前編 「父さんが、星ではなく瑠璃を見つけた日」
本編では、父の再婚相手として突然家にやって来た元国民的アイドル・白鳥瑠璃。
では、父・高野誠司と瑠璃は、どこで出会い、どうして惹かれ合ったのか。
前編では、二人の出会いから、少しずつ距離が縮まり、交際へ進んでいくまでを描きます。
元アイドルとしてではなく、一人の女性として普通の生活を探す瑠璃。
そして、妻を亡くしてから父親として生きてきた誠司。
不器用な二人の静かな恋の始まりを、楽しんでいただけたら嬉しいです。
高野誠司が白鳥瑠璃と初めて出会ったのは、特別な場所ではなかった。
高級ホテルのラウンジでも、芸能関係者の集まるパーティーでも、ドラマのような偶然の再会でもない。
駅前の、小さな書店だった。
その日、誠司は仕事帰りに娘の美羽に頼まれていたノートと、息子の直人が読みたがっていた参考書を買うため、駅前の書店に立ち寄っていた。
母を亡くしてから、直人も美羽もそれぞれに我慢することが増えた。直人は早く大人になろうとし、美羽は寂しいと言わなくなった。誠司はそれが分かっていながら、毎日の仕事と家事に追われて、二人に十分な言葉をかけてやれている自信がなかった。
だからせめて、頼まれたものくらいは間違えずに買おうと、文具コーナーと参考書コーナーを何度も行ったり来たりしていた。
そのときだった。
「あの……すみません」
控えめな声がした。
振り返ると、帽子を深くかぶった女性が立っていた。大きめの眼鏡に、白いマスク。地味な服装なのに、どこか姿勢が綺麗で、そこだけ周囲から浮いて見えた。
「この辺りで、料理の基本が分かる本って、どこにありますか?」
「料理の基本、ですか?」
「はい。できれば、本当に基本から……お味噌汁とか、卵焼きとか、スーパーで何を買えばいいのかとか、そういうところから分かるものを……」
誠司は少し驚いた。
大人の女性が、そんなに真剣な顔で料理の基本書を探していることが、少し珍しく思えたからだ。
「それなら、たぶんこっちですね」
誠司は棚を案内した。
女性は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ。僕も、妻を亡くしてから料理を覚えたので、最初はこういう本に助けられました」
何気なく言った一言だった。
けれど女性は、そこで少しだけ目を伏せた。
「……そうだったんですね」
「あ、すみません。急に重い話を」
「いえ。むしろ、少し安心しました」
「安心?」
「大人になってからでも、普通の生活って覚えられるんだなと思って」
不思議な言い方だった。
普通の生活。
それは、誠司にとっては当たり前で、同時に難しいものだった。
毎朝、子どもたちを起こして、朝食を作って、洗濯をして、仕事に行って、帰って、夕飯を作って、宿題を見て、学校のプリントに判子を押す。
その繰り返しが、どれだけ大変で、どれだけ尊いものなのかを、妻を亡くしてから知った。
「普通の生活って、意外と難しいですよ」
誠司が言うと、女性は小さく笑った。
「やっぱり、そうなんですね」
その笑顔を見た瞬間、誠司は少しだけ息を止めた。
どこかで見たことがある。
そう思った。
けれど、それが誰なのか、すぐには思い出せなかった。
女性は料理本を一冊手に取った。
「これにします」
「いいと思います。写真も多いですし」
「ありがとうございます。あの……」
「はい?」
「卵焼きって、最初から綺麗に巻けるものですか?」
誠司は思わず笑ってしまった。
「無理です。僕は最初、ただの甘いスクランブルエッグになりました」
女性も、少し遅れて笑った。
その笑顔は、テレビの中で輝いていた誰かのものではなく、ただ不器用に普通を探している一人の女性のものだった。
その日は、それだけだった。
名前も聞かなかった。
連絡先も交換しなかった。
けれど数日後、誠司はまた同じ書店で彼女に会った。
今度は洗濯の本を探していた。
「今度は洗濯ですか?」
「あ……この前の」
彼女は驚いた顔をしたあと、少し恥ずかしそうに本を隠した。
「柔軟剤と洗剤の違いが、まだ少し……」
「分かります。僕も最初、全部同じだと思ってました」
「同じじゃないんですか?」
「同じじゃないです」
そこから、二人は少しだけ話すようになった。
書店で偶然会えば、家事の話をした。
スーパーで偶然会えば、野菜の選び方を教えた。
駅前のベンチで会えば、少しだけ世間話をした。
彼女は、自分のことをあまり話さなかった。
ただ、芸能界にいたことがあるとは、ぽつりと打ち明けた。
「昔、人前に立つ仕事をしていました」
「そうなんですね」
「驚かないんですか?」
「驚いてほしいですか?」
誠司がそう聞くと、彼女は困ったように笑った。
