太陽神の睥睨-3
音がした方向に首から上を向けて見えたのが、こちらも見覚えのある顔だったので、アリーンは無理にでも考えをまとめ始める他なかった。
「読み終わったよ、あれ。あとで試させて。えっと、あなたは確か……」
ギルバート。アリーンと一緒に繰り上がった、もしエルヴェがなんらかの人に言えない手段を使っていなかったなら、もっと栄誉ある優勝を果たしたはずの少年。
確か、失踪中である。どこかで捜索願が出ていたけれど、田舎出身で、かつ帰らなくなるまでの事情も火を触るような代物だから、まともに取りかかろうとしている大人はひとりもいなかったはずだった。
「アリーンといいます。大会以来ね。また会えて嬉しいわ、忘れられているのは少し悔しいけれど」
近寄って手を差し出すと、少年は躊躇ってからその手を握った。そういった挨拶には慣れていない様子だった。
ついでに(挨拶の方がついででないとは言えないけれど)確認した限り、彼にも魔力がなかった。ただ気になる部分はあった。
「あなた、今、ここにいるから助かっているのであって、この屋敷から半歩でも出たら死んでしまう状態じゃないかしら? ペリド家が素晴らしい技術を持っていて良かったわね。それとも、逆? あなたも変な杖を持たされたの?」
見るからに瞠目したギルバートは、エルヴェと違って随分と素直な人間だった。おそらく、自分のことを子供だと思っている部類の。
同世代の女子と話す機会もあまりないのか、目が合わなかった。
「あ、あの……え? 分かるんですか」
「そんなに硬くならないでほしいわ。わたしたち、違っても一歳くらいでしょう。ね、お友達にならない? 一緒にここから逃げましょうよ」
少女は幼いころから愛想良く振る舞うのが得意だった。年下相手ににこやかな仮面を被るのもどうかとは思ったけれど、今更それで傷つくほど自尊心が堅牢なわけではない。
「目の前で逃亡の話をされるとは、なめられたもんだな。言っとくけどアリーンさん、あんたも今外に出たら――」
喋っている間に次は底意地の悪いことを言ってやろうと思い付いた人間の顔を、アリーンは嫌というほどよく知っている。
「一番上のお兄さんみたいになるぞ。なんて名前だったっけ、アーノルド? アルベルト? アリスティド?」
とぼけた口調のせいで、本気かどうかは分からなかった。なにせ、わざと忘れたふりをされるにせよ、本当に忘れられているにせよ、件の兄に関してはどちらの態度の人間もごまんといるので。
ほとんど初対面に近い女子に手を握られたままのギルバートが、しどろもどろになりながら閃いた顔をした。
「アリスティド・サピロス? じゃああなたはもしかして、ワルター・シルバーノットのお弟子さん?」
少年の頭の中でなぜそこが繋がるのか理解できなかったので、アリーンは首を曖昧に動かして返事を保留とした。ぱっと握手していた手を離すと、そのまま嫌味な青年の方を向く。
「ペリドのご子息の名に恥じない事情通のようで大変結構。見せびらかさなくてもいいわ。ところであなたたち、こんな密室に男が二人と女が一人って、わたしの気持ちを考えようとは思わないの? 初めて知ったけど、魔術が使えないって怖いのね。あなたの気持ちは分かった気がするわ、エルヴェさん」
仕返しのつもりで口にしたことだったが、本音でもあった。魔法の大衆化によって護身用の魔術が広く普及するようになってから、よほどの考えなしでなければ人を襲おうなどと思わない世の中になりつつある。そこへ、魔力を抜かれた女子と、それを知っている男がいればどんなことが起き得るか。
苦虫を噛み潰した顔のあとにやや申し訳なさそうに眉尻を下げた家主と違い、ギルバートは彼女が言わんとすることに気付くまでにたっぷり数秒は使ったらしい。
「それについては悪いな。人間は意外と簡単に殺せるから、使えそうなものを適当に見つけて持っていてくれて構わない。なんで呼んだかって話もまだだったし」
物騒な方法で信用を勝ち取ろうとしてきたことを面白がって、アリーンはそれに甘えることにした。一部の本棚には銅像の類が並んでいるので、そこから踊る男性の人形を手に取る。足が尖っているから。
では話を聞こう、と客人気分で椅子に座り直すと、エルヴェは呆れたように笑った。
「今、ギルバートが弟子の話をしただろ。こいつ、カラミア・コキノの弟子なんだ」
「では、ハムラーワット将軍を優先的に捜す必要はないのですね」
エレニの捜査方針の説明も、それを聞いたトランの安心したような呟きも、ワルターは隣で黙って聞いていた。特に後者は、聞こえないふりをしているていで。
