表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第3章 『一人の食卓』



「失礼いたします」


 


湯気の立つ浴室で、

ミリアがそっと頭を下げた。


 


長い一日だった。


結婚式。


慣れない帝都。


知らない屋敷。


そして——

グレンの冷たい態度。


 


気が張っていたせいで、

エレノアはもうくたくただった。


 


「お湯加減、

熱くありませんか?」


 


「だ、大丈夫です」


 


大理石で作られた浴室は、

広過ぎるほど広い。


淡い灯りが、

湯気越しに揺れている。


 


エレノアは、

湯へ肩まで浸かりながら、

ほうっと息を吐いた。


 


温かい。


 


冷えていた身体が、

ゆっくり解けていく。


 


「……綺麗なお風呂ですね」


 


ぽつりと零すと、

ミリアが少し笑った。


 


「この屋敷、

無駄に広いんです」


 


“無駄に”なんて言う侍女、

初めて見た。


 


エレノアは、

思わず小さく笑ってしまう。


 


その顔を見て、

ミリアは少し安心した。


 


さっきより、

ちゃんと笑えている。


 


ミリアは、

丁寧にエレノアの髪を洗う。


柔らかな金髪が、

指の間を滑っていく。


 


「とても綺麗な髪ですね」


 


「そ、そんな……」


 


「本当ですよ」


 


ミリアは自然に褒める。


その優しさが、

今のエレノアにはありがたかった。


 


だからこそ。


ふとした瞬間に、

思い出してしまう。


 


——俺に余計な期待はするな。


 


胸が、

少し痛む。


 


ミリアは、

その表情の変化に気付いていた。


 


けれど今は、

何も言わない。


 


代わりに、

柔らかいタオルでそっと髪を包む。


 


「お食事の準備も出来ていますよ」


 


その言葉に、

エレノアの瞳が少しだけ明るくなった。


 


食事。


 


もしかしたら。


 


一緒に食べられるかもしれない。


 


夫婦として。


少しでも話せるかもしれない。


 


そんな小さな期待が、

胸の奥に生まれる。


 


だが——。


 


食堂へ案内された瞬間。


その期待は、

静かに消えた。


 


広い食堂。


長いテーブル。


並ぶ豪華な料理。


 


そして。


 


席は、

一つしか用意されていなかった。


 


エレノアは、

少しだけ目を瞬かせる。


 


「あの……」


 


恐る恐る尋ねる。


 


「旦那様は……?」


 


使用人達が、

一瞬だけ困った顔をした。


 


やがて一人が、

頭を下げる。


 


「閣下は、

執務室でお食事を取られます」


 


その瞬間。


胸が、

きゅっと縮んだ。


 


……一緒には、

食べてくれないんだ。


 


期待してしまった自分が、

少し恥ずかしくなる。


 


「……そう、ですか」


 


笑わなきゃ。


 


そう思うのに、

少しだけ声が掠れた。


 


ミリアが、

横で小さく眉を寄せる。


 


エレノアは、

静かに席へ座った。


 


広過ぎる食堂。


向かい側の空席。


誰も座らない椅子。


 


カチャリ。


 


食器の音だけが、

静かに響く。


 


一人の食事は、

思っていたより寂しかった。


 


好きな人の屋敷にいる。


好きな人の妻になった。


 


それなのに。


 


まるで、

一人ぼっちみたいだった。


 


「……美味しいです」


 


そう呟いてみる。


 


でも、

返事はない。


 


エレノアは、

そっと視線を落とした。


 


一方その頃。


 


執務室。


 


グレンは、

書類を前に座っていた。


 


だが。


全く集中出来ない。


 


ペンを持つ手が止まる。


 


脳裏に浮かぶのは、

金色の髪。


青い瞳。


泣きそうな顔。


 


——嫌われているみたいで。


 


グレンは、

苛立つように眉を寄せた。


 


「…………」


 


胸がざわつく。


 


だから、

距離を取った。


 


一緒に食事などしたら、

余計におかしくなる気がした。


 


