後編 「指輪より先に、家族になる覚悟を」
前編では、父・高野誠司と元国民的アイドル・白鳥瑠璃が出会い、少しずつ距離を縮め、交際へ進んでいくまでを描きました。
後編では、交際を始めた二人が、直人と美羽の存在を大切に考えながら、結婚という未来へ向き合っていきます。
妻を亡くしてから父親として生きてきた誠司。
元アイドルではなく、一人の女性として家族になることを願う瑠璃。
二人がなぜ結婚を決意したのか、その理由を見届けていただけたら嬉しいです。
交際が始まってからも、高野誠司と白鳥瑠璃の関係はとても静かなものだった。
派手なデートはしない。
人目の多い場所にも行かない。
瑠璃が元国民的アイドルである以上、どこで誰に気づかれるか分からなかったからだ。
だから二人のデートは、いつも小さなものだった。
駅から少し離れた喫茶店。
人の少ない公園。
閉店間際のスーパー。
誠司の仕事帰りに、瑠璃が買い物の練習をする。
瑠璃が作った料理を、誠司が味見する。
ただそれだけの時間が、二人にとっては特別だった。
「今日は肉じゃがを作ってみました」
「すごいですね」
「でも、じゃがいもが少し溶けました」
「大丈夫です。僕はもっと溶かしたことがあります」
「高野さん、それは励ましですか?」
「経験談です」
瑠璃は笑った。
誠司も笑った。
若い恋人同士のような華やかさはなかった。
けれど、二人の間には穏やかな安心感があった。
ただ、誠司にはずっと迷いがあった。
瑠璃のことを大切に思えば思うほど、子どもたちの顔が浮かんだ。
直人と美羽。
母を亡くした二人に、新しい母親が必要だと勝手に決めていいのか。
父親である自分が恋をすることで、二人を傷つけるのではないか。
瑠璃は優しい人だ。
でも、だからこそ、彼女を高野家の事情に巻き込んでいいのか分からなかった。
ある夜、喫茶店で向かい合っていたとき、瑠璃が静かに言った。
「高野さん、最近、何か悩んでいますよね」
誠司は驚いた。
「分かりますか?」
「分かります。高野さん、悩んでいるとコーヒーを混ぜる回数が増えます」
「そんな癖が……」
「はい。今日はもう二十回以上混ぜています」
誠司は苦笑した。
そして、隠すのをやめた。
「子どもたちのことです」
瑠璃は、ゆっくり背筋を伸ばした。
「直人くんと、美羽ちゃんですね」
「はい。僕は白鳥さんといる時間が好きです。でも、僕は父親です。二人に寂しい思いをさせてきた分、これ以上傷つけたくないんです」
「分かります」
「もし、僕たちの関係を話したら、二人は戸惑うと思います。母さんの代わりなんていらないって思うかもしれない」
「当然だと思います」
瑠璃の返事は、優しかった。
そして、はっきりしていた。
「私は、直人くんと美羽ちゃんのお母さんの代わりになろうとは思っていません」
誠司は顔を上げた。
「代わりにはなれません。なってはいけないと思います。二人にとってのお母さんは、たった一人です」
「白鳥さん……」
「でも、もし許されるなら、別の形でそばにいる大人にはなりたいです。困ったときに話を聞ける人。朝、いってらっしゃいと言える人。帰ってきたとき、おかえりと言える人。そういう存在に、少しずつなれたらいいなと思っています」
誠司は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
瑠璃は続けた。
「それに、私は普通の家庭に憧れていました。でも、高野さんと出会って分かりました。普通の家庭って、最初から完成しているものじゃないんですね」
「ええ」
「失敗しながら、話し合いながら、泣いたり笑ったりして、少しずつ家族になっていくものなんだって思いました」
その言葉は、誠司の迷いを少しずつほどいていった。
それでも、すぐに子どもたちに話す勇気は出なかった。
誠司はまず、直人に話した。
美羽が寝たあと、リビングで二人きりになった夜だった。
「直人」
「何?」
「父さんな、今、会っている人がいる」
直人は一瞬だけ固まった。
けれど、驚いた顔をしたあと、静かに言った。
「再婚するの?」
「まだ、そこまでは決めていない。ただ、大切に思っている人だ」
「……そう」
直人は中学生にしては落ち着いていた。
それが、誠司にはかえって痛かった。
