プロメテウスの炯眼-12
エレニは家に帰ると必ず、玄関で一度立ち止まる。扉が閉まる音が響き終わるまで。
それが習慣だった。その家が、帰るべき我が家になってから、ずっと。
「あっ、おかえりなさい。お夕飯、もう少しで出来上がりますからね!」
台所の方から金髪の女性が顔を出した。ここ最近の自分の料理の腕が落ちているのは、朝晩と彼女に頼り切っているせいだ、とエレニは思った。
「ただいま、フュシャ。ありがとう」
女性は数ヶ月前、保安隊の訓練生が放った魔術が頭部に直撃するという事故に遭い、その後遺症で記憶の一部を失っていた。身元が分からず、親類との連絡も取れなかったため、訓練場の責任者としてエレニが引き取った次第である。
独り立ちしてから寂しさを覚えることはなかったものの、明るい家に帰ることは、エレニにとってそれなりに幸福なことだった。
「今日のお仕事はどうでした? 少なくとも泥だらけじゃあありませんね!」
保安隊の仕事は多岐に渡る。尋問は得意だったが、事件や事故の対応も別に苦手ではない。エレニは幼いころから、鬼ごっこでは負けなしだった。
「昔会った人とお話しして、ちょっとだけ脅かして来たんです。あんまり効果はありませんでしたけど」
個人的に保護しているだけの一般人に、ワルターにした報告と同じことを喋るわけにはいかなかった。規律を特に気にしないとはいえ、エレニにだってそういった最低限の常識を守る気はあった。
フュシャは手で口を隠して、演技がかった仕草をしてみせた。
「エレニさんこわ〜い。あっ、スープはもうできてますけど、食べますか?」
台所の目の前のテーブルに向かい、椅子を引いて座ったエレニは軽く頷いた。言われてみれば、かぼちゃの甘い匂いと、上品な胡椒の香りが漂っている。
嬉しそうに笑ったフュシャは台所に向かって、大鍋の蓋を開けた。鼻歌混じりに。
食欲をそそる匂いに混じって、なにか、別のものが。嗅覚に訴えているとは言い切れないなにかが。ある、とエレニの生存本能が警鐘を鳴らした。
もし本能が過剰反応していないのなら、玄関扉が閉まる前からあった予感は、見事に当たっているということだった。不愉快なことに、外れても問題のない予感ほど当たってしまうのは、昔から兄弟子と同じだった。
「フュシャ。今日、どこかへ出かけましたか」
鼻歌が止んだ。
「いいえ? どこへも行ってませんけど」
どうしたんですか、と続ける声色に違和感はなかった。
事故の直後からすでに、フュシャは驚異的なまでに冷静だった。この女性が記憶を取り戻さない方が都合がいいというエレニの確信は、彼女を自宅に住まわせてから時間が経つごとに、より強固になるばかりだった。
「私相手に嘘をつく度胸は認めましょう」
エレニは席を立って、あえてゆっくりと台所へ向かった。
「フュシャ、私がいつも扉が閉まり切るまで玄関に突っ立っているのは、ただそうしたいからというだけではありません。ここの合鍵を持っている人や、空き巣などが勝手に入ったとき、私にだけ分かるようになっているんです。あまり魔力のないあなたは気付かなかったでしょうね」
胡椒の香りがほとんど掻き消えていた。かぼちゃに至っては面影すらない。脳に直接刺さるような、形容しがたい匂いが、今や家中に充満している。
「ねえ、フュシャ、そのスープの中身はなんですか。参考までに、教えてください」
返答は言葉の形をしていなかった。
銀色の光沢を持った杖が、その杖が放つ眩い光が、陰険な答えとなってエレニの前に現れただけだった。
会長室の扉は常に閉まっている。師は密閉されていない空間では仕事に身が入らない人間だった。
ワルターは上がった息を落ち着ける時間も作らずに扉を叩き、名乗り、返事を聞いて取っ手を押した。自分の弟子がもう着いて来ていないことは分かっていた。
「先生――先生。飛翔機が。誰を」
深呼吸をしなければそれ以上の言葉を紡げなかった。ワルターは顔を上げた。師は落ち着いた様子で座っていて、会長室には先客がいた。
「どうしたんです兄さん、用もないのにここへ来るなんて」
前回来たときと同じく、その先客とは妹弟子だった。それでもワルターは我が目を疑った。
「エレニ? 君こそ、その怪我はどうした」
「これですか。少し、失敗しまして」
彼女は顔の右半分を灼かれていた。特別真面目ではないものの、仕事で手を抜いたりすることの滅多にないエレニとしては珍しい、どころか、ほとんど初めてに近いことだった。
今は気にしている場合ではなかった。
「そうか、早く治るよう祈っておく。先生、弟子を連れて来る途中で軍の飛翔機を見かけました。あの将軍ですか」
「そうだが、ワルター。その弟子はどこに?」