専門家として招ばれているのが自分ではないことなど滅多にないので、特に発言を求められないまま観察する側に回る絶好の機会を逃すわけにはいかなかった。山奥に出かけるのは久しぶりだった。
保安隊での立場上、ワルターに回ってくるのは済んだことの報告書に目を通す仕事ばかりである。今でこそ自室で書類と睨み合ったり、部下を問い質したり、罰則や報奨を与えたりしているものの、本人は一般隊員として過ごしていた日常を定期的に思い出していた。
魔術を使った捜査そのものが得意なわけではなかったので、トランが目を瞑って魔力の痕跡を探る間、ワルターは邪魔になるのを恐れて極力彼に触れないよう細心の注意を払い、ついでに気配もなるだけ消すことにしていた。
「ええ。普段は部下に足を遣わせる人にしては珍しく、本人直々にいらっしゃったというのが少し気がかりですが」
「拉致を任せられるような部下がいなかったんだろう」
捜査仲間がそれぞれの目を丸く開いてワルターの方を見た。そんな馬鹿なことがあるか、という眼差しだった。
将軍という肩書きに違わず、ナイーマ・ハムラーワットという女性はプロテア軍の中でも指折りの権力者である。平時下ではあらゆる人員を好きに従わせることができるのだから、子供をひとり拉致するにあたって適任者が見つからないわけはない。
「私の弟子を甘く見てもらっては困る。よほど訓練されていない限り、あの子の抵抗を抑え込める人間はそういない」
トランはいまいち彼の言わんとすることを理解できていない様子だった。訓練されていない軍人などいない。彼の師だって退役兵である。
老兵であるハムラーワット将軍の力が言葉と意思にのみ宿るものだとする勘違いは、本人には都合が良い。しかし、老いがあらゆるものの劣化を招く、という常識は魔術師にあるまじき考えだった。本人もおそらく勘付いている通り、努力とともに身に付けざるを得なかった常識を捨てられないから、トランは何年も器用貧乏の名に甘んじているのだ。
曖昧な目配せを寄越した妹弟子は納得した様子だったので、ワルターは軽く頷いた。役職が求めるような極端な秘密主義を積極的に破ることはなくても、絶対に守るべきとはお互い思っていなかった。
「あのカラミア・コキノに魔法を教えたのは将軍です。本人の才能だけであれが出来上がることなどない、と私は信じたいわけですが」
微細な魔力の流れに触れていたのであろうトランの手が、一秒にも満たない短い間止まったのを、保安隊員たちは見逃さなかった。
「偉大な人の指導はもちろん大切です。アリーンさんも非常に優秀な魔術師になるでしょう――軍に勧誘されるくらいには。ですが僕は、コキノ選手をあそこまで鍛え上げたのは戦場だと思っています。同じ理由で、将軍の腕前も疑いはしません」
表情を取り繕いはしたものの、トランの動揺は隠せるようなものではなかった。良くも悪くも正直で、良くも悪くも、常識人なものだから。
最後に出場した大会以降、彼は一度として魔法競技に手を出していない。芸術性を競うにしても、攻撃性を磨くにしても、彼は自分に残された好敵手を自分のみと定めたようであった。
当時、彼の精神状態を気にする余裕のある人間が誰一人としていなかったので、カラミアという選手と彼女が起こした事件について、トラン・アメト個人がなにを思ったかは誰にも分からない。当然良くは思っていないであろうとは誰しもが想像できるけれども、具体的になにに対してどういった感情を覚えたかは、彼自身しか知らないのである。
その場にいた誰もが一生忘れることのない、真っ赤な髪をした少女の肢体から溢れ出す才能の輝きが、いとも簡単に人ひとりの命を奪うのを見て、正常な人間なら恐怖するに決まっている。問題は、魔術競技の選手に正常な人間などひとりとしていない、ということだ。
「疑わないからこそ、今僕がアリーンさんの魔力を辿れていること自体から、シルバーノットさんには残念なお知らせをすることになりそうです。カッライスさんには――ええと、待ってください」
空中のある一点を触るようなそぶりをして、トランは黙った。残念なお知らせ、の詳細をすぐに訊くことは憚られたし、いずれにせよ野暮なことだった。
青年は細めていた目を大きく開けて、たった今待つことを要求した相手の方へ顔を向けた。
「こんなに近くに――なぜ、首都からこんなにも近いところに、人工魔術の痕跡が?」
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