、朝から開いているファミリーレストランにでも入って、まずは何か温かいものでも食べて腹を満たそうと考えていた。けれど、美咲は「朝食はいらない……」と力なく首を振るばかりだった。
ガヤガヤとしたファミレスの空気は、今の彼女には重すぎるだろう。そう判断した私は、目的地の進路を変え、静かに落ち着ける近場の喫茶店へとタントを走らせることにした。
やがて見つけた静かな喫茶店のテーブルを囲んだとき、窓ガラスにはぽつぽつと梅雨の雨が当たり始めていた。私は目の前の温かいコーヒーカップを見つめながら、静かに口を開く。
「……美咲、少しは落ち着いた?」
私の問いかけに、対面に座る美咲は力なく微笑んだ。その顔は青白く、目の下にはうっすらと隈くまが浮かんでいる。
「うん……ありがと、黒音。まだ、何が本当で何が嘘だったのか、頭の中の整理はつききれてないんだけどね。……でも、私がもっと早く、彼の『怖さ』の理由に気づいてあげられていたら、何かが変わってたのかな、なんて、そんなことばっかり考えちゃう」
「美咲のせいじゃないわ」
私は美咲の震える手を、テーブルの上からぎゅっと握りしめた。
「悪いのは、家族を壊した父親と、復讐のためにあなたを利用した大河さんよ。あなたはただ、真っ直ぐに彼を信じようとしただけ。自分を責める必要なんて、どこにもない」
「黒音……」
美咲の瞳に、再び涙がじわりと滲む。その時、私たちの重苦しい空気を切り裂くように、「ずずずーっ」と間の抜けた音が響いた。
見ると、私の隣に座る白奈が、ストローでメロンソーダの底に溜まったシロップを必死に吸い上げているところだった。彼女の口元には、ちゃっかり追加注文したチョコレートパフェの生クリームが白く残っている。
「ふぅ……あ、美咲ちゃん。大河くんさ、美咲ちゃんのこと『本当に好きだった』って言ってたの、あれは本物だと思うよぉ」
白奈はスプーンを咥えたまま、のんきな声をだした。
「え……?」
美咲が驚いたように顔を上げる。私は「あんた、こんな時に何を言い出すのよ」と白奈を肘で小突いたが、白奈は痛がるふうでもなく、ふにゃりと目を細めた。
「だってさ、本当に完璧なアリバイ作りのためだけに美咲ちゃんを利用するつもりなら、わざわざ自分の『実家』に連れてくる必要なんてないもん。もっとカモフラージュしやすい、他人の目がたくさんある観光地とか、別のホテルを選べばよかったんだよ。わざわざ思い出したくもない呪われた実家に美咲ちゃんを誘ったのはさ……やっぱり、美咲ちゃんの力を借りて、過去を全部ひっくり返して、本当に新しくやり直したかったからじゃないかなぁ、なーんてね」
白奈はそう言って、パフェのチェリーをパクリと口に放り込んだ。
その言葉に、科学的な根拠や捜査資料の裏付けなんて何一つない。ただの白奈の直感であり、突飛な妄想に過ぎない。だけど、その無責任で優しい言葉は、傷ついた美咲の心を救うには十分すぎるものだった。
「……うん。ありがと、白奈ちゃん。そうだったら、いいな」
美咲は目元を拭い、今日一番の、本当に救われたような笑顔を見せてくれた。
それからしばらく他愛のない話をして店を出た私たちは、そのまま美咲の家へと向かった。
到着した美咲の家の前で、私はタントのエンジンを止め、スマートキーを彼女に返した。美咲をここで降ろし、私たちはタクシーを呼んで警察の寮に帰ることにする。
「ごめんね、本当は私が運転して送ってあげるべきなのに……」
申し訳なさそうに俯く美咲に、私は少し強い調子で言った。
「今の、心身ともに不安定なあなたに、私が運転させるわけないじゃない。……私、警察官なのよ」
私の言葉に、美咲は一瞬だけ丸く目を見張り、それから小さく吹き出した。
「ふふっ、そうだね。ごめんね、ありがとう」
「うん、じゃあね。しっかり休むのよ」
美咲が家に入っていくのを二人で見届けてから、
私たちは手配したタクシーに乗り込んだ。
(第二章 完)




