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【休載中】(初稿版)本能寺は止めない、だが光秀は死なせない 〜未来を知る将軍・足利義昭、戦国を動かす〜  作者: 細川 雅堂
第七章 無音の包囲網

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第三十三話 塗り潰された名前

藤孝が、返状の束を静かに差し出した。

公家、寺社、町衆──どれも見慣れた筆跡のはずだった。


だが。

宛名にあるはずの「明智十兵衛光秀」の名は、

すべて……墨で、一筆のもとに塗り潰されていた。


太く、無慈悲な黒い帯が、紙の上を横切っている。


藤孝は沈痛な面持ちで言った。

「……届いたときには、すでにこうなっておりました」


光秀は束から一枚を取り、その墨跡を指でなぞった。

冷たい。そして──。


「……湿っている」


指先に、じわりと黒が移る。

書いた者の体温がまだ残っているかのような、生々しい湿り気。


「指が、汚れたな」


光秀はそれだけを言った。

義昭は奥で、淡々と米を噛んでいた。

乾いた咀嚼音だけが、御所の静寂に深く落ちていく。



光秀は、独り街へ出た。

京の通りには、織田の兵が溢れかえっていた。


だが、かつての戦のような喧騒はない。

兵たちは淡々と道を掃き、溝をさらい、荷を運び、

驚くほど整然と立ち働いている。


怒号も、下品な笑い声もない。

ただ、冷徹なまでの「規律」だけが、街の空気を支配していた。


光秀が歩くと、兵たちは水が引くように自然に道を開けた。

だが、その視線は決して光秀に向かない。

誰も、彼を見ようとはしない。


足元の石畳が、黒く汚れた自らの指先と同じ色に見えた。


遠くで、兵が一斉に足を踏み鳴らす音が響いた。

ドォン、と地面が低く震える。


その微かな震動が、光秀の胸の最奥まで届き、揺さぶった。



夜。

御所の外からは、織田の軍勢の勝鬨かちどきが上がった。


豪快な笑い声。肉を焼く香ばしい匂い。

酒の盃が威勢よくぶつかる音。


「生」の圧倒的な気配が、夜の闇を押し広げていた。


対して御所の内側では、義昭が昼間と同じ米を噛んでいた。

カリ、ポリと、乾いた小さな音。


外の狂乱に近い喧騒と、内の墓所のような静寂。

それが、薄い壁一枚を隔てて隣り合っている。


義昭が、ふと呟いた。

「外は、随分と騒がしいな」


光秀は、返事をしなかった。

闇の中で、黒く汚れた自分の指先だけが、異物のように浮いて見えた。



御所のすぐ外で、兵たちが一斉に、腹の底から笑った。


光秀は、いつまでも自分の指先を見つめていた。

そこにある黒い汚れだけが、

この闇の中で、ひどく鮮やかに浮き上がっていた。

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