第三十一話 見えない壁
安土城の門は、開いていた。
門番は深く頭を下げ、家臣もすれ違うたびに丁寧に礼をする。
だが──誰も、目を合わせない。
光秀の草履が畳を擦る音だけが、廊下に細く、虚しく伸びていく。
すれ違う家臣たちは、まるでもののけのように、呼吸の音すらさせなかった。
光秀の耳の奥で、自分の心臓の音だけが、
ドクン、ドクンと、畳を叩くように低く響いていた。
安土の一室。
秀吉は、一心不乱に算盤を弾いていた。
顔を上げぬまま、光秀へ声をかける。
「おお、光秀様。京は……どうでしたやろな」
何でもない世間話の調子。
だが、その視線は算盤の珠に落ちたまま動かない。
パチリ。
秀吉は、合っているはずの珠を、ひとつだけ弾き直した。
その直後──。
秀吉は壊れた珠を、指先でゆっくりと一周なぞった。
二呼吸。
満足げに小さく頷くと、顔を上げないまま言った。
「……よう動いとりましたわ」
光秀の返事は、秀吉が再び弾いた算盤の音に吸い込まれて消えた。
パチリ。パチリ。
大広間。
信長は、広げられた地図を凝視していた。
光秀が、じりじりと近づく。
信長は、顔を上げない。
「信長様──」
「光秀。京は、もうよい」
その一言だけが、冷たく床に落ちた。
光秀の声は、地図の上を滑って消えた。
信長は、最後まで光秀を一度も見なかった。
光秀が城を出る。
ふと振り返ると、巨大な城門は──
いつの間にか、ぴたりと閉じていた。
音は、なかった。
白く乾いた地面に、光秀の影だけが、
拒絶された者のように長く伸びていた。




