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第二章 『悪女』



夜。


アークレイド公爵邸は、

静まり返っていた。


帝都でも有名な巨大屋敷。


重厚な黒鉄の門。


冷たい石造りの廊下。


まるで城みたいだった。


 


エレノアは、

案内された部屋の前で立ち尽くしていた。


「こちらが奥様のお部屋になります」


使用人が頭を下げる。


扉が開く。


中は、

息を呑むほど広かった。


天蓋付きのベッド。


大きな暖炉。


白銀のカーテン。


豪奢なのに、

どこか冷たい部屋。


 


「……綺麗」


思わず零す。


すると使用人達が、

少し驚いたような顔をした。


恐らく、

泣くと思っていたのだろう。


鬼将軍の屋敷へ嫁いだ令嬢。


怯えて当然。


そんな空気があった。


 


だがエレノアは違う。


ここに、

グレンがいる。


それだけで、

胸が苦しくなるほど嬉しかった。


 


使用人達が下がろうとした時。


一人の女性が、

静かに前へ出た。


 


「失礼いたします」


柔らかな声。


 


栗色の髪を後ろで纏めた、

優しそうな女性だった。


淡い茶色の瞳が、

穏やかに細められる。


 


「本日より、

奥様専属侍女を務めさせていただきます」


「ミリアと申します」


 


エレノアは、

少し驚いて目を瞬かせた。


専属侍女。


つまり、

この広い屋敷で、

一番近くにいてくれる人。


 


ミリアは、

ふわりと微笑む。


「何かありましたら、

いつでもお呼びくださいね」


 


その笑顔があまりに優しくて。


エレノアの張っていた気持ちが、

少しだけ緩む。


 


「……よろしくお願いします」


 


ミリアは、

ほっとしたように笑った。


 


その表情を見ながら、

エレノアは気付かない。


 


数時間前。


この屋敷の別室で。


 


「頼みがある」


 


レオンが、

恋人へ頭を下げていた事を。


 


ミリアが目を丸くする。


「レオンがそんな顔するなんて珍しいわね」


 


「……茶化すな」


 


珍しく、

レオンの声は真剣だった。


 


「今回嫁いで来る奥様の事だ」


「傍にいて差し上げてほしい」


 


ミリアは首を傾げる。


「どうして?」


 


短い沈黙。


 


レオンは、

小さく息を吐いた。


 


「閣下は恐らく、

冷たい態度を取る」


 


「え?」


 


ミリアが驚く。


 


今日の結婚式。


レオンは確かに見ていた。


グレンが、

花嫁へ一瞬で心を奪われた事を。


だがその直後。


ロイドが現れた。


 


そして。


 


“あの女は悪女です”


 


その言葉も、

レオンは聞いていた。


 


「……閣下は、

恋愛に関して壊滅的に不器用だ」


「しかも、

余計な事を吹き込まれた」


 


ミリアは眉を寄せる。


「それって……」


 


「奥様が傷付く」


 


レオンは、

静かに言い切った。


 


「だから、

せめて味方が必要だ」


 


ミリアは少し考えてから、

優しく笑った。


「分かったわ」


「ちゃんとお傍にいる」


 


レオンは、

ようやく少しだけ表情を緩めた。


 


そして現在。


 


「お疲れでしょうし、

お茶を淹れますね」


ミリアが微笑む。


 


エレノアは、

その優しさに少し救われていた。


 


好きな人との結婚。


幸せなはずなのに。


どこか不安だったから。


 


すると——。


 


扉がノックされた。


 


エレノアの肩が跳ねる。


 


静かに扉が開く。


現れたのは、

グレンだった。


 


漆黒の軍服を脱ぎ、

黒いシャツ姿になっている。


それだけなのに、

息が止まりそうになるほど格好良い。


 


エレノアは慌てて立ち上がった。


「お、お帰りなさいませ……!」


言った瞬間、

顔が熱くなる。


帰るも何も、

ここは相手の家だ。


 


グレンは、

そんな彼女を数秒見つめたあと、

視線を逸らした。


 


——まただ。


 


胸の奥が、

妙にざわつく。


 


結婚式の笑顔が、

頭から離れない。


 


なのに。


ロイドの声も、

耳に残っている。


 


“騙されるな”


 


グレンは、

感情を押し殺すように口を開いた。


「……座れ」


 


低い声。


 


エレノアは、

こくりと頷く。


 


その様子を見ながら。


ミリアは静かに目を伏せた。


 


——レオンの言った通りだ。


 


閣下、

もう奥様に惹かれてる。


 


なのに、

距離を取ろうとしてる。


 