「ごめんな。急にこんな話をして」
「別に、父さんが謝ることじゃないよ」
「でも」
「母さんのことを忘れたわけじゃないんでしょ?」
誠司は言葉に詰まった。
直人は視線を落としたまま続けた。
「だったら、いいんじゃない。父さん、ずっと一人で頑張ってたし」
「直人……」
「ただ、美羽にはゆっくり話して。あいつ、たぶん強がるから」
「ああ」
誠司は深くうなずいた。
その数日後、美羽にも話した。
美羽は最初、泣いた。
「お母さん、いらなくなっちゃうの?」
その言葉に、誠司は胸が潰れそうになった。
誠司は美羽を抱きしめた。
「違う。お母さんはずっとお母さんだ。誰も代わりにはならない」
「じゃあ、その人は何になるの?」
「まだ分からない。でも、美羽に無理に好きになれなんて言わない。会うのが嫌なら、会わなくてもいい」
美羽は涙を拭いた。
「……どんな人?」
誠司は少し迷ってから答えた。
「優しくて、不器用で、普通の生活を一生懸命覚えようとしている人だ」
「大人なのに?」
「大人なのに」
「変な人?」
「少し」
美羽は、泣きながら少しだけ笑った。
そして後日、誠司は直人と美羽を連れて、瑠璃と会うことにした。
場所は駅前の喫茶店。
瑠璃は緊張していた。
帽子も眼鏡もしていたが、手元が小さく震えていた。
「初めまして。白鳥瑠璃です」
直人はしばらく瑠璃を見つめた。
そして、小さく言った。
「どこかで見たことある気がします」
瑠璃の肩がびくりと揺れた。
美羽も首をかしげた。
「テレビに出てた?」
誠司は焦った。
しかし瑠璃は逃げなかった。
ゆっくり眼鏡を外し、静かに言った。
「昔、少しだけテレビに出ていました」
「少しだけ?」
直人が疑うように言う。
瑠璃は困ったように笑った。
「少しではなかったかもしれません」
その瞬間、美羽が目を丸くした。
「え……もしかして、星乃ルリカ?」
喫茶店の空気が止まった気がした。
瑠璃は小さくうなずいた。
「はい。でも今は、白鳥瑠璃です」
直人と美羽は固まった。
誠司も固まった。
数秒後、美羽が叫びそうになり、直人が慌てて口を押さえた。
「声、大きい」
「だって! だって! お父さんの彼女が元国民的アイドルってどういうこと!?」
「僕にも分からない」
誠司は正直に言った。
瑠璃は申し訳なさそうに頭を下げた。
「驚かせてごめんなさい」
直人はじっと瑠璃を見た。
「父さんのどこがよかったんですか?」
「直人」
誠司が止めようとしたが、瑠璃は真剣に答えた。
「私を、星乃ルリカとしてではなく、白鳥瑠璃として見てくれたところです」
直人は黙った。
「それに、家族の話をするときの高野さんは、とても優しい顔をします。失敗もたくさんあると言っていました。でも、その失敗も含めて、二人のことを大切にしているんだなと思いました」
美羽は少しだけ頬を膨らませた。
「お父さん、味噌汁しょっぱいよ」
「知っています」
「洗濯物、たまに変な畳み方するよ」
「知っています」
「学校のプリント、すぐなくすよ」
「それも聞いています」
瑠璃がそう答えると、美羽は少し笑った。
「じゃあ、覚悟してるんだ」
「はい。かなり」
その日の帰り道、直人は誠司に言った。
「父さん」
「何だ?」
「大変そうだね」
「そうだな」
「でも、悪い人じゃなさそう」
それが、直人なりの承認だった。
美羽はもっと時間がかかった。
けれど、瑠璃が何度か家に来て、一緒に料理をしたり、宿題を見たり、失敗して慌てたりするうちに、少しずつ心を開いていった。
決定的だったのは、瑠璃が美羽の給食袋を縫い直してくれた日だった。
不器用な縫い目だった。
けれど、瑠璃は何度もやり直して、最後まで仕上げた。
美羽はそれを見て、小さく言った。
「ありがとう、瑠璃さん」
初めて、ちゃんと名前を呼んだ。
瑠璃は泣きそうになりながら笑った。
その夜、誠司は決めた。
この人となら、もう一度家族を作れるかもしれない。
妻を忘れるためではない。
子どもたちに母親を押しつけるためでもない。
ただ、これからの毎日を一緒に歩きたいと思った。
プロポーズの日。
誠司は高級レストランを予約しようとして、やめた。
瑠璃が望んでいるのは、きっとそういう場所ではないと思ったからだ。