言われて初めて、彼は振り返った。弟子の体力が同年代の子供と比べて著しく低いことは、彼女に先生と呼ばれるようになってからいくらも経たずに分かったことである。
ほんの少し蝶を追っただけで、子供らしく飛んで跳ねただけで、川の中を歩いただけで、アリーンは地面に倒れ込みそうになってしまう。彼女がそうして膝を擦りむくのを何度阻止してきたかは数えられたものではない。
だからワルターは、弟子の気配だけは鋭敏に感知できるはずだった。
「――アリーン?」
通路は知らない気配ばかりが埋め尽くしていた。少女の影も形もない。
エレニが踵を鳴らして廊下の方を向いた。足音から滲む重心の偏りから察するに、火傷は顔だけでなく、下肢にまで及んでいるようだった。
「かかりましたね。追いましょう、ワルター」
「は?」
「エルヴェくんに繋がる手がかりです。ご両親には許可を取っていますからご心配なく。魔力捜査の専門家も連れて行きますが、いいですね、先生?」
いつもの薄い笑みを消して、エレニは師を振り返った。彼が頷くことは分かっていた。だからそれを見届けもせずに、兄弟子の横を通って外へ向かう。
「行きなさい、ワルター」
「――おかしいと思いました。誰のことも私には劣ると言って憚らないあなたが急に、優勝したわけでもない弟子に会いたいと言うから」
師は顔色ひとつ変えない。
扉が閉まる直前、会長室内には舌打ちが響いた。
こうなるから、顔を合わせたくなかったのだ。
エルヴェが杖を指で弾いてしまうまで、ギルバートは微動だにできなかった。
「ま、気にするなよ。言っただろ、才能だって」
なんでもないように笑う青年が信じられなかった。
たった今、自分の顔から握り拳ひとつ分のところを、壁に穴を開けるような魔術が通り過ぎたというのに。冷静などという域を越えている、というのがギルバートの感想だった。
少年にも似たような経験はある。一度で仕留め損ねたイノシシの突進などが近そうだった。あの、背筋が凍って後頭部が痺れるような感覚には、決して慣れることなどできないはずだ。
「気にするな、って。いや。ごめん……ごめんっていうか。なんで」
単語を並べるのにここまで苦労するのは久しぶりだった。口下手が変わっていない自覚はあったけれど、ここ最近で言葉選びを目立って間違えた記憶はなかった。
「なんで? 俺がカラミア・コキノが手ずから作った杖を信用すると思うか? 魔術のひとつも満足に使えないくせに親からこれだけ資産を分捕っておいて、俺が危ない目に遭ったことがないとでも?」
声の調子は軽いが、エルヴェの目は笑っていない。最初に会ったときと同じように緑色に光っていればまだ、既視感が不安を減らしてくれたかもしれないのに、彼はあの生気のない目でまっすぐにギルバートを見ていた。
手ずから作った、という言葉が聞こえると同時に、床に転がった杖が少年の視野の際で脈打った。少なくとも彼にはそう見えた。
「元々魔術っていうのは生活を豊かにするためのものじゃない。どんな魔術にも殺傷力はある。だからコキノさんの事件は事故として処理されたんだ。殺意の有無が判断できなかったから」
エルヴェは今まで口を付けていなかった茶杯を一息で空にすると、未だに動けないままでいるギルバートと目線を合わせるように立ち上がった。
そしてそのまま、壁に沿って並んでいる本棚を指差す。
「持ってきた本、それ、古いだろ。ここには最新の情報があるから、詳しく知りたいなら好きなだけ読んでいい。時間ならある」
ギルバートはあの分厚い本の最初の頁に書かれていた文言を思い出した――ヘレネー・テッサリア、人類に魔法を与えた神に捧ぐ。
青年は立ち上がって拾った杖を元の持ち主に投げて寄越し、そのまま部屋から出て行く素振りを見せた。
「ちょ、ちょっと。どこ行くの」
「行方不明になってくれって言っただろ? その準備をしてくるんだ。魔術の本とか、大会の映像記録とか……あと、コキノさんについての調査書とか。色々あるからさ、暇つぶししててくれ」
人に対する餌やりがやたらと巧い。門の前で権力の話をしていたところからも垣間見えたが、さぞ世界が広く見えているのだろうな、とギルバートは悔しく思った。自分と齢がひとつしか違わないのに。
返事も待たずに去って行った青年の足音は、ややあってまた戻ってきた。客人が自分の本を開きかけているところを見て、エルヴェは目を細めた。
「それからもうひとつ。もし俺の弟が来たら、殺しておいてくれ。頼む」
平坦な声だった。だからこそ、それは本心に違いなかった。
読んでくださってありがとうございます。
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これで第一章『プロメテウスの炯眼』は終わりです。
次回からは『太陽神の睥睨』をお送りします。




