第三十四話 不在の評定、透明な影
朝の光が、畳の上で薄く揺れていた。
光秀は、いつものように評定の間へ向かった。
草履の音が、廊下にぽつり、ぽつりと不規則に落ちていく。
襖を開ける。
公家たちが整然と並び、藤孝が静かに控えていた。
光秀は、己の席へと歩を進める。
だが、そこには──。
見知らぬ者の名札が置かれていた。
墨の匂いも新しい、別の名が紙に躍っている。
藤孝が、わずかに視線を伏せて頭を下げた。
「……ああ、これは。席が足りませなんだな」
それ以上は、何も言わない。
光秀の席は、最初から用意されていなかった。
誰も、顔を上げない。
居並ぶ者たちの視線は、一度として光秀の肌に触れることはなかった。
評定は、そのまま淡々と始まった。
光秀は立ったまま、己の影が畳に落ちきらず、淡く透けているのを凝視していた。
安土の陣へ向かう。
廊下の奥から、湿った笑い声が漏れていた。
襖を開けると、信長が家臣たちと談笑の最中であった。
光秀が足を踏み入れても、誰も話を止めない。
笑い声が、途切れることなく続く。
信長は、漆塗りの盃を手にしていた。
中身のない、空の盃だ。
一度、盃の縁を指先で弾く。
コン、と乾いた軽い音が響いた。
その直後、信長は笑みを湛えたまま、
その空の盃を光秀の眼前へ差し出した。
まるで、そこに「誰か」が座っているかのように。
だが、盃に酒が注がれることはない。
信長の視線は、光秀を射抜いているようでもあり、
光秀の背後にある虚無を見つめているようでもあった。
「……ひどく、乾いておるな」
それだけを言い、手元に盃を戻す。
家臣たちの笑い声が、再び部屋の空気を塗り潰した。
光秀の喉が、引き裂かれるほどに乾いていた。
二条御所へ戻る。
夜気が、肌を刺すように冷たい。
草履には、昼間の泥が粘り強く張り付いたままであった。
奥の間から、米を噛む音が聞こえてくる。
カリ、ポリと、乾いた小さな音。
光秀が部屋に入ると、義昭は背を向けたまま、
光秀の足元の草履を、ただじっと見つめていた。
「十兵衛。……その泥は、もう乾かぬぞ」
光秀は、答えなかった。
草履の縁から、重みに耐えかねた泥が、ぽたりと落ちた。
畳の上に、黒い染みがじわりと広がる。
義昭は、米を噛み続けていた。
光秀は、己の影が畳の上にうまく落ちていないことに気づいた。
輪郭がぼやけ、背景に溶け込もうとしている。
奥からは、義昭の咀嚼音だけが、
断続的に、冷たく響き続けていた。




