太陽神の睥睨-2
もしも弟が来たら、と言われたものの、ギルバートの元へは数日の間、誰一人として会いに来なかった。エルヴェが顔を出したのですら三日目のことで、その際両親と師とに自分が無事であることだけでも報せたいと懇願した少年に向かって、彼は至極冷静に言い放った。
「それじゃあ行方不明になった意味ないだろ。親御さんは心配だろうけど、今更じゃないか?」
三日の間にその考えが一度も浮かばなかったわけでは決してない。ないが、どうしても目の前の資料の方に興味が向いてしまって、広い屋敷のどこへ消えたのか定かではない主を捜しに出るよりはとそちらを優先してしまったのである。
「で、知りたかったことは見つかったか? どれを読んだんだ」
そう質問されるだけで、両親に対する申し訳なさが吹き飛んでしまうくらいだった。ギルバートは、親の心子知らず、という言葉を思い出してから頷いた。
「とりあえず、これとこれ。魔術基礎教本、とプロテア魔術史。師匠からもらった本も少し。それで、ええと――壁の穴なんだけど。直せないかなと思って」
少年が指差した壁を、エルヴェはじっと睨んだ。近寄ってみると、数日前に開いた穴はそのまま残っているように見えた。
エルヴェはその感覚を知っていた。
「塞いだように見せてるのか。俺には見えないから、本当は開いたままなんだな」
「あ、ごめん! 見えないんだったっけ。風とかも通らないようにしてみたんだけど……その、教本に載ってることを試したくて。普通に魔法が使えてる気がするんだけど、これって大丈夫なの?」
三日間、ギルバートは知っているものから新しく覚えたものまで、手のひらに収まるほど小規模な魔術を片っ端から試しにかかっていた。どれも問題なく扱えるものだから、屋敷の主が言っていた権力とやらは全く実感できなかった。
机に転がっていた杖を見て、エルヴェは溜め息を吐いた。
「いや、全然大丈夫じゃない。おまえ、この三日間なにも飲み食いしてないし、用も足しに行ってないし、体を洗ったりもしてないだろ。なにも言わなかったのはわざとだけど、ここまで無反応とは思わなかったな」
ギルバートは首を傾げ、前髪を撫で、腹を触り、ようやく口をあんぐりと開けた。そう言われると確かに、生理的な現象が鳴りを潜めている。言われるまで気が付かなかったのが急に恐ろしくなって、彼はふらふらと椅子に座り込んだ。
どんなに物事に没頭していても、食事の話をされると空腹感が湧いて出てくる年頃である。それが、意識してさえ喉の渇きすら感じ取れなくなっていた。髪を何度指で梳いても、何日も洗っていないとは思えないほど指通りが良い。
「ここで誰も魔法が使えなくなる仕組みを教えてやろうか。人間の生理機能をうんと低下させる技術を流用して、この家全体をそういう造りにしてあるんだ。魔力がどういうふうに身体の中を巡ってるのかは説明しただろ? 体内の魔力の流れを遅くすると、臓器の働きも同じだけ遅くなる。すると魔術も使えなくなる、って寸法だ」
今日ばかりは、難しい話をされても眠くならなかった。ギルバートはやや楽しげに話し始めた青年の顔と、自分の目と同じ色をした杖を交互に見る。
「なあ、魔術を試すとき、最初も含めて毎回杖を使ってただろ。でも生理現象は起きてない。杖が促進剤みたいになって、魔力だけが勝手に体内を巡ったんだ。今の状態で外に出ると、血管も臓器も破裂する。普段はうまいことやって脳みそは切り離して動くようになってるけど――ほら、眠くはなっただろ――そうなると頭もただじゃ済まないかもな」
頭は正常に機能している、と聞いて、ああだから眩暈がするのかとギルバートは納得した。健康優良児として生きてきた十六年間で、精神的な要因で調子が悪くなるのは初めてのことだった。救いがあるとすれば、説明を聞く限り、胃の中のものが逆流するまでにはそれなりの時間がかかることであった。
「これに関しては取り上げておかなかった俺が悪い。なんとかしてみよう、本持って着いて来い」
あえて杖には言及しなかったのを、置いていけ、という意味だと解釈して、ギルバートはふらふらと立ち上がった。エルヴェが顔を出す直前まで開いていた本に書かれていたことを、脳の片隅で思い返しながら。
気が付くと座り心地の良い椅子に座らされていた。
自分の手の中に、部屋に保管してあるものとは違う杖があることを認識して、アリーンは眉を顰めた。師の意向で元から杖そのものに触れ慣れていないので注意を向けていなかったが、手触りもなにもかも、数年前に賜ったものとは似ても似つかなかった。
