第三十三話 塗り潰された名前
藤孝が、返状の束を静かに差し出した。
公家、寺社、町衆──どれも見慣れた筆跡のはずだった。
だが。
宛名にあるはずの「明智十兵衛光秀」の名は、
すべて……墨で、一筆のもとに塗り潰されていた。
太く、無慈悲な黒い帯が、紙の上を横切っている。
藤孝は沈痛な面持ちで言った。
「……届いたときには、すでにこうなっておりました」
光秀は束から一枚を取り、その墨跡を指でなぞった。
冷たい。そして──。
「……湿っている」
指先に、じわりと黒が移る。
書いた者の体温がまだ残っているかのような、生々しい湿り気。
「指が、汚れたな」
光秀はそれだけを言った。
義昭は奥で、淡々と米を噛んでいた。
乾いた咀嚼音だけが、御所の静寂に深く落ちていく。
光秀は、独り街へ出た。
京の通りには、織田の兵が溢れかえっていた。
だが、かつての戦のような喧騒はない。
兵たちは淡々と道を掃き、溝をさらい、荷を運び、
驚くほど整然と立ち働いている。
怒号も、下品な笑い声もない。
ただ、冷徹なまでの「規律」だけが、街の空気を支配していた。
光秀が歩くと、兵たちは水が引くように自然に道を開けた。
だが、その視線は決して光秀に向かない。
誰も、彼を見ようとはしない。
足元の石畳が、黒く汚れた自らの指先と同じ色に見えた。
遠くで、兵が一斉に足を踏み鳴らす音が響いた。
ドォン、と地面が低く震える。
その微かな震動が、光秀の胸の最奥まで届き、揺さぶった。
夜。
御所の外からは、織田の軍勢の勝鬨が上がった。
豪快な笑い声。肉を焼く香ばしい匂い。
酒の盃が威勢よくぶつかる音。
「生」の圧倒的な気配が、夜の闇を押し広げていた。
対して御所の内側では、義昭が昼間と同じ米を噛んでいた。
カリ、ポリと、乾いた小さな音。
外の狂乱に近い喧騒と、内の墓所のような静寂。
それが、薄い壁一枚を隔てて隣り合っている。
義昭が、ふと呟いた。
「外は、随分と騒がしいな」
光秀は、返事をしなかった。
闇の中で、黒く汚れた自分の指先だけが、異物のように浮いて見えた。
御所のすぐ外で、兵たちが一斉に、腹の底から笑った。
光秀は、いつまでも自分の指先を見つめていた。
そこにある黒い汚れだけが、
この闇の中で、ひどく鮮やかに浮き上がっていた。