代わりに、二人が初めて長く話した駅前の喫茶店に彼女を呼んだ。
テーブルには、いつものコーヒー。
瑠璃は不思議そうに笑った。
「今日は、何かありましたか?」
「あります」
誠司は緊張していた。
仕事の大きな会議より、直人の担任との面談より、美羽の運動会の保護者競技より、ずっと緊張していた。
「白鳥さん」
「はい」
「僕は、妻を亡くしてから、ずっと父親として生きてきました。もう恋愛なんてしないと思っていましたし、誰かと一緒に人生を歩くなんて、考えられませんでした」
瑠璃は黙って聞いていた。
「でも、あなたと出会って、僕は父親である前に、一人の人間でもあるんだと思えました」
「高野さん……」
「あなたは、普通の生活に慣れていないと言いました。でも、僕も完璧な父親じゃありません。うちは普通の家族かもしれないけれど、全然完璧じゃない」
誠司は小さな箱を取り出した。
瑠璃の目が揺れた。
「それでも、僕はあなたと一緒に、その不完全な毎日を過ごしたいです。直人と美羽と、あなたと、四人で少しずつ家族になっていきたい」
誠司は箱を開けた。
派手な指輪ではなかった。
けれど、誠司が何度も悩んで選んだ、瑠璃に似合う穏やかな輝きの指輪だった。
「白鳥瑠璃さん。僕と結婚してください」
瑠璃はすぐには答えなかった。
涙が一粒、頬を伝った。
そして彼女は、小さく首を横に振った。
「私で、いいんですか?」
「あなたがいいんです」
「元アイドルだった私でも?」
「はい」
「普通の生活が下手な私でも?」
「はい」
「卵焼きがまだ少し焦げる私でも?」
「それは僕も焦がします」
瑠璃は泣きながら笑った。
それから、まっすぐ誠司を見つめた。
「私も、家族になりたいです。高野さんと、直人くんと、美羽ちゃんと。お母さんの代わりではなく、白鳥瑠璃として、この家に入りたいです」
誠司は深くうなずいた。
瑠璃は左手を差し出した。
「よろしくお願いします」
誠司は震える手で指輪をはめた。
その瞬間、瑠璃はもう一度泣いた。
ステージの上で何万人から拍手を浴びた日よりも、賞をもらった日よりも、引退を発表した日よりも、その小さな喫茶店での時間が、彼女にとって一番温かかった。
後日、誠司は直人と美羽に結婚を伝えた。
美羽は少しだけ泣いた。
直人は大きくため息をついた。
「やっぱり、そうなると思ってた」
「反対か?」
誠司が聞くと、直人は首を横に振った。
「反対じゃない。ただ、近所にバレたら大変だね」
美羽も涙を拭きながら言った。
「お義母さんが元アイドルって、絶対大騒ぎになるよ」
瑠璃は慌てた。
「ご、ごめんなさい。なるべく目立たないようにします」
その言葉に、直人と美羽は同時に言った。
「無理だと思う」
瑠璃は固まった。
誠司は吹き出した。
直人も、美羽も、つられて笑った。
瑠璃も、少し遅れて笑った。
こうして、高野誠司と白鳥瑠璃は結婚することになった。
理由は、特別な奇跡があったからではない。
元国民的アイドルだからでもない。
普通の父親だからでもない。
互いの孤独を知り、互いの不器用さを受け入れ、それでも一緒に食卓を囲みたいと思ったから。
そして何より、四人で少しずつ家族になっていきたいと願ったからだった。
お義母さんは元アイドル。
けれど、その前に。
彼女は、白鳥瑠璃という一人の女性だった。
そして高野家は、彼女を家族として迎えることにした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は番外編・後編として、高野誠司と白鳥瑠璃が交際から結婚、そしてプロポーズへ至るまでを描きました。
二人の結婚は、華やかな芸能界の物語ではなく、不器用な大人同士が互いの孤独を受け止め、少しずつ家族になろうとする選択でした。
直人と美羽にとっても、瑠璃は母親の代わりではなく、新しく家族に加わる大切な存在です。
本編で描かれた「お義母さんは元アイドル」という少し騒がしくも温かい日常が、どうして始まったのかを楽しんでいただけていたら嬉しいです。
人気が出たら、続編として町内会編、学校行事編、芸能界旧友来訪編なども書いてみたいと思っています。
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