第三十六話 無音の審判、最後の賭け
灰の匂いが、澱みのようにまだ残っていた。
光秀は、重い口を開いた。
肺に冷え切った空気が入り込む。
喉がわずかに上下し、舌が、必死に言葉の形を探し求める。
だが、音にならない。
喉の奥で、乾いた音がひとつ、爆ぜるように鳴った。
それだけだった。
光秀は、諦めたようにゆっくりと口を閉じた。
奥の間で、陶器が畳に触れる小さな音がした。
義昭は、最後までこちらを見ようとはしなかった。
座敷の前で、光秀は足を止めた。
畳の縁が、剃刀のように真っ直ぐ、信長の方へと伸びている。
その先に、信長がいた。
ただ、座っている。微動だにしない。
光秀は一歩、踏み出した。
足音が畳に吸い込まれ、消える。
もう一歩。
歩いても歩いても、距離は一向に縮まらないように思えた。
三歩目で、ようやく定位置に届く。
光秀は膝をつき、浅くなる息を整えた。
意を決して顔を上げる。
そこには、一枚の白い紙があった。
何も書かれていない。ただ、そこに置かれている。
信長の手が、幽霊のように動いた。
筆を取る。だが、墨は付けられていない。
筆先が、乾いた音を立てて紙に触れた。
さらさらと、紙の上をなぞる。
中央ではない。端の、何もない余白。
筆は迷いなく動く。音だけが、執拗に続く。
光秀は、それを凝視していた。
紙は白紙のまま。なのに、筆は止まらない。
やがて、その奇妙な動きが途切れた。
信長は、静かに筆を置いた。
「……書くことは、もう無いな」
それだけを、吐き捨てるように言った。
光秀は大きく息を吸ったが、ついに声は出なかった。
二条御所。
闇が深い。
義昭の顎が、ゆっくりと機械的に動く。
空の器を口に当て、何もない口の中で、
何かを噛み砕くような「音」だけを立てている。
カリ……カリ……と、一定の間隔で続く乾いた音。
光秀は、暗闇の中でその音を聞き続けていた。
喉が、わずかに震える。
だが、音は出ない。
光秀の目の奥には、あの白い紙が焼き付いて離れなかった。
何も書かれないまま。
光秀は、ただの影のように動かなかった。