「分かりません。驚かれるのも怖いし、気づかれないのも少し寂しいです」
その言葉で、誠司はようやく気づいた。
白鳥瑠璃。
いや、かつての芸名は、星乃ルリカ。
国民的アイドルグループのセンター。
誠司も若い頃、テレビで何度も見たことがあった。
けれど、彼は何も言わなかった。
目の前にいる彼女は、ステージの上の星乃ルリカではなかった。
料理本を抱えて、卵焼きに悩み、柔軟剤と洗剤の違いに戸惑う、白鳥瑠璃という一人の女性だった。
「じゃあ、今は?」
誠司は聞いた。
「今は……普通に暮らす練習中です」
「練習ですか」
「はい。でも、なかなかうまくいかなくて」
「普通の生活に、満点なんてないですよ」
誠司がそう言うと、瑠璃は驚いたように彼を見た。
「僕も毎日失敗してます。味噌汁はしょっぱいし、洗濯物はたまに縮むし、学校のプリントは締め切り当日に見つかるし」
「それでも、お父さんをしているんですね」
「しているというより、させてもらっている感じです。子どもたちに」
瑠璃は、その言葉を大切そうに聞いていた。
何度目かに会った日、雨が降った。
駅前の小さな喫茶店に入ることになった二人は、初めて長い時間を一緒に過ごした。
瑠璃は、自分が芸能界を引退した理由を話した。
笑顔を求められ続けるうちに、本当に笑いたいときが分からなくなったこと。
普通の買い物も、普通の外食も、普通の恋愛も、全部がどこか遠いものになっていたこと。
そして今、自分が何者なのか分からなくなることがあること。
誠司は黙って聞いていた。
慰めの言葉を急がなかった。
それが、瑠璃には不思議だった。
「高野さんは、私を見ても、星乃ルリカだって騒がないんですね」
「騒いだ方がよかったですか?」
「いえ……」
「僕にとっては、今ここでコーヒーが熱すぎて飲めない白鳥さんの方が大事なので」
瑠璃は目を丸くした。
そして、久しぶりに声を出して笑った。
それから二人は、時々会うようになった。
誠司は最初、恋愛のつもりなどなかった。
妻を亡くしてから、誰かを好きになることに罪悪感があった。
子どもたちの父親として生きることで精一杯で、自分がもう一度誰かと手を取り合う未来など考えられなかった。
瑠璃も同じだった。
自分の過去が相手を巻き込むのではないかと怖かった。
元アイドルという肩書きが、普通の家庭に迷惑をかけるのではないかと思っていた。
それでも、二人は会うたびに少しずつ心を許していった。
瑠璃は、誠司の不器用な父親ぶりを笑った。
誠司は、瑠璃の普通になろうとする努力を尊敬した。
ある日、瑠璃が初めて作った卵焼きを持ってきた。
形は崩れていて、少し焦げていて、甘さも強かった。
けれど誠司は一口食べて言った。
「おいしいです」
「本当ですか?」
「本当です。少なくとも、僕が最初に作ったものよりは百倍おいしい」
「それ、褒めていますか?」
「もちろん」
二人は笑った。
その帰り道、瑠璃は小さく言った。
「高野さんといると、私は元アイドルじゃなくてもいいんだって思えます」
誠司は立ち止まった。
「僕も、白鳥さんといると、父親だけじゃなくてもいいのかもしれないって思えます」
その日、二人は初めて互いの気持ちを知った。
派手な告白ではなかった。
指輪も花束もなかった。
ただ、雨上がりの歩道で、並んで歩きながら、誠司が不器用に言った。
「よかったら、これからも会ってくれませんか。偶然じゃなくて」
瑠璃は少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「はい。私も、偶然じゃなく会いたいです」
こうして、高野誠司と白鳥瑠璃の交際は始まった。
世間から見れば、普通の会社員の父親と、元国民的アイドル。
釣り合わないと言われるかもしれない。
けれど二人にとっては違った。
不器用に家族を守ってきた男性と、普通の幸せを探していた女性。
二人は、互いの孤独を少しずつ照らし合うように、静かに恋人になった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は番外編・前編として、高野誠司と白鳥瑠璃の出会いから、交際に至るまでを書きました。
本編ではすでに「お義母さん」として登場していた瑠璃ですが、その前には、普通の生活に憧れながらも不器用に悩む一人の女性としての姿がありました。
また、誠司もただ再婚を決めた父親ではなく、妻を亡くし、子どもたちを守りながら、自分自身の幸せに迷っていた一人の男性として描いています。
後編では、交際を始めた二人が、直人と美羽のことを考えながら、結婚、そしてプロポーズへ進んでいくまでを描く予定です。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