それが、

少し悲しかった。




ミリアが一礼し、

静かに部屋を出ていく。


 


扉が閉まった瞬間。


広い部屋に、

静寂が落ちた。


 


暖炉の火だけが、

ぱちぱちと音を立てている。


 


エレノアは、

無意識に指先を握り締めた。


 


目の前には、

グレン。


幼い頃から憧れていた人。


ずっと好きだった人。


なのに今は、

何を考えているのか全く分からない。


 


グレンは、

一定の距離を空けてソファへ座った。


まるで、

必要以上近付きたくないみたいに。


 


その距離感に、

胸がちくりと痛む。


 


沈黙。


 


やがて、

グレンが口を開いた。


 


「先に言っておく」


低い声。


冷たく、

感情が読めない。


 


「俺は、

理想の夫になるつもりはない」


 


エレノアの肩が、

小さく揺れた。


 


「社交界で問題を起こさず、

将軍夫人として振る舞え」


「それ以上は求めるな」


 


突き放すような言葉。


 


エレノアは、

少しだけ目を伏せた。


 


——ああ。


 


やっぱり。


 


ほんの少しだけ、

期待してしまっていた。


結婚式で。


グレンが、

自分を見てくれた気がしたから。


 


でも、

勘違いだったのだ。


 


それでも。


嫌われているわけじゃない。


そう思いたくて、

エレノアは微笑んだ。


 


「……承知いたしました」


 


その笑顔に。


グレンの眉が、

僅かに寄る。


 


——まただ。


 


胸の奥が、

妙に掻き乱される。


 


ロイドの言葉が過る。


 


“男を誑かす悪女”


“笑顔で騙す女”


 


騙されるな。


 


グレンは、

無意識に拳を握った。


 


なのに。


目の前の少女は、

どう見てもそんな風に見えない。


 


それどころか。


 


……可愛い。


 


思った瞬間。


グレンは、

自分で自分に苛立った。


 


何を考えている。


 


だから、

距離を取る。


近付くな。


それ以上見れば、

何かがおかしくなる。


 


グレンは、

逃げるように立ち上がった。


 


「……今日はもう休め」


 


そう言って、

部屋を出ようとする。


 


だが。


 


「旦那様」


 


呼び止められる。


 


グレンの足が止まった。


 


振り返ると。


エレノアが、

不安そうにこちらを見ていた。


青い瞳が、

少し揺れている。


 


「あの……」


「ひとつだけ、

聞いてもよろしいですか?」


 


グレンは答えない。


だが、

拒絶もしなかった。


 


エレノアは、

少し迷ってから小さく言う。


 


「……私、

何かしてしまいましたか?」


 


その言葉に。


グレンの胸が、

妙に痛んだ。


 


エレノアは、

困ったように笑う。


 


「嫌われているみたいで……」


 


違う。


 


即座に、

そう言いたかった。


 


嫌ってなどいない。


むしろ——。


 


そこまで考えて、

グレンは眉を寄せる。


 


分からない。


 


自分が、

何を感じているのか。


 


ただ。


エレノアにそういう顔をされると、

妙に苦しい。


 


ロイドの言葉が、

また脳裏を掠める。


 


“騙されるな”


 


グレンは、

感情を押し殺すように目を逸らした。


 


「お前が、

どういう女か俺は知らん」


 


エレノアの瞳が、

僅かに揺れる。


 


「だが、

俺に余計な期待はするな」


 


それだけ言って、

グレンは部屋を出ていった。


 


重い扉が閉まる音。


 


静かになった部屋で。


エレノアは、

ぎゅっと胸元を掴んだ。


 


嫌われている。


 


そこまでハッキリ言われた訳じゃない。


でも。


あの距離感も。


視線の冷たさも。


全部が苦しかった。


 


それでも——。


 


「……期待、なんて」


 


出来るわけないのに。


 


ぽつりと零した声は、

小さく震えていた。


 


一方。


部屋を出たグレンは、

廊下で立ち止まっていた。


 


「…………」


 


意味が分からない。


 


なぜ、

あんな顔をされると苦しい。


なぜ、

声を聞くだけで落ち着かない。


 


しかも最後。


“嫌われているみたいで”


そう言われた瞬間。


胸がざわついた。


 


——違う。


 


嫌ってなどいない。


 


むしろ、

近付き過ぎると危険だと思うほど、

惹かれている。


 


そこまで考えて。


グレンは、

眉間を押さえた。


 


「……何なんだ」


 


理解出来ない。


 


恋など、

知った事がない。


 


だから。


この感情の名前が、

分からなかった。

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