握らされているものがただの棒ではないことには、せめて自分と同程度の鍛錬を積んでいなければ気付けないだろうと自信を持って言えるほど、それはなんの変哲もない鉄製の棒だった。凹凸も、溝も、なにもない。
杖だと言い切れるのは、それに触れている指と手のひらから、微量の魔力が漏れ出ているのが分かったからだ。手を離すと、やはり金属質の音がする。落ちた先は地面ではなくて床だった。木製の。
「ははあ、分かるもんなんだな。さすが」
背後の至近距離から声がしたので、アリーンはつい目を開けてしまった。狸寝入りというか、まだ目覚めていないふりをして、周囲の様子を窺うつもりだったのに。
人の気配が全く感じ取れなかった。杖に気を取られていただけではない。本当に、気配がなかった。少女は振り返る。
見たことのある顔が目の前にあった。
「あなたは――」
すぐに立ち上がって飛び退こうとして、下肢の違和感に動きが止まった。その違和感は、足の爪先に、くるぶしに、膝裏に、またそれだけに留まらず、手の水掻きから喉にまで及んでいた。
その感覚というよりは、状態には残念ながら覚えがあった。忌々しい、とアリーンは思った。
「魔力、が……さてはこの杖ね。説明していただける?」
椅子から今度こそしっかりと立ち上がると、少女はやはり(そんなわけはないのに)存在感のない話し相手の方を振り返った。珍しい緑の目を、忘れるわけがない。今更。
「エルヴェ・ペリドさん。ここはどこ? なんの真似? ハムラーワットとかいう女性とはどんなご関係? この杖はなに? あなた、どうして」言葉を切ったのは確認のためであって、わざとではなかった。「どうして魔力がないの。わたしになにをしたの?」
最初に聞いた声の調子に違わず、青年は上機嫌そうに微笑んでいた。
上から下まで真っ白い服を着ているので、屋内のあらゆる光を反射していて少し眩しい。そうなりやすい素材で上下ともに揃えているあたり、おそらく意図してそういう服装を選んでいる。
エルヴェ・ペリド。先の地区大会で優勝したくせに、その場で辞退してその座を二位の――ギルバート・ディオニーという名前らしい少年に譲っていた。彼の名前だけは大会以前から聞き及んだことがあったけれど、実際に顔を合わせたのはあのときが初めてだった。
大会直後に彼が失踪した話は小耳に挟んでいる。その件で師が駆り出されたことも、結局調査には彼の(アリーンは二人の関係性をいまいち理解しかねていたが、一応はただの)部下が向かったことも。部下が調査に向かったその日から、ギルバートまで行方知れずになっていることも。
家柄と(願わくば)人柄の力で、情報ならそれなりに入ってくる立場にある自覚が少女にはある。
「どうも。前回は挨拶できなかったから、初めまして、でいいか」
挨拶もなにも、ごきげんようも言わずに軽い説教をしたのはアリーンの方である。話し相手がばつの悪そうな顔をするのを眺めて、青年は嫌な笑い方をした。
「ご両親はお元気かな」
「質問に答えて。ここはどこ?」
エルヴェは肩をすくめ、肘から先だけを胴の前から横に広げた。自分で考えろということだ。
素直に腹が立ったので、アリーンは青年を睨め付けて口を開いた。
「――あなたの家ね。魔力を制限する細工がしてある。あのハムラーワットさんは軍人で、たぶん相当階級が高い。協会の建物に入れる軍人なんてそういないもの。そうなるとあの飛翔機は彼女のものということね。杖は、ええと……持ち主の意思に関係なく魔力を抽出するとか、そういうもの?」
床に転がったままの杖を一瞥してから、アリーンはまたエルヴェを睨んだ。わざとらしく小さな拍手をしているので一度平手でもくれてやろうかと考えたものの、色々と守る面子があるので諦める。
「お見事。他には?」
はっと少女は目つきを緩めた。この問答は師が自分に稽古をつけるときのやり方にそっくりだった。
ワルターは自身の稀有な才能を嫌味なほど認めたがらない。指導についても同じである。
口で説明されようと見て覚えなさいと言われようと、彼の魔術を真似できる人間はいない。だから彼の、教え子自身に考えさせる指導方針は(少なくともアリーンにとっては)抜群に効果的な教育方法だった。そう言っても師は首を傾げるばかりだったけれど。
「他には、ねえ。あなたが魔力欠乏症を患っていることは分かるけど。それならどうしてあの大会で優勝できたのか気になるわ。辞退したあたり、あまり人には言えない理由なのかしら」
青年が目を細めたので、全て図星だと分かった。
また口を開きかけたとき、扉の開く音がした。
「あれ。なに、その人にも行方不明になってもらうの?」
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