なのに。


 


離れている今の方が、

妙に落ち着かない。


 


その時。


 


「閣下」


 


執務室へ、

レオンが入ってくる。


 


そして机の上を見て、

無言になる。


 


食事。


全く手が付けられていない。


 


レオンは、

小さく溜息を吐いた。


 


「……奥様は、

お一人で食事されていますよ」


 


グレンの眉が、

僅かに動く。


 


だが、

何も言わない。


 


レオンは、

そんな上司を静かに見つめた。


 


そして、

低く口を開く。


 


「ロイドの言葉を信じて、

酷い態度を取っているようにしか見えませんが」


 


その瞬間。


 


空気が変わった。


 


グレンの灰色の瞳が、

鋭く細まる。


 


「……何が言いたい」


 


低い声。


圧。


普通の人間なら、

息を呑むほどの威圧感。


 


だがレオンは慣れている。


平然と返した。


 


「そのままの意味です」


 


「奥様、

かなり傷付いておられましたよ」


 


グレンの眉間に、

深く皺が寄る。


 


傷付いていた。


 


その言葉が、

妙に胸へ引っ掛かった。


 


だが同時に、

ロイドの言葉も蘇る。


 


“男を誑かす悪女”


 


グレンは、

苛立ったように視線を逸らす。


 



「……騙されている可能性もある」


 


その返答に。


レオンは、

小さく目を細めた。


 


——ああ。


 


これ、

かなり重症だな。


 


レオンは、

深く溜息を吐く。


 


「では」


 


静かな声。


 


「初夜はどうされるおつもりですか」


 


その瞬間。


 


グレンの動きが止まった。


 


レオンは、

淡々と続ける。


 


「形式上の結婚とはいえ、

今夜は初夜です」


「奥様は、

それを理解した上で嫁いで来ています」


 


グレンの眉間に、

深く皺が寄る。


 


初夜。


 


その言葉だけで、

脳裏にエレノアの姿が浮かぶ。


 


純白のドレス。


揺れる青い瞳。


柔らかな金髪。


 


そして。


 


——嫌われているみたいで。


 


胸がざわつく。


 


グレンは、

苛立つように書類を机へ置いた。


 


「……無理に抱くつもりはない」


 


低い声。


 


レオンは、

少しだけ眉を上げる。


 


「では、

抱かないと?」


 


「…………」


 


沈黙。


 


グレンは、

視線を伏せた。


 


分からない。


 


抱くべきなのか。


距離を取るべきなのか。


 


ただ。


 


今の自分が触れれば、

理性がおかしくなる気がした。


 


結婚式からずっとそうだ。


 


視線が追う。


声が気になる。


笑うと胸がざわつく。


 


理解不能だった。


 


ロイドの言葉が無ければ、

もっと違ったのかもしれない。


 


だが今は、

あの笑顔すら疑っている。


 


そんな状態で、

触れていいのか分からなかった。


 


レオンは、

そんな上司を見ながら、

小さく息を吐く。


 


「閣下」


 


「もし抱かれないなら、

奥様はご自分が拒絶されたと思いますよ」


 


その言葉に。


グレンの眉が、

ぴくりと動いた。


 


拒絶。


 


エレノアが、

悲しそうに笑う姿が浮かぶ。


 


胸の奥が、

妙に痛んだ。


 


レオンは続ける。


 


「ですが、

今のまま抱いても傷付ける」


 


「どちらにしても、

かなり最悪ですね」


 


「……貴様」


 


グレンが睨む。


 


だがレオンは、

まるで動じない。


 


「事実でしょう」


 


静かな返答。


 


そして最後に、

少しだけ真面目な声で言う。


 


「せめて、

傷付けないようにしてください」


 


その言葉だけ残し。


レオンは、

執務室を後にした。


 


静かになった部屋で。


グレンは、

深く眉を寄せる。


 


傷付けるつもりなど、

無かった。


 


なのに。


 


もう既に、

傷付けている気がしてならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