第一章 初めまして旦那様
帝都ヴァルディンの空には、
静かに雪が降っていた。
白銀に染まる大聖堂。
その前には、
帝国騎士団が整列し、
無数の民衆が集まっている。
誰もが、
同じ噂を口にしていた。
“黒鬼将軍が結婚する”
“相手の令嬢が可哀想だ……”
“あんな化け物に嫁ぐなんて”
恐れと好奇。
ざわめきは止まらない。
けれど——
今日の花嫁だけは、
違った。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか?」
控室で、
侍女が不安そうに問い掛ける。
鏡の前に座る少女は、
ふわりと笑った。
「大丈夫よ」
その声は、
少し震えていた。
鏡に映るのは、
美しい少女だった。
柔らかな金色の髪。
光を受けるたび、
蜂蜜みたいに淡く輝く。
透き通る青い瞳。
雪解けの湖みたいに綺麗な色。
白い肌に、
華奢な身体。
儚げな美貌。
けれど、
その奥には芯の強さがあった。
純白のドレスを纏った姿は、
まるで雪の妖精みたいだった。
エレノア・フェルディナ。
今日、
帝国最強の将軍へ嫁ぐ少女。
怖くないわけじゃない。
戦場で敵を薙ぎ払う鬼神。
血塗れの英雄。
冷酷無慈悲な怪物。
そんな噂ばかり聞いてきた。
でも——。
(……やっと会える)
胸の奥が熱い。
幼い頃。
凱旋式で見た、
あの人。
傷だらけで、
血に塗れて、
それでも最後まで民を守った将軍。
誰もが恐れていた。
でもエレノアだけは、
目を離せなかった。
あまりにも孤独そうで。
あまりにも綺麗で。
気付けば、
ずっと憧れていた。
だから本当は、
この結婚が決まった夜。
嬉しくて、
泣いた。
「……お時間です」
扉が開く。
エレノアは、
胸元をぎゅっと握り締め、
立ち上がった。
大聖堂の扉が開く。
冷たい空気が流れ込む。
その瞬間。
空気が変わった。
祭壇の前に立つ男。
漆黒に銀糸の刺繍が施された軍服。
肩には、
元帥の証である銀章。
長身。
鍛え抜かれた体躯。
夜色の黒髪は短く整えられ、
鋭い灰色の瞳は、
刃みたいに冷たい。
そして左目元から頬へ走る、
深い傷跡。
その存在感だけで、
場が静まり返る。
帝国最強。
“黒鬼将軍”
グレン・アークレイド。
エレノアは、
思わず息を呑んだ。
(……綺麗)
昔よりずっと。
傷も。
冷たい眼差しも。
全部込みで、
綺麗だった。
胸が苦しくなるほど。
一方。
グレンは、
花嫁に興味などなかった。
政略結婚。
皇帝命令。
形式だけの妻。
それ以上でも以下でもない。
そう思っていた。
だが——。
純白のドレスを纏った少女が、
こちらを見上げる。
雪みたいに白い肌。
金色の髪。
澄んだ青い瞳。
そして。
ふわりと笑った。
緊張しているくせに、
必死に笑おうとしている、
ぎこちない微笑み。
「……っ」
その瞬間。
グレンの心臓が、
強く跳ねた。
理解出来ない。
ただ、
目が離せなかった。
しかも彼女は、
自分の傷を見ても、
怯えない。
嫌悪もしない。
ただ真っ直ぐ、
こちらを見つめている。
「初めまして、旦那様」
鈴みたいに澄んだ声。
「これから、
よろしくお願いいたします」
満面の笑顔。
グレンは、
言葉を失った。
その隣で。
副官レオンは、
小さく目を見開く。
——嘘だろ。
今の閣下、
完全に見惚れてた。
長年グレンを見てきた。
戦場で何百もの死を見ても、
表情を変えなかった男。
そんな男が今、
花嫁から視線を外せないでいる。
しかも無意識だ。
レオンは、
内心で苦笑する。
(……これは面倒な事になりそうだな)
式は滞りなく進んだ。
誓いの口付けも、
最低限触れるだけ。
それでもエレノアは、
幸せだった。
夢みたいだった。
好きな人が、
こんな近くにいる。
それだけで、
胸がいっぱいになる。
だが。
式が終わり、
控室へ戻った直後。
空気が変わる。
「閣下」
低い声。
現れたのは、
グレンの腹心——ロイド。
赤茶色の髪を後ろへ流した、
整った顔立ちの男。
だがその瞳には、
粘つくような悪意が滲んでいた。
彼は、
エレノアを一瞥してから、
意味深に目を細める。
「少々、
お話が」
グレンが無言で頷く。
二人は廊下へ出た。
そしてその後ろを、
レオンも静かに追う。
完全に嫌な予感がした。
静まり返った廊下。
ロイドが、
低く笑う。
「あの女には、
お気を付けください」
グレンの眉が動く。
「……どういう意味だ」
「ああいう女です」
ロイドは吐き捨てるように言った。
「男を誑かすのが上手い」
「純情な男を踏みにじって、
楽しむような悪女ですよ」
グレンの脳裏に、
さっきの笑顔が浮かぶ。
あまりにも綺麗だった。
だからこそ、
妙に胸がざわつく。
ロイドは続ける。
「閣下ほどのお方なら、
簡単に騙される事はないでしょうが」
「どうか、
お気を付けください」
沈黙。
グレンは、
無意識に拳を握っていた。
あの笑顔が、
演技?
自分へ向けられた視線も?
胸の奥が、
妙にざらつく。
その横で、
レオンは静かにロイドを見る。
——……こいつ、
嘘を吐いているな。
根拠はない。
だが分かる。
長年人間を見てきた勘だった。
それに。
結婚式でのエレノアの表情。
あれが演技なら、
役者顔負けだ。
そして何より。
グレンが、
あんな顔をしたのを初めて見た。
だからレオンは、
小さく目を細める。
(……少し調べる必要があるな)
その頃。
控室では。
エレノアが、
そっと唇へ触れていた。
誓いの口付けが落ちた場所。
少しだけ頬を赤くして、
嬉しそうに微笑む。
「……旦那様」
夢みたいだった。
まだ、
この時の彼女は知らない。
これから始まる結婚生活が、
想像よりずっと苦しく、
切ないものになる事を。